満月の涙

藍色の空に、満月が姿をあらわすと、私はゆっくりと起き上がって空を見上げた。
空気が澄み渡っているからか、空に散りばめられた小さな星たちも優しい光を解き放っている。

その空の色によく似た浴衣を着て、私は聖司の部屋へと向かった。
絵描きの彼は、こんな綺麗な満月が姿をあらわしたときが、一番欲情するらしい。
それは、絵に対しても、私に対してもだ。

インターフォンを押すと、聖司が鍵を開けてくれる。
浴衣姿の私を見た彼は、優しく微笑むと私をキャンバスの前に座らせた。

「綺麗だな、ミチルは」

聖司はそれから約一時間ほど、キャンバスに向かっていた。
時折、外からの風が優しく吹き込んでくるのを感じながら、窓から見える空を見上げる。
満月と星の光を見つめていると、不意にそれは流れた。

「流れ星」

自分の目で見たのは初めてだった。
一瞬のことすぎて、それが本当に流れ星なのか、理解するまでに数秒かかってしまった。

「ミチルも見えた?」

「うん、聖司も?」

「あぁ」

キャンバスから離れ、私の隣に立った聖司は、そのまま私にキスを落とす。

「お願い事、した?」

聖司の甘い視線には、いつも惑わされる。

「できなかった。聖司はしたの?」

「したよ」

聖司は私の手を引いて、そのままキャンバスの前へと私を連れてきた。

そのキャンバスの中に、私はいなかった。
満月と満天の星たちが、キャンバスの中で輝いているだけ。
満月の夜、私は何度もこの前に座って、何度も聖司に抱かれたというのに、そこに私は描かれていなかった。

その絵は確かに美しかった。
私なんて描かれていない方が、その満月の美しさがより伝わるのかもしれない。
聖司が私を通して見ていたのは、この美しい空だけだったのだ。
私がここに座っていなくても、きっとこの絵は完成していた。
まるで、自分の存在を否定されたような気分だった。

浴衣姿で座っていてほしいと言うから、ずっとそうしていたのに。

零れそうな涙を聖司には見られたくなくて、聖司の手を振りほどくと、私は彼に背を向けた。
それでも、涙は止まってはくれない。

「欲しかったのは、その涙だ」

聖司は、私の涙を見ると、再びキャンバスに向かっていた。

この涙が欲しかった?

聖司は、「今度こそ完成だ」と言うと、私の涙をそっと指で拭ってくれた。

キャンバスの中には、先ほどまでは描かれていなかったものが描かれていた。
満月のすぐ側を流れる川のようにも見えるそれは、とても優しい世界を作り出していた。

「俺はミチルを描くことなんてできないよ」

「どうして?」

「だって俺は、ミチルを目の前にしたら、いつも欲情してしまうから。そんなミチルを、他の人には見せたくはない。だから、この空を見ながら、ミチルの涙を描けて嬉しいよ」

「これは、私の涙なの?」

「あぁ、そうだ。ミチルの涙。いつも俺の世界を見守ってくれてる、優しいミチルの涙だ」

この涙が流れる先には、いつも聖司がいてくれる。だから、安心して涙を流せるのかもしれない。

「私の涙、なんだね」

「流れ星にお願いしたんだ。この絵を完成させる、とっておきの何かをくださいってね」

「それが、私の涙?」

「あぁ」

聖司は優しく微笑んで、私の肩を抱き寄せる。
今度は、幸せの涙が頬を伝って流れた。


fin

いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。