今年凄かったリリックライター十傑+22選【歌詞オタクの選ぶ2022年決定版】

ようこそバーボンハウスへ。ここでは批評家気取りの歌詞オタクが独断と偏見で選んだ今年凄かったリリックライター特集をするよ。推しがランクインしてなかったり評価が不当に低かったりするかもしれないけれど、僕も世界中のアーティストを網羅しているわけではないから知らない子がいたり、個人的なセロリの好き嫌いがあったりするのは否めないので、こんなランキングは認めないという熱いパッションをお持ちの良い子ズは是非その胸に秘めた想いの丈文章に書き殴って欲しい。僕も楽しいし、たぶんアーティストさんもエゴサが捗って楽しい。まぁ、かくゆう僕の評価軸すら基本ブレブレなのですが、色々試行錯誤したり改めて聞きまわったりを繰り返したりしたのでわりと面白い感じの記事にはなっていると思います。自画自賛。この記事が新たな音楽との出会いの切っ掛けになったり、今日まで聞いていた音楽の新しい魅力に出会える切っ掛けになれるかもしれない事を願いまして。

ゆっくりしていってね!

第一席 やくしまるえつこ

僕の存在証明/やくしまるえつこ

相対性理論と共にこの宇宙で育まれ、ヴィーナスとジーザスと共に文明を築いてきた我々人類にとってやくしまるえつこが優れたソングライターである事は今更ここで僕が言及するまでもないのだけれど、それでももう一度敢えて言及せずにはいられないほどにこの作品の完成度は圧巻だったのである。2000年代から特にここ数年はネット音楽の普及に伴ってネオシティポップやHIPHOP等のアンダーグラウンドな界隈で熟成されてきた音楽が広く認知されてきたし、それに伴ってリリックライティングの技巧化は飛躍的に進んできた。一音のメロディに対して一音を基本と据えるのが良しとされたリリックライティングは次第に二音、三音を刻む事が常となり、音の形態を揃えるライムと共に、メロディーのリズムの根幹を司る意味合いにおいて大きな役割を担うようになってきたように思う。

そんな中で僕がやくしまるえつこというソングライターに抱いていた印象は、伸びやかなフローに重きを置いた中道的な技巧的作家性の持ち主だった。自然なフローの中で技巧的なライティングを展開する事はあっても、技巧で自然な流れをゴリ押すような力業は用いないスタイリッシュさを強みとしている。つまり決して無理をしないスタイリッシュな技巧派だ。何故こんな話をしているかと言うと、『僕の存在証明』の技巧に拘ったアプローチはやくしまるえつこが描いてきた作品群の技巧的な遍歴を考えると無骨でさえあると感じたからだ。もちろんそれは『やくしまるえつこのフロー』として考えた時という注釈のつくわずかな差異でしかないし、誤差と言っても差し支えない。というかいきなり脱線するけど、『誓いをたてたあの日の』で『た』のロングノートの母音『あ』のリブレスで『あ』を表現するとかいう超技法…いやなんだこれ。『お』母音で体言止めして『を』をリブレスする技とかはたまに見るけど『あ』でやるやつ初めて見たぞ。こんな技あったんか。真似する機会が全く思い浮かばない。なんだこれ。

ともあれ、リリックライティングは無限に等しい、或いは零に等しい選択肢から可能性を剪定していく作業だ。言葉を綴る事によって、逆説的に膨大な言葉で覆われた殻を剥ぎ取り、感情の真相の探求へと至る。磨き上げた感受性も、研ぎ澄ませた技巧も、感情の真相へ至るための足掛かりに過ぎない。そして、本作においてやくしまるえつこは明らかに意図的に技巧的なライムを多用し、それを作品の骨子としている。何らかの意図を以て本来のリズムを歪ませてでも技巧的である事を押し通し、技巧そのものによって表現をしようとする試みを行っているのである。ここから先は想像の域を出ないが、恐らくその意図は鏡の技巧的表現だと考えている。より厳密に言うのであれば『無限に続く循環としての合わせ鏡』だ。無骨なまでに音とリズムを揃え、それによって対照的な合わせ鏡を構築し、無限に続く鏡像の循環を象った。或いはそれは無限に繰り返す証明と摩耗の物語の象形である。或いはその光景は賽の河原で石を積み上げ続ける童の象形にも等しいかもしれない。

本作が劇場版主題歌となっている幾原邦彦監督の『輪るピングドラム』(僕は10年前のTVアニメシリーズは見たけど、まだ劇場版を見れていないのでネタバレは御配慮頂けると嬉しい)の作品群において、『選ばれなかった子供達』は最も重要なモチーフであると言える。そんな中で『条件付きの愛情』をオブラートにしつつもきっちり表した『条件内の肯定』というフレーズがさらっと綴られてるあたりにもやくしまるえつこの感性と地力の高さが伺えるわけだが、やくしまるえつこの作家としての強い意思が垣間見える点は、少なくとも言葉の表層で『君に何かを背負わせようとする事を徹底的に廃そうとしている事』にあると僕は考えている。

掲題である『僕の存在証明』としての『君』を無限に続く地獄の象形の特異点として据えながらも、『君』に何らかの役割を与える事は徹底的に拒んでいる。『君が救済である事』も『君が崇拝の対象である事』も僕は是としていない。『この道は君へと続く』と言いながらも、それが僕が列車に乗る理由ではない事を強調する為に『どうしてかな』という疑問符を前置きに置いている。救済の概念が物質的であるにせよ心象的なものであるにせよ、例え心象的には救済の対象であったとしても、それを認めてしまえば、それを言葉にしてしまえばそれが『条件』になってしまう事を僕は十二分に理解している。それだけは彼は絶対に選ぶことをしない。それは『承認を得られない世界で』『福音を与えてくれない世界で』『それでも笑う君の姿』に憧れたからに他ならない。けれど、だからこそ『その衝動は決して崇拝であってはならない』。やくしまるえつこはその事を十分に承知している。

では、その衝動の解足り得る概念は何なのか。そう、『意地』だ。救済や崇拝による根拠があるわけでもない、承認や福音による動機があるわけでもない。何の正当性も理由も持ち合わせない子供じみた『意地』。『それでも君が笑った』ただそれだけの事を根拠に無限に続く地獄の象形を選び、『それでも君は笑った』ただそれだけの事を動機に無限に続く地獄の象形を歩む、ただの意地。真相と呼ぶにはあまりにも無骨で、あまりにも子供じみた、けれどそれ故に何よりも誇り高く気高い意思の象形。それが僕の存在証明という作品であると僕は考えている。

数多の言葉を削り切り、選び抜いた言葉が紡ぐ感情の真相に移る『君』という存在証明の姿が齎す感慨は、それはもはや言葉ならざる感情の象形だ。いつの時代も音楽と共に歩んだ言葉は、そんな言葉ならざる何かに至るために綴られてきた。その価値観の旅路を踏みしめ、綴りぬいた素晴らしい作品の描いた軌跡に今一度最大限の敬意を表したい。

第二席 ACAね feat. Mori Calliope

綺羅キラー ずっと真夜中でいいのに。feat. Mori Calliope

ていうか疲れたんで評論家口調やめます。僕には向いてない。いにしえのロックスターにBLANKEY JET CITYというバンドを率いていて浅井健一(丸の内サディスティックのベンジー)という才能だけで音楽やってて椎名林檎とかにも影響を与えてた素行の悪い尾崎世界観みたいな感じで男性ファンにも女性ファンにも大人気だったおじさんがいて、映画の主題歌で突然何の脈略も無く『腹筋』とか言い出すおじさんだったんですが、それと同種のえげつなさを感じさせてくれたのが『お勉強しといてよ』の『健康でいたい』のフレーズだったりしました。あと歌詞にわざわざ『うおおおおお』って書くところな。デビュー当時から普通に天才だとは思っていたのですが、『お勉強しといてよ』はこいつはヤバい(頭が)っていう予感が確信に変わった瞬間でした。僕の知る限りアリーナ級の箱で納豆巻きとか昆布だしとか素面で歌うアーティストは、…いやうんごめん今結構いるわ(岡崎体育とヤバTと打首獄門同好会などを眺めながら)。ちなみにMori Calliopeさんはニートtokyoで何度か動画を見たことがあったぐらいだったのだけれど、凄くクールなfeatをしていたので滅茶苦茶興味湧いてきてYoutubeの動画も見に行ったんですけど、普段は普通にテンション高い元気なお姉ちゃんで温度差で普通に風邪ひきました。

ACAねの技巧的音楽性の基礎は明らかにPOPSで培われたものではなくて、ラップシーンを基礎としていそうで、LOW HIGH WHO?とか術ノ穴みたいな実験的な音楽性の色濃いインディーズシーンに近い基礎を感じるんですれど出所がマジでよくわからんです。あれだけのスキルがあって何らかのコミニティに属していたのなら嫌でも担がれそうだけれど、もしかしたら出身が日本じゃないのかもしれない。いったいどこに落ちてたんですかこの天才…。

とうわけで、綺羅キラーなわけなんですけれど、それなりに色々かっ飛ばして表現するから難解になってしまう歌詞のテーマがどこにあるのか考えていたら「あ、これACAねの日記か」という感じの結論に至りました。一個一個のギミックを深掘りしていくのも楽しそうなんですけど、それはそれで記事一個分ぐらいになりそうなんで今回はやめときます。そういえば全然関係ない話なんですが、8年ぐらい前にSIAのChandelierという曲がスマッシュヒットしてたんですが、サビの『I goona swinging from the chandelier』というフレーズは首吊りのスラングであるらしくて和訳界隈が俄かにざわざわしていたのを唐突に思い出しました。まぁ、全然関係ない話です。ぶら-ん。

漫画家漫画とか好きな方もいると思うんですが、これはアーティストの私的な部分を私小説なアプローチを以て綴った作品でアーティストアートといったところでしょうか。Mr.Childrenの桜井が『光の射す方へ』とか『♯2601』とかでよくやってたやつですね。もっとまともな例えは無かったのか。

『綺羅キラー』もアーティストの人間的な脆い部分というものに焦点を強く当てていて、特に英語リリックの部分は『(リリックを)書きたくない』『マイクを持ちたくない』『君の歌が好きそう(煽り文句の常套句にされている自分に対する俯瞰)』といった弱音とも悪態ともつかない言葉が延々と綴られているわけです。英語だったらパッと見何言ってるのかわからないからやりたい放題やって良い。わかる。『バイトだったらどこでもよくない?』というフレーズは『(苦しいんだったら)仕事は別に音楽じゃなくたって良くない?』『音楽をやるのは自分でなくても良くない?』という自身への問いでもあると思うし、ACAねでも音楽をやってる自分が許容できなくなる時とかあるんだなあ…そりゃあそうかあ…と思ったりもしました。それでも結局のところ『やめたいこと(音楽)をやらなきゃ満たされない』何かがあったりするのは音楽に限らず創作家業を志した事のある人には馴染み深い情動かと思うんですが、マジでただのACAねの日記な気がしてきたゾ。

MVは子供時代に爆売れしたが一線を退いて表舞台から姿を消して普通の生活を送っていたアーティスト『ニラちゃん』と、その姿を追っていたファンの『キラちゃん』が高校(中学という事はないと思う)で再会。『キラちゃん』の猛アタックによって『ニラちゃん』は再びアーティストとして小さいながらもステージの上に立つ。といった感じの物語だ。

夢物語だなあと思った。『キラちゃん』にとってではない。これは『ニラちゃん』にとっての夢物語だ。電車のポップに掲載されようがカップみそ汁のパッケージになろうがファッションの模倣者が出現しようが、一線を退いて3年か5年か、少なくとも『あの人は今…』と言われる程度の時間が経過している中で、存在を覚えているどころか変わらない熱量で熱心に愛してくれるリスナーなんて、よほどキワモノのの物好きと変わり者を除けば幻想でしかない。最終的にアーティストを殺すのは大人の事情でもメンバーの不和でもない。リスナーの『忘却』だ。一年の間でも何十、何百という音楽ユニットが生まれては消え、何百、何千という曲が生まれては星の数ほど膨大なアーカイブの中に埋もれていっている。そういった意味でアーティストにとってのリスナーは『killer』ですらある。飽きられれば、幻滅されれば、記憶に残り続ける事ができなければ、アーティストが心血を注いだ足跡は消え失せ、驚くほどに簡単に他の何者かに取って代わられる。それは時代の常ですらある。『繋いだって綻ぶし』というフレーズに象徴されるようにアーティストとリスナーの関係に限らず人の縁というのは儚いものなのかもしれません。『手を取り合い 泡と詠み』とかあさきも歌ってたし。

『ぞんざいでアップダウンな現状』がACAねの作家性の象形であるなら『今ヒット中』というフレーズには、それがたまたま受け入れられているだけの刹那的な現象でしかないという理解と諦観と享受と色んな感情がこもっているような感じもします。まぁ、そんな事を考えてダウナーな気分に落ちてた方が曲を作る筆が進むのが作家の業で、そうやって作られた渾身の作品も思うような結果が得られるとは限らないのもまた現実で、そうやって人気が衰えて緩やかに忘れられていくだけならいっそ一思いに落ちるところまで落ちたくなる衝動に秒で落ちていくのもアーティストの生体だったりするのかもしれません。あれやっぱりただのACAねの日記なのでは。

最近はビジュアルで売り出すよりも顔を秘匿してミステリアスさを演出するという手法が旬なようで、ACAねもそんなアーティストの一人なのですが、『素顔を君に送りたいけど飽きられてしまうから』とかしれっとねじ込んでくるあたりリリックライターとしての器の大きさを感じます。ヤミー(美味しい)エネルギーの下りはMVのシーンも含めて考えるとすると『いつもファンレターありがとううううう』みたいなメッセージも込められてそうですね。自由すぎる。いいぞもっとやれ。

『綺羅キラー』はリスナーを象徴する言葉であって、それは『忘却による生殺与奪』のメタファーであるわけだけれど、そうであるのならリスナーはKillerにもなり得るし、同時にアーティストを照らす綺羅星(しゃもじ)にも、アーティストを生かす為の戦友にもなり得る。弱音も悪態も酸いも甘いもをも語りつくした上での『もっと甘えたいけどー-?』の問いかけは、我々リスナーがどう応えてくれるのかを問う問いかけなのかもしれない。願わくはMVのニラちゃんとキラちゃんとまでは行かなくてもアーティストとリスナーの関係は良い関係であれば良いなと思うます。そんな夢物語は夢落ちじゃないと良いな!ぶらー--ん。ぶらー--ん。

第三席 米津玄師

KICK BACK/米津玄師

滅茶苦茶THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのチバっぽいなって思ったてたらわりと同じ事思ってる人がいて安心しました。てか、やっぱ凄いなこの人。米津玄師に関しては適当な事を言うとマツコデラックスよろしくネット社会の闇から狙撃されるという風の噂を聞いたので特にあんまり言及しないんですけれど、感受性まで筋肉繊維で出来ている自己啓発界隈ご用達の和製アドラー心理学みたいな粗悪なスピリチュアルが大手を振って書店に並んでいた時代があった事を鑑みると、今を生きる少年少女達っていうのはそういった粗悪な言説に最も振り回されてきた世代なんかなって思ったりもしました。

中でも我々のような世界の暗黒面で生きる住人に嫌われているのが、世界三大欺瞞として名高い『止まない雨は無い』『明けない夜は無い』『置かれた場所で咲きなさい』の糞の盛り合わせ三点セットなわけですが、このモラハラ三銃士に心身を痛めつけられ、だからこそこの欺瞞を駆逐する為の戦いに挑んできた存在こそが今を生きるアーティスト達であるのかもしれないと考えたりもします。実際にマイナーなシーンではこういった『軽薄な自己啓発メッセージ絶対殺すマン~殺意マシマシキリングマシンMkⅡ~』みたいな作品が結構な頻度で爆誕してきていて、逆にその流れに乗れない勢は淘汰されつつある現状があったりもするんですが、ついに『メジャーシーン』『時代の寵児米津玄師』が『少年ジャンプの金看板を掲げたアニメシリーズ』『やりやがった』かって感じで個人的に非常にホルホルです。

まぁ、チェンソーマンが少年ジャンプでやってる時点でだいぶ時代が暗黒面のスピードに追いついてきてる感じがして非常にグッドです。いや、ごめん。架空の小学3年生の妹を名乗り続ける漫画家のスピードには絶対に誰も追いつけない。追いついてはいけない気がする。

流石に米津玄師と言ったところで、言葉の削りっぷりがエグいて。マジで『幸せになりたい』と『楽して生きていたい』しか言ってないしそれだけが全てだからもうどうにもならない。そりゃつんくも二つ返事でフレーズのオマージュを快諾しますわなんだこれ。あと全然何気なくやってる技法で、僕が勝手にクロスブリッジって呼んでる技があるんですけど、Bメロの『あなたのその胸の中』のフレーズって前後のフレーズにそれぞれ独立した連結をしていて、『あなたの胸の中を掴みたい』、『あなたの胸の中をハッピー(ラッキー)で埋め尽くしてRIPまで行こうぜ』っていうメッセージをそれぞれ成立させる鍵としてのフレーズになってたりしてるんですが、こういう技をサラっと織り交ぜてサビ頭に繋げる起爆剤にしてるあたり普通に基礎レベル高くてはわわ~ってなります。後、1コーワスと2コーラスに対応する「ハッピー」と「ラッキー」は「RIPまで行こう(GO)」との組み合わせも考えると「HAPPY GO LUCKY」の慣用句を想起させる事を狙ってると思うんですが、これは『なんとかなるさ』というポジティブな意味合いを持つ言葉であると同時に、『能天気な軽薄さ』を提示する言葉でもあって、他力本願の極みのような主体性皆無のメッセージ性を踏まえて考えるとまた違った意味合いが見えてきそうな感じがして面白いなと思ったりします。ちなみに他力本願っていう言葉は怠惰の極みみたいな言葉として使われる事が多いですが、元ネタとしては人事を尽くしたから天命を待とうみたいな感じの意味合いで、我々のような打ちのめされ学習性無力に浸りきった闇の者の救済を願う言葉でもあったりするそうです。知らんけど。

まぁ、何にせよ正しい事とか善良である事、前向きである事というのが何かを担保してくれたり何かを与えてくれるわけではないという事に人類が『気が付いてしまった』のだろうなという感じはします。『気づいた』とか『目覚めた』とかそういう事言い出す人は十中八九詐欺師なので気をつけましょう。僕は安全なので後の奴らが全員詐欺師です。みたいな事言うやつはみんな詐欺師です。噓つきのパラドックスです。ともあれアートというのは結局アンサーとクエスチョンを無限に繰り返す禅問答みたいなところがあるので、今日得た答えで浄化される魂もあれば、新たに淀んでいくソウルジェムもあり、それが新たな問いとなり、新たな解を求める原動力となっていく。人類というのはそうやって少しずつマシなものになっていけるのかもしれません。そうやって全国津々浦々のCubaseから生み出される明日の新譜を楽しみに日々を生きていけるのであれば、それはそれで人生やってる甲斐もあるというものかもしれませんね。そんなわけで今年は奮発して宝くじとか買ってみました。だってもう楽して生きるしかないじゃない!お金欲しい。

第四席 n-buna

ブレーメン/ヨルシカ

n-bunaというリリックライターの持つ作家性の不幸は人を呪うには善良に過ぎて、人を愛するには理性的に過ぎる事だろうかなと思ったりもする今日この頃です。世界を呪うには良識的すぎるし、世界を愛するには高慢に過ぎるとも言えるかもしれない。憎悪にも失望にも諦念にも似た情動を描くヨルシカの作家性には、それでもかつてはもう少し光が垣間見えていて、尾崎放哉の晩年を描いたと嘯く思想犯ですら、(或いは尾崎放哉を描いたからこそかもしれないけれど)そこには澤芳衛という光が垣間見えていたものです。思想犯に限らずそこで描かれる明暗の葛藤の生みだすハイライトが苛烈な鮮やかさを放っていた事が強く印象に残ってます。

その印象のまま改めてここ二年の新譜を追っていて先ず感じたのは語弊を承知で言うなら物足りなさと違和感で、実験的な緩急のアプローチの中でも持ち前のキャッチーさは変わらないのに何か歯車が嚙み合っていないような不自然な感覚に襲われたので何だろうなと思って考えていたんですが、もしかしてn-bunaの人は光を手放そうとしてるんじゃなかろうかという結論にこの文章書きながら至りました。厳密に言うのであれば光を手放す事によって葛藤や執着ごと切り離した場所にある何かを探り取ろうとしている。

えっ、まじで!?そこ掘り進めて何かあるの???

恐らくこの試みが本格的に始まったのは文学オマージュを始めた又三郎の時からで、もしかしたらあの糞爽やかでキャッチーなメロディと青嵐という清涼感のある語感に騙されている人もわりかしいるのかもしれないですけど、わりととんでもない事を歌っているし、又三郎というモチーフ自体がわりととんでもない感じがありそうです。この文学オマージュシリーズは全体的にヤミーな感じなのだけれど、老人と海は何故かわりとヒカリーでした。良い曲だし普通に好きなんですけど、アルバムワークとして考えるとそれがかえって不気味な感じもします。老人には少年というヒカリーがいたし、老人の中にある少年性への回帰を思わせるライオンというヒカリーもいたのでそれは良いんですけど、ヤミーシリーズの出口となりえるはずの少年性への回帰としてのヒカリーが何故か二作目に提示されており、その後はどんどんヤミーと虚無の狭間に全力疾走しているので、リスナーとしてはおぼろげながら「おい、どうすんだこれ」という感じになってきている今日この頃です。

ざわ…ざわ…。

というわけでブレーメンなんですが惰性と怠惰の極みでとても好きです。愛を嘯きながら、わかり合う事を嘯きながら、その希求が叶わない事も、その希求が受け入れられない事も理解している。理解しているから『暇なら』『そのうち』という予防線を張りながら呼びかけるわけですが、性質が悪いのが予防線を張っている事にも、予防線を張らずにはいられない弱さを相手に悟られている事も、それすら理解した上で向き合わずに予防線を張り続ける行為に逃げている事にも、そんな姿に心底辟易とされている事にも自覚的なところで、あまつでさえその希求自体は自覚的にしろ無自覚であるにしろ本心に違いないわけでその事をお互いに承知しているという事すらもお互いに承知している有様で、男の子の面倒くさいところ詰め合わせパック全部乗せみたいなところが最高にロックです。理解度の高い関係って素敵ですね。

いいぞもっとやれ。

というかn-bunaというリリックライターは本当に完成されているアーティストだと思っていて、なんだったら今をときめく名だたるアーティストの誰よりも頭おかしい場所にいるとさえ思っていて、春泥棒聞いた時なんかは億劫っていう日本語がこんな奇麗になる事あるんか嘘だろって心臓もげたりもしたものなんですが、今回ばかりはヨルシカの探求の旅の果てに見合うだけの解があるのかマジでわからないです。ただまぁ、そもそもそんなところ掘ろうなんてn-bunaじゃないと考えもしないであろうところを掘り出したので、ヨルシカの音楽に魅入られてしまったリスナーの一人としてはそれを享受せざるを得ず、その探求の旅が功を奏するのか、空振りに終わるのかはわからないんですが、チノカテ聞いたらいよいよ本格的に断捨離し始めたので、いずれにせよ生暖かく見守るしかない悟りの境地に至ってきた感じです。

創作というのはある意味で価値観との戦いで、疑いを持っては解を探り当て、解を得ては新たな疑問符の解を探求する無間地獄みたいなところがあるんですが、アーティストと呼ばれる人種はある意味で賽の河原で無限に石積みを続けされられる事を強いられた童のようなものなのかもしれません。気が付いてしまったかここが地獄だ。うわああああ。まぁ、ブレーメンの音楽隊もブレーメンに辿り着かなくても楽しくやってますし、それもまた楽しいんじゃないでしょうか。なんか中途半端に締まらない感じになってしまいましたが、そのうち分かり合える日が来る事を期待せずに期待しておくとします。俺だけはお前を愛してやるぞ(CV:あさき)

第五席 Vaundy

恋風邪にのせて / Vaundy

普通に出現時から高い完成度を誇っていた音楽性が順当にそのキャリアを重ねている感じで普通に凄いです。どこか懐かしいような瑞々しいような、回顧主義的なようで前衛主義的なようでもあり、どこか未成熟なようでもあるのに熟成されているようでもある音楽性は軽やかなのに重厚な波のようでもあって、何もコメントできない。野暮を承知で何か言うとしたら『恋風邪』っていうフレーズの持つ厭らしさとか、その厭らしさをまるで感じさせずに、当然で極自然な事のように振舞わせる全体的な雰囲気とかのバランス感覚がエグい。恋を病に例える感性っていうのは何時の時代も普遍的なものですけど、少なくとも『風邪』という言葉の持つ印象は『病』ほどの重篤さは無くて、あまつでさえ気が付けば治っている程度の軽さすら含んでいるわけで、『くだらない愛』という卑下からもその意図は明らかなんですけれど、だからこそその移ろい易くて儚くて刹那的な気の迷いが齎す情動に対する愛しさのようなものを逆に感じさせたりもするのでなんだこいつすげえな。というか普通に凄すぎて逆に何も言える事が無いです。小田和正とか山下達郎とかが異世界転生して強くてニューゲームやってると言ってくれた方が納得できるレベル。いったい何がどうなればこの若さでこの境地に至るんだ…。いやなんかもう年齢のレベルの問題でもないレベルだけど。

第六席 BADSAIKUSH,DELTA9KID,G-PLANTS

BLUE IN BEATS / 舐達麻

怖い。いや、普通にめっちゃ怖い。僕は何を隠そう都営団地生まれ熊谷育ちなんですけど、熊谷発のラッパーが注目されてるとかで聞きに行ったら滅茶苦茶フロウが心地よくて地味に注目していたりはしたんですが、もう普通にWikipediaが怖い。地元が一緒なので余計に怖い。うちわ祭り万歳。

技巧的にはレベルが高すぎて何も言及できないし、内容も怖すぎて何も言及できないけれど、三人のMCそれぞれにリズムとライムの個性があって、それが発揮されつつも調和しているし凄いです。リーダーBADSAIKUSHのフロウは特に話し言葉のそれに限りなく近くて、それでいて流れるような穏やかさと確かな存在感があって、なんだこの特殊技能って感じが凄い。ていうか情景の描写が丁寧で純文学みたいな詩情と共に絡みついてくる感じが凄い。

このあたりの細かいリリックのわびさびは僕があれこれ言うよりも宅録ラッパーBSTさんのレビューがラップ文化民ならではの技巧的な視点とか文化的な側面を交えながら執念じみたレビューを織りなしていて滅茶苦茶面白いのでお勧めです。ちなみにMVに関しては熊谷市民だったら誰もが知ってる河川敷の火事がちょっと前にあったんですが、もしかしてそこオマージュしてきたのか~??って思いました。熊谷への愛を感じる。
宅録ラッパー BST 舐達麻の新曲「BLUE IN BEATS」を仕方なく聴く

第七席 笹川真生

さみしいひと /理芽

神椿スタジオは花譜の注目度が高くてわりと他の子がその陰に隠れがちなんですけれど、そんな神椿スタジオの中でも密かに注目していたのが理芽とその主要コンポーサーの笹川真生で、個人的には花譜とカンザキイオリのコンビより好きなユニットだったりしていました。いやうん普通にどっちも大好きですけど。サブカルチャーの中でも比較的王道でキャッチーな部分を貫いてくる花譜作品群の音楽性と違って、ビーンボールスレスレの内角高めに抉り込んでくる理芽作品群の音楽性はサブカルチャーのエグみの結晶体みたいなところがあって、僕のような音楽中毒の変人にとってはその精製されきった純度の高さがたまらないわけですが、インディーズとはいえ商業活動としての音楽の追及は不可分に求められる中で、その作家性とシーンの風潮との間でどのように折り合いをつけていくのか、またどのように貫いていくかという点で苦しんできた部分がここにきて開花してきたんじゃないかなという印象を持っていたりします。いやまったくもって評論家気取りな素人の適当なレビューなんですけど。早く時代が闇の住人に追いついてくるべき。

そういえば理芽がドラマ主題歌を担った『少年のアビス』はちょっと前に友人に勧められて読んだんですが、幾重にも折り重なったこの世の地獄がぎゅぎゅっと100%凝縮還元されていて、ブラッドハーレーの馬車とセンチメントの季節を二対一で配合してロックグラスにひたひたに注いだ感じの作風が最高に最悪です。やっぱり色んな漫画があった方が面白いし、色んな音楽があった方が面白いこの世界で、時には折り合いをつけたり、折り合いをつける事をやめたり色んなアプローチをしたりしなかったりして筆を取ったり折ったりしながら明日の新譜がまた生み出されていけば良いなと、一介のリスナーとしては願わずにはいられない今日この頃です。

第八席 たかやん

らぶびーむ!! / たかやん

上半身にはクロミちゃんのヘアピンだけを装備してニートTOKYOに出演する地雷系女子と外人に大人気の筋肉(24歳)。情報量が多い。なんかラッパーってみんな基本的に治安の悪い音楽性をしているんですけど、何か全然違うベクトルで治安が悪いです。実は知ったのつい先日で、最近は物凄い子が人気なんだなあとわりと引き気味に見てたんですが、勝たんしか症候群に辿り着いた瞬間に電流の走った矢木圭次のようになり、手首からマンゴー(旧)に辿り着くころには予期せぬ海底撈月を振り込んだ市川みたいに崩れ落ちていたわけですが、20代前半にしてこの表現に対する思い切りの良さと価値観に辿り着いた才能が怖すぎて一体何が起きているのインターネット社会。

考えてみると『地雷系』っていう言葉の変遷も面白くて、かつて男オタク中心のネットコミニティで生まれた侮蔑的な蔑称だった『地雷』という言葉は気が付けばファッションや文化を象徴するライフスタイルを象徴する言葉に変化していって、むしろ彼女たちが積極的に身に纏う概念になっていたというのが生命力高くて凄く好きです。何処か刹那的で破滅的な危うさをも内包した彼女達の持つ、けれど何処か撓やかでしたたかな強さを持つ生命力を併せ持ったライフスタイルに対するアプローチは地下アイドル勢とか可不なんかのサブカルチャー周りで熱心に取り組まれてるんですけど、その最前線で熟成されている感性を、全く違う生命力の元で育まれたHIPHOPの感性の中に放り込んだ劇薬と劇薬の合わせ技みたいな感じで、書いてるだけで胃が痛くなってきた。

正直な話男に生まれながら彼女達の持つ力強くも移ろい易い価値観の変遷の中に身を乗り出して、この解像度で描き切れる度量と技量には敬服するより他ないです。というかセクシャルな部分について彼のセクシャリティは知らないんですけど、異性の感性を歌っているようで、リリックにはわりと男の肉体を感じる部分があるので、普通に自分の感性を自分の感性として晒けだしているんだろうなと思う部分もあって、だからこそ男の書く歌詞にありがちな異性の感性を『理解しているつもりになっている』事によって生み出される『説教臭さ』とかの致命的なノイズをこの深さまで潜っても排除できてるんだろうなと思うので普通にこいつ凄いな。まぁ、とはいえ多様化していく音楽媒体でどういった活動を展開して、それが鮮烈で流動的で刹那的な少女達の価値観の中でどう受け入れられていくのかというのは結構未知数なので、無責任なリスナーの一人としてはなんやかんや楽しくやっていってくれると良いなと思ったりします。明日を生きる若人達の未来に幸あれ。

第九席 q*Left×苺りなはむ

存分/苺りなはむ

なんだこれ(なんだこれ)。GigaのCH4NGEもそうなんだけれどq*Leftのリリックセンスどうなってんだこれ。いやどうなってんだこれ。そして楽煙もそうだけど苺りなはむの頭の中どうなってんだが混ざってなんだこれ。なんだこれしか言ってない。なんだこれ。ちなみに苺りなはむってどこから出現したのって友達に効いたらBiSの子だよって聞いてアアーってなりました。

Adoのうっせえわを引き合いを出すまでもなく、怒りを怒りとして切り取って表明する作品は昨今さして珍しくなくなってきていて、たぶん人類が品行方正でいる事に飽きたんだろうなと思っているんですが、むしろ最近はそこからもう一歩踏み込んで、いかに人間の持つ品性下劣な部分をファッショナブルに着こなすかというアプローチにシフトしているような感じがします。

かつて『こういった際どいサブカルチャーというのは大人になっていくにつれて卒業していく一過性の趣向である』という一般論としてのコンセンサスがあったんですが、ある種の保守感情というか恥の感情を担保に成立していた『普通』という概念は情報のインフラが整備される事によって価値を失って、それと共に趣向や意思表明を含めたライフスタイルそのものの捉え方が変動して、品性下劣である事は『耽美的趣向』から『積極的に纏うファッション』へと昇華されていってるように思うわけです。ファッションであるからこそ、そこにはスタイリッシュさやカワイイが求められ、嗜好され、実践される。これは『地雷系』の変遷とも似ていて、言葉は時代の写し鏡とはよく言ったものだなと思ったりもします。まぁ、そういう小賢しい事を考えながら聞く曲では絶対に無いです。チルで高まる生命力。私たちは、生きていさえすればいいのよ。(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ

第十席 比喩根

get high/chilldspot

歌詞が歌詞である以上はメロディとの親和性や、音としての追及はソングライターにとってもリリックライターにとってもリリックライティングにおける最も重要な要素の一つなんですが、そういった意味でこの若きソングライターの感性は探求心と冒険心に満ちていて、この穏やかな作風の中でも音の置き方の一挙手一投足に張り巡らされた緩急が耽美的に紡がれる物語と複雑に、けれど奇麗に絡み合ってて普通に凄えって思いました。この前まで高校生バンドだったらしいです。まじで?

your tripとか聞くとまた印象が変わって、爽やかで軽快なバンドサウンドから続く限りなく話し言葉に近いフロウともポエトリーリーディングともつかないバースが印象的で、かと思えば軽快なメロディの中に見え隠れするように融和させた耽美的な感性とか、それでいて現実逃避という無骨さすら感じさせる言葉を選び取ってメッセージを集約させていく感性とか普通に化物だなと思ったりもします。ていうか、二十歳前後でこの価値観に辿り着いてしまう最近の若者達生きてるの大変過ぎない???大丈夫???

ともあれ、才気の中に垣間見える瑞々しいか細さとか、未成熟な不安定さも含めてうら若き彼らの音楽がこれからどういった価値観を培い、どういった探求の旅を経て、音楽に昇華していくのかというのは無責任なリスナーとしては興味深いところだなと思ったりしています。ただまぁ、感性の危うい部分を研ぎ澄ませて作品を絞り出すタイプのアーティストは得てして折れやすくもあるので、長生きして欲しいなとも思います。色んな意味で。幸あれ。

総括

ここ何年かはなんか知らないけど実力もキャリアもある名だたるアーティストも元気だし、Tiktokでバズって一躍スターダムに上り詰める新人とか、普通に怖い界隈のラッパーとか地下アイドルとかの限られた空間で熟成されてきた音楽がアテンションを得やすい環境になったりで新旧入り乱れて滅茶苦茶面白くなってきたなぁと思います。音楽そのものもそうですけど、リリックライティングの技術やアプローチ、価値観の変遷の交配も飛躍的に進んできていたりして、その中で変化していくスタイルもあれば変化しない事でアプローチするスタイルもあり、聞いたり聞き比べたりしていてとても楽しかったです。そんなこんなで来る2023年もアーティストとリスナーに幸多き事を祈り、そして明日も素晴らしい音楽との出会いがある事をお祈りし、僕はこのままぼっち初詣プレイリストの作成に備えたいと思います!そういえばぼっち・ざ・ろっく未履修なんですけど主人公の名字が後藤な事を知ってなるほどGOTCH…ってなったりしてます。それではみなさん良いお年を。

+22選

佐々木喫茶

Onyu

和ぬか

尾崎世界観

藤原基央

野田洋次郎

Guiano

Mega Shinnosuke

tofubeats

YUSA

Kaako

稲葉曇

全てあなたの所為です。

悒うつぼ

shito

Tele

古閑翔平

SHIROSE

R指定×Ayase

Eve

キタニタツヤ

Reol


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