希望の国のマリオネット

溜め息をひとつ零す。
そうしても、何も変わらないのは百も承知だったけれど、それでも何か変わる気がしてた。

「亜美、そろそろ行くよ」

朋也が階下から私を呼ぶ。
憂鬱な気持ちを押し殺して、鏡の前で笑う練習をすると、階段を降りた。

朋也の前では、いつも笑顔でいられる。もちろんそれは、偽りの笑顔なのだけれど。
朋也の顔を見るたびに、自然とその笑顔が零れるのだ。ひとりになると、溜め息が自然と零れるように。

「ごめんね、お待たせ」

朋也もまた、私に笑顔を向けてくれる。
この笑顔が本物なのか偽物なのか、私にはわからなかった。

昼間の太陽が冷め切らないアスファルトから、熱気がムンと伝わってくる。

外に出ると、あの部屋にいる自分よりは少しだけ自由を感じることができるから、好きだった。
風を感じるからなのか、この暑い空気がそういう気分にさせてくれているのか、それはわからない。

ただいつもあの部屋で、朋也のためだけに最良の妻を演じている自分が堪らなく嫌なのだ。
かといって、あの部屋を飛び出す勇気は私にはない。
時々朋也が連れ出してくれるこの外の世界が、私の憧れの世界だった。

いつからそうなってしまったんだろう。
隣を歩く朋也の顔を見つめながら考える。
きっと、出会ったときからだ。
嫌われたくなかった。
だから彼が望むような妻でいようと、自分自身で自分のことを操り続けてきただけなのだ。

「着いたぞ」

朋也が連れて来てくれたお店は、先日オープンしたばかりのイタリアンレストランだった。
朋也は都内にいくつものお店を出している。彼が成功するたびに、心に虚しさを感じるのは何故だろう。
何不自由ない生活だ。朋也が私に対して反対しているのは、外で働くことだけだ。
忙しくなるばかりの朋也に対し、日々偽りの笑顔がうまくなる私。
不自由のない生活のはずなのに、希望を感じることができない生活だ。

席に着くとすぐに食前酒と前菜が運ばれてくる。
グラスをカチンと合わせ、食前酒を飲むと私はまた笑みを浮かべた。

「今夜は最後の晩餐だ」

「え?」

朋也の言おうとしている言葉の意味がわからなかった。
窓に映った私の偽物の笑顔は、まるで仮面のように張り付いたままだった。

「いつもその笑顔なんだな」

悲しそうに笑う朋也は、本当はずっと私の心の中までお見通しだったのかもしれない。

「そんなことないよ」

否定しても、きっと私の言葉は朋也には響かない。
わかっているのに、私は浮かべた笑みを崩すことができなかった。

「亜美から笑顔を奪ったのは、俺だな。済まない」

「だから、そんなことないってば」

どれだけ偽りの笑顔を見せれば、私は自分の中の嘘を捨てることができるのだろう。
思い切って捨てなければ、未来は何も変わらない。だけど私は、朋也の笑顔を曇らせるのだけは、何よりも望んでいなかった。

「無理して笑わないでほしいんだ。辛いときは辛いと言って欲しいし、泣きたいときは泣いて欲しい」

きっとそれは、朋也の最後のお願いなのかもしれない。
残りの食前酒を口にする。

いつも、笑顔を作ることで大切なものから逃げ出していた私。
逃げてばかりいては、希望いっぱいの未来なんて夢見ることができない。
偽りの国で、偽りの自分を演じていても、何も変わらないのだ。

自分自身を変えることができるのは、自分だけ。
未来を希望がたくさん詰まったものにするのも、マリオネットでいるだけの人生を選ぶのかも、自分自身なのだ。

「朋也、私、」

笑顔のままのはずなのに、頬を涙が伝って濡らす。
朋也はそんな私の涙を優しく拭ってくれた。

「やっと泣いてくれたね」

優しく微笑む朋也の手が、私の手を包み込む。
そのまま抱きしめられると、もう涙を我慢することはできなかった。

「亜美は人形じゃないんだ。だから俺はこの先もどんな亜美も支えるつもりだ。だから、もうそんな笑顔は作らないでほしい」

私はマリオネットじゃない。
希望の国へ行けるのは、自分のことを大切にしている人間だけだ。

マリオネットが踊る世界は、偽りの国。
私は、希望の国へ行きたい。
大切な人と、笑える世界へ。

「美味しいね、これ」

「だろう?」

自然と笑みが零れる。
それは何も偽ることのない、優しい笑顔だった。


fin


いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。