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ファーストキス


あらすじ
幼い頃離ればなれになったタクミとイチコは十四年ぶりに再会した。
タクミは娼夫となり母親を死に追いやった父親を殺すことだけを考えて暮らしていた。イチコは大学受験に失敗し、妊娠していることが分かるが誰にも相談できないでいた。数歩先の未来を見ることができない二人が数日間を共に生活し、現実と向き合い、一歩を踏み出す方向を探しあぐねるが、それぞれの答えにたどりつく。


          〈1〉


レモンの匂いで目が覚めた。

どうしてこんなにゆったりとした気分なの?

見覚えのない部屋のベッドに横たわるイチコは、隣で静かに寝息を立てている男の背中を眺める。象牙色の羽のような肩甲骨が浮きでている。とりとめのない記憶を頭の中で手繰りよせる。

身体の関係は持っていない、はずなんだけど……。脱がされているのはカーディガンとジーンズだけ。ブラウスはきちんとボタンが掛けられている。靴下も履いている。もちろんショーツも。手で確かめたいけど何故か固まってしまった。

記憶を巻き戻すスピードを増すためのエンジンギアがなかなか上がらない。頭にもやがかかっている。天井に向けていた顔を両手で覆った。指の重みを感じた瞼がかすかな熱をためている。

泣いていたんだ、わたし。

 昨日、陽が傾きかけたころ母とけんかをして家を飛びだした。些細な口げんかから始まり、気づくと心のどこにこれほどの不満が詰まっていたのかと思うほど怒りであふれ、流れだす言葉を止められなくなっていた。カーディガンを羽織り、財布とスマホが入っているだけのショルダーポーチを手に取り、玄関のドアを後ろ手に力任せに振り抜いて閉めた。

 感情のおもむくままに表に飛びだした。

 家の前に広がる田植え前の田んぼの水が柔らかな光に揺れていた。苛立つ心をもて余している自分をどこかであざ笑っていた。腕を思いっきり振って野道を走った。バスに乗り、電車を乗り継いで神戸市内の中心、三宮までたどり着いたのは夜の八時を回っていた。平日だと言うのに人の流れが途切れない、色とりどりの光にあふれた街に眩暈をおこしそうだった。ベンチに座り込み父親に電話をかけた。

それから――いつ、どこで、何をどうしたんだっけ……。

「えっとぉ」

「起きたのか?」

 眠たげな男の声が聞こえた。

イチコは顔から手を離し、手触りのいい掛け布団を首元まで引き寄せる。

喉にビックリマークが引っかかって声がでない。

 男は横向きの身体を上向きに変え、長い両手を耳の横から頭上へあげた。足の先まで力を入れて体全体を伸ばしている。

「なにとぼけた顔してんだよ、イチコ」

「へ?」

 間の抜けた返事をした自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。男は、警戒するイチコにお構いなしにベッドからでた。ボクサーパンツ一枚以外は何も身につけていない。

 だれでもいいから助けてよ。

 男の裸に、心臓が波打った。目が離せない。余分な肉は一グラムも付いていない。長い手足が体にそってしなやかに動いている。美術資料集で見たミケランジェロのダビデ像のように筋肉は盛り上がっていないけど均整のとれた青年らしい清々しさがある。例えば背中にそって指先でなぞれば、脊椎の一つ一つの骨の輪郭がわかるかもしれない。

「あのう、ここは?」

「ベッドルームだ」

 広いリビングの一角をベッドスペースにしているらしい。

 男はテーブルを横切りリビングからでていった。急いでベッドからおりて中央に置かれているソファーに投げだされていたジーンズを穿いた。ショルダーポーチはジーンズの下にあった。

 ポーチの中からスマホをだしてホームボタンを押した。父からの

LINEメッセージが残っていた。開けなかった。瞼がだるい。

なんで……。

男が戻ってきた。白いTシャツにグレーのスゥエット姿だった。

イチコは彼が放り投げてきたものを両手で受け止めた。ナイロン包装された歯ブラシだった。

「そこいって右側だから」

 イチコは立ち上がり、直立不動の姿勢を保ったまま廊下にでた。すぐ右側に洗面所があった。グレーとブルーのモザイクタイルに楕円の陶器のボウルがセットされていて、錆び色のパイプから伸びた蛇口についたレバーは横に動かすハンドルタイプだった。

ドラマの中に紛れ込んだみたい。

 鏡に映るイチコは男が言うようにとぼけた顔をしているのか。凹凸のはっきりしない顔だけれど前髪をそろえたセミロングのヘアスタイルはお気に入りだし。腫れぼったい瞼は泣きすぎたせいだ。父の顔がオーバーラップする。

無駄のないシンプルな空間に圧倒され、力の加減が分からず水の勢いが強すぎて手洗いボウルから外へ飛び散った。あわててタオルハンガーにかかっていたタオルを取りタイルや床の水を拭きとった。歯磨きをし、見慣れた顔にばしゃばしゃと水をかけた。

 歯ブラシを袋に入れなおし手にもったままリビングに戻る。コーヒーの香りが漂っていた。

 対面式のキッチンからグラスに注がれたオレンジジュースを男はカウンターテーブルに置いた。

「イチコにはこれで十分だな」

「なんでわたしの名前を知ってるの?」

 こっちは何もわからないのに、この男はイチコのことを何でも知っているような口ぶりで話す。これってイーブンじゃない。

「草むらで寝ころんでるところ拾ってやったのにさ、まずありがとうだろ。お前、捨てられた猫みたいだったぞ」

 捨て猫――たしかに。

「そんな変な顔すんなって。草むらじゃなくて花壇だったかな。薔薇の中で寝ているお姫さまだった」

 切れ長の目に見詰められながら昨夜のことをイチコは懸命に思いだす。

 助けを求めた父親は、電話にでなかった。LINEに会いたいとメッセージを残したが、いつまでたっても既読にならない。毒親のレプリカのような父親である。

 父は四年前、家族を捨てた。

 母とイチコが住む父の実家は市内から遠く離れた山奥にある。その土地では名が知れた旧家だ。屋敷の裏にある山林はもちろん、見渡す限りの田畑が父の実家――檜木田家の所有する土地だと言ってもいいくらい。なのに足りないものばかり。

父は別れ際に、いつでも連絡をしてこいと言いイチコにスマホを差しだした。父に会ったのは四年間で二回だけだったが、LINEでは月に一度か二度、やり取りをした。母親への不満と愚痴を送信した。そうすることで父を繋ぎとめておけると錯覚していた。

 昨日の夜も、受け止めて欲しかった。父さんがいるから大丈夫だよと言って欲しかった。そして、いつでも父さんのところへ来ていいと。

 三宮に来れば父がいる。それしか考えていなかった。一度も訪ねたことはなかったけれど、事務所のあるビルは駅に近いはずだ。

 JR三宮駅から前を歩く人の流れに身を任せ南側にでた。エスカレーターにのり、上に昇るとポートライナーの改札口の前にたどりついた。イチコはその場を離れ、反対側に向きを変えた。広い道路の向こう側にデパートが見えた

歩道の手すりに体をあずけ、しばらくその場で父からの連絡を待ったが。いつまでたっても救いの手は差しのべられなかった。

 下に見えるロータリーには、タクシーに乗る人や迎えに来た車に乗り込む人たちの姿が、ひとつの場面が消えていくのにつぎの場面が重なって表れてくる画像のようだった。

立っているだけのイチコに周りの人は誰も目を止めない。どうして聞こえたのか、この瞬間もわからないけれど、雑踏の人声に混じって求めていた声が聞こえた。

「ほら、こっちへおいで」

顔を上げた。父だとすぐに分かった。イチコは振り向いた。

JRの駅に続く下りのエスカレーターの手前で手を差しだしている父が目に飛び込んできた。けれどその目はイチコを見ていなかった。

「パパァ」と駆けよった小女を父は抱き上げた。

少女は父の頬に自分の顔を押し付けた。かたわらにパステルピンクのワンピースを着た女性がいた。心を通い合わせた微笑みを交わしている。

母やイチコが知らない父がそこにいた。アルコールを飲んでいたわけでもないのに、イチコは足元が崩れて地球の裏側にまで沈んでしまいそうになった。

 手すりに手をかけようとしたとき、西へ向かうカップルの女性と肩が当たりイチコはその場に座り込んだ。いきかう人たちは遮へい物のイチコにぶつかることなく歩みを進める。透明人間になった気分だった。

 何とか起き上がり再び手すりにもたれかかった。右側の歩道沿いに、タクシー乗り場の屋根の上に作られた花壇が目に入った。重たくてだるい足を引きずりながら花壇をめざした。みんなのように目的地を見定めて歩きたかった。階段を降り、サイテーサイアクの気分で花壇を囲むレンガ積みの仕切りに座った。人工的に作られた憩いの場には、疲れた顔のサラリーマンが一人で缶チューハイを飲んでいた。通行人のほとんどはそんなしょぼくれた場所には目もくれず急ぎ足で通り過ぎていった。

 四月下旬の夜は肌寒く、自分の腕で自分を抱きしめて足元をただただ見詰めていた。悲劇に浸っているうちにいつの間にか意識が遠のいた……。


「捨てられたんだ……。わたし、父親に捨てられたんだ」

 イチコはそう言って、男が置いてくれたオレンジジュースを手に取った。すぐさま口に持っていくのもあつかましい気がして、かわいそうな女の子を演じているふうにグラスを握りしめた。

「お前のオヤジさん、すげぇ、優しかったじゃん」

「なんで、父さんのことまで知ってんの? あんた誰なの」

 イチコの目の前にカバのおもちゃが付いたストラップがぶら下がっている。硬いゴム素材のカバは、コミカルなものではなく、背中全体が黒くお腹がかすかに白いリアルな出来映えのもので、何故だか鼻の穴だけが赤く塗られている。

「わたしのものを取らないで」

 イチコは音を立ててグラスをおき、ストラップを取り返そうとすると、男はストラップを自分の手の中に包み込んだ。

「違う、これはおれのだ」

「嘘言わないで、それはわたしのよ」

 男がイチコの後ろ側を指さした。振り向いた。

 ソファーの上に置かれたショルダーポーチに同じものがついていた。

「え?」

イチコは目を見開いた。

「もしかして――」

 男は頷いた。

 互いを見つめ合った。

「タクちゃん?」

「ああ」

「やだぁー、タクちゃんと会えるなんて――嘘みたい」

「そのカバ見たら、捨て猫みたいになっていても拾いあげるだろ? てか、お前、おれだからよかったけど悪い奴に目つけられたらどうしてたんだよ」

 タクちゃんは、イチコの頭を軽く叩いた。

 津村逴巳は、両親とイチコが昔住んでいた小さなアパートのお隣さんだった。タクミは中国人の母親と二人暮らしだった。どちらの家も貧しかったので親たちは懸命に働いていた。正真正銘の子供だったタクミとイチコはお金のかかる保育園に預けられるなんてこともなかった。弁当屋で働いていたタクミの母親がもらってきた残り物の食材を食べながら、二人で何時間も一緒に過ごした。

「なつかしいなあ」

タクミは遠い目をした。

 目尻に切れ込んだ細い目元をかすかに覚えている。

「タクちゃんのお母さん元気?」

イチコはうつむきかげんに訊いた。

「うちのオヤジはクズなんだって、オフクロはいつも言ってたよ」

タクミは左腕の服の袖をまくりあげ、肘の上あたりをイチコに見せた。小豆色にひきつった皮膚があった。さっきは気づかなかった、見とれていたせいかも。

「どっちの家もややこしかったもんね」

「だな」

 イチコの両親は父が二十歳のとき、二十六歳の母と出会い結婚した。イチコが母のお腹に宿ったからだ。しかし、父の両親は認めず、勘当だと言い放った。

「父が大学をやめて働いている間、母は内職をしていたんだけど、タクちゃんちが引っ越してきてからは働きにでることができたって母が言っていたよ」

「そうだったかな」

「タクちゃんがわたしの面倒をよく見てくれたおかげだって」

「よく覚えてないなあ」

 イチコが五歳になったころ、祖父が亡くなった。祖母は父に家に帰って稼業を継ぐように言った。当初、父は抵抗したらしいが、ついに母がおれて、親子三人で父の実家で暮らすことになった。

「タクちゃんと離れるのがつらくって気が変になりそうだったんだよ」

 アパートを引き払う話を聞かされたイチコは泣き叫び、タクミのそばから離れなかった。

「あのとき、両親が最後の思い出にって、王子動物園に連れていってくれたよね」

「それ、覚えてるよ」

閉園時間が近づいていることを告げるアナウンスの意味を教えられたとき、イチコはタクミの手を取ってできるだけ出入り口から遠い場所を探して走りだした。逃げてもすぐに捕まるのに……。

 涙するイチコを言い聞かせたのはタクミだった。

「いつか迎えにいくよ」

タクちゃんはイチコの耳元でそう言った。その時は、永遠に忘れないと思っていた。 

出入り口横にあるお土産屋さんで、何か一つ買ってあげると父が言った。その日に見た一番かわいいと思ったカバの赤ちゃんを思いだし、同じストラップを二つ手に取った。

「迎えに来てくれなかったね」

イチコはオレンジジュースを口に含んだ。酸味が舌に残った。

「お前は待ってたのか?」

タクミはコーヒーカップを口に運んだ。

「わたしも歪んじゃったからさ」

「大人になっていくうちにマットウな心がねじ曲がって、修正がきかなくなるんだよ」

「修正液で消せたらいいのにね」

「それで過去が帳消しになるんだったら、あるだけ買い占めてやる」

タクミの鋭い視線を外すように、イチコはソファーの方へ歩いた。

「でも、二人とも持ってたね」

ショルダーポーチについているストラップを手に取りプラプラ振った。

「なんとなくだよ。これを持っていると癒されるんだ」

 タクミはカウンターテーブルの端に置かれたちいさなカットグラスの中にストラップを落とした。

 タクミの意外な返事に、イチコは返す言葉を頭の中で検索したがヒットしない。

「カバって意外と人気ないんだよね」

見当違いのことを口走った。


 二人は、昼前にマンションをでて大通りのフラワーロードを渡り、二筋目の小道に入り、使い込まれた暖簾をくぐって中華店に入った。

 タクミが着ているダークグレーのスーツには、完璧に釣り合わない店だったけれど、タクミは慣れた様子でテーブルにつき、ここで食べたら他では食べられないと言ってシューマイとチャーハンをイチコに勧めた。ひと口食べたとたん、思わずいいねボタンを押したくなるほどそれは美味しかった。他では食べられないと言われたが、イチコは他のシューマイがどんな味なのか知らなかった。

「うちは外食をしないからね」

「おじさんの実家って金持ちなんだろ」

「祖母がぜーんぶ仕切っているから母やわたしは関係ないの」

母の作る料理は舌になじまなかった。祖母の好みに合わせた和食がほとんどのせいだ。ハンバーグもチャーハンも、もちろんシューマイも食卓にのぼることはない。

祖母は、母とイチコを迎え入れたが、孫のイチコには冷淡で母には使用人と同じの扱いをした。それでも母は姑から言い渡される家事や雑用をもくもくとこなした。自分のせいで父が大学をやめたことをずっと後ろめたく思ってきたことの表れかもしれない。

「祖母は、家をでていった父の代わりに母やわたしを罰しているのよ。そのせいで口のきき方もだけどね、することなすこと母は祖母にそっくりよ。めったに笑わないし、余計な話もしない」

「へぇ、想像できないけどな」

「部屋がいくつもあるような家にいてもちっとも楽しくない。昔アパートで暮らしていた頃はわたしのいたずらやおしゃべりで父も母も笑っていたのに」

祖母が無駄と思うものは与えられなかった。何か手に入れたいものがあれば、今ある大切なものを手放す覚悟でいなさいと母に言われた。ただでさえ、余分なものを持っていないイチコは何かが欲しいと思ってしまったらどうしよう、捨てなくてはならない大切なものを想像するだけで空恐ろしくなった。「欲望=悪」なのだ。いつしか感情をセーブするクセがついた。プロ野球選手だったらイケてたのに。

「なんたって、金がすべての世の中だから、金さえあれば片付かない問題はない」

「自分のお金ならね」

「待ってれば自分のものになるよ」

父は、檜木田家の土地を管理する会社の取締役になっていたが、会長となった祖母の権力はまだ衰えを見せてはいなかった。

「おじさんは、いつでていったんだ」

イチコが中学三年生のとき、父が母にこの家をでていこうと持ちかけているのを隣の部屋で聞いた。母は、また昔のようにあなたにつらい思いをさせることになると言い、父の誘いを拒んだ。

「中学校の卒業式のあくる日に父さんでていった」

「お前、家に帰らないつもりか?」

食後の日本茶を飲みながら、タクミが訊いた。

「昨日は、拾ってくれてありがとうね」

イチコは両手を合わせ、小さな声でごちそうさまと言った。

イチコの前に鍵が差しだされた。

「いらなかったら郵便受けに投げ入れてくれ」

 店をでたとたん、タクミは仕事があるからと北の方へと大股で歩いていった。

 脚、ながーい。

 空は晴れていた。雲のない青空でもほの白く溶かしたような色を含んでいる。この空をたどってどこへでもいけるなら、タクミと過ごしたあの頃に戻りたかった。タクちゃんに連れていってもらいたかった。


          〈2〉


 夜、十時を過ぎようとしたころ、玄関の鍵が開いた。ソファーで丸まっていたイチコは体を硬くした。リビングの電気がついた。

「寝るんなら、ベッドで寝ろよ」

タクミがネクタイをほどきながら疲れた声で言った。

「なんで入ってこれるの? カギはわたしが持っているのに」

「お前に渡したのは合鍵だっての」

 タクミはポケットから鍵のついたキーケースをテーブルへ投げた。そのまま向きを変え廊下の方へ向かった。あっさりというか、つれないというか、クールすぎてイチコは泣きそうになる。

 つらい一日だった。

 タクミと別れたあと、イチコは父親に連絡を入れた。スマホで確認した現在地を伝えると、父は、そこから西に向かって数分歩くとコーヒーで有名な店があるのでそこで待つように言った。

二十分くらいで父が現れた。込み合った店内を見渡し、イチコに気づくと手を振り笑顔で席に着いた。昨日、電話にでず、LINEを既読にしなかった後ろめたさが滑稽なくらい表情に現れていた。

 イチコは、家をでてきたこと、独りぼっちの街で父と父の家族を見かけたことを伝えた。

「母さんから電話があったら父さんの所にいるって言ってくれない?」

父が口を開くのを遮り、

「安心して、父さんたちの邪魔はしない」

 不安そうな顔にほんの少し安堵の色が見えた気がした。

「あの家には帰らない」

 娘にかける言葉を見つけられない父はあせっているように見えた。

「お金が欲しいの」

これは、負い目を減らす助けの言葉になるはずだ。

父は、上着の内ポケットから封筒を差しだした。

「これは、イチコが大学生になって一人暮らしを始めるときに渡そうと思っていたんだ。母さんも知らない金だ」

 社名が印刷された封筒の中には、ゆうちょ銀行の通帳と印鑑とカード、その他に一万円札が五枚入っていた。

「こんなもの持ってくるなんて、本当に捨てられたって感じ」

 そんなことはないと父は口早に言ったがイチコは封筒をバッグの中に押し込み立ち上がった。

「何かを手に入れるには、何かを捨てなきゃね。これって父さんちの家訓なんだよね」

 東に向かって歩きながら花曇りの空を仰いだ。

明るい柄や色の服やくつを買おう、買ってやる。


「お前もシャワー浴びたら? タオルだしてるから」

 タクミがバスタオルで頭を拭きながら戻ってきた。

 イチコは昼間、買い込んだ下着と部屋着を持って浴室へ向かった。

 真っ白な壁に大きな鏡、アクセントに洗面所と同じ色のモザイクタイルがはめられていた。浴槽は空で洗面器も置かれてなかった。シャンプーやコンディショナー、初めて見るボディーソープも一つ一つ確認しながら使う。タオルもスポンジも泡立てるネットもなかった。イチコは両手で体を洗った。

 脱衣所には、真っ白なふかふかのバスタオルが置かれていた。

 イチコがリビングに戻るとタクミは上半身裸になってポンプ式のクリームをだして体に塗っていた。

 タクミはイチコを見ると、手のひらにクリームを延ばしてからイチコの頬を挟んだ。イチコは驚いて身を引こうとしたがタクミの手の力の方が強かった。

「あ、いい匂いだ」

後ろに下がろうとした体は、鼻を前に突きだす格好に変わった。

「昔からイチコはこんな匂いが好きだったよな。みかんとかレモンとか、柑橘系が。仕事の後はこのクリームでリフレッシュするんだ」

 イチコの頬をぐにゅぐにゅと揉んでからタクミはTシャツを羽織った。

 ソファーに座ったイチコにタクミはベッドに来るように言った。

「わたし、ここでいいよ。遠慮する」

「心配すんな、おれがイチコに手をだすことは絶対にないよ。約束する」

「なんで、そんなこと言うのよ。わたしだって女なんだからね。もう大人なんだから――、え、それとも……」

「ゲイじゃない」

イチコの言葉が終わらないうちにタクミは否定した。

「分かったよ、おれがソファーで寝ればいいだろ」

 ソファーの方へ寄ってきたタクミをイチコは両腕を突っぱって押し返し、ベッドに倒した。

「一緒にベッドで寝る」

 イチコは反対側から回り込み、ベッドの上にあがった。

タクミが手元のリモコンでシーリングライトを消した。ベッドの枕元にほんのりとした灯りが灯った。

 隣にタクミが寝ていると思うと、緊張のあまりか、なごみすぎているせいか自分の目から涙がでていることに気づかなかった。

「泣いてる?」

「そうみたい」

「そっか」

「今日ね、本当に捨てられたんだ。昨日はほんの予告だった」

 イチコは溢れる涙を拭かず、父と女性と少女が一緒にいるところを遠目に見た話をした。

「父さんからもらった手切れ金の通帳、わたしが生まれた日に千円入金してた。それから毎月欠かさず、千円だったりに五千円だったり、祖母の家に住むようになってからは毎月五万円ずつ、全部で八百五十八万二千円あった」

 タクミは腕を伸ばしてイチコの頭のてっぺんを撫でた。

「父さんはね、欲しかったものを手に入れたから、大切なものを捨てたんだ……、そう思ってもいいよね。わたしは大切な娘だったんだよね」

「おじさんは、今でもイチコのことを大事に思っているよ。手放したつもりなんてないさ」

 イチコはタクミの方を向いた。イチコの頭に伸ばされた腕の袖がめくれていて傷跡が見えた。幼い頃、両親の帰りが遅くて、イチコが泣きやまないとき、タクミはいつまでもイチコの頭を撫でてくれた。イチコは目の前にある小豆色のひきつった肌を人差し指でなぞった。カバのストラップみたいにつるつるしている。

「タクちゃんは、いつも優しいね。あの頃と全然変わらない」

「変わったよ。イチコが歪んだのなら、おれは汚れたよ」

タクミの声は抑揚がなかった。

「わたし、自分の話しかしてないね。タクちゃんのことも聞かせて。昨日も聞いたけど――おばさんは――元気?」

 たずねる前から答えは分かっていた。

「かあちゃんは死んだよ」

 やっぱりと言えずに口をつぐんだ。

「イチコがいなくなって二年くらいしてから、あいつがおれたちを探しだしてやってきた」

「あいつって、お父さん?」

「ああ、偶然に昔の知り合いが、かあちゃんが働いていた弁当屋で弁当を買って、それが回りまわってあいつの耳に入った」

タクミは深いため息をついた。

「おれたちは、静かに暮らしてたよ。それなのにあいつは金をむしり取るために、かあちゃんに暴力をふるい、弁当屋に嫌がらせに来たんだ。仕事をやめさせられたのは、たどたどしい日本語しか話せない中国人だったからじゃない。日本人のろくでもない亭主がつきまとったからだ」

 タクミが学校でいじめられているのを母から聞いたことがある。

「あいつは金を工面できないと分かると、自分が金を借りていた男にかあちゃんを売ったんだ」

 イチコは半身を起こした。

「ああ、ずたぼろにされたよ。あいつは、男がかあちゃんに飽きて、来なくなったその後も客を取らせたんだ」

「そんな……」

自分が責められているような気がするのはどうしてだろう。父の実家で暮らすようになってしばらくはタクミ親子を懐かしんだ。それも小学校の低学年の間だけのことだ。

「おれが人質にとられているようなもんだったからな。あいつのやり口は巧妙だよ。客の男がやってくると、おれを押し入れに入れて自分はアパートの外階段で待つんだ。おれは男の喘ぎ声と、かあちゃんの悲鳴をじっと聞いていた」

「何とか逃げられなかったの」

「いかなごのくぎ煮を炊く匂いがしていたなあ」

「いかなご?」

思わず、タクミを見おろした。

「あの日、あいつは昼間っから酒をのんでいびきかいて寝ていた。母ちゃんがおれに教科書を全部詰め込んだランドセルを背負わせて、自分はなんにも持たずにそっと玄関のドアを開けた。おれの目を見て逃げるよと言い、おれの手を掴んだ。おれは頷いた」

 イチコは、横向きに体を倒すと両手でタクミの腕を強く握った。

「でも、階段を降りようとしたときにおれは忘れ物に気づいた。すぐに取ってくるからって、母ちゃんの手を離して部屋に戻った。相変わらず間抜けな顔で寝てやがるあいつを見ながら慎重に忘れ物をポケットに入れてから急いで靴を履こうとしたとき、入口に置いてあった空の酒瓶に足が当たったんだ」 

タクミは暗がりの一点を見つめていた

「二、三本の酒瓶と空き缶が崩れる音で目が覚めたあいつと目が合った。おれは靴を履かずに外へでた。かあちゃんが差しだしていた手を掴もうとしたとき、おれの身体は後ろへ飛ばされた。引っ張られたランドセルから腕を抜いたとき、かあちゃんが駆けてきておれを抱きしめたけど、あいつはおれを引きはがして階段から放り投げようとした」

 タクミは片手で目を覆った。

「あのまま、おれが落ちていればよかったんだ。それなのに、かあちゃんがおれを抱きかかえてそのまま落ちた。かあちゃんはおれに逃げなさいと言ったきり目を閉じた」

「おばさん――」

イチコは言葉を続けられなかった。

「結局さ、逃げたのはあいつだった」

 春になると近所のいたるところから、いかなごを炊く匂いがしていた。おいしそうな匂いを嗅ぐとおなかが空くので、匂いがしないところまでいこうと二人で手を繋いで走ったことがあった。

二人だけでいってはいけないと両親から注意されていた海のそばまでいった。約束を破った罪の意識と冒険心が混ざり合って子どもだったけど、心臓がバクハツしそうだった。

「おれは、あいつを許さない。いつか必ず見つけだして、おれの手で裁いてやるんだ」

「それって――」

「殺す」

「そんなことをしたら、犯罪者だよ」

「犯罪者でいいさ、あいつを殺すことができたら、おれは死んでもいい。そのために生きてきたんだ」

 イチコの大切な思い出を呼び起こす「いかなご」というキーワードはタクミにとっては憎悪の着火点になってしまう。

「タクちゃん」

「相変わらずの泣き虫だな」

タクミは枕元の灯りを消した。

「カバは泥水に棲んでいるんだ」

  イチコはタクミにすり寄る。甘酸っぱい匂いがした。殺すと言う言葉を耳にしても少しも怖くない。タクミのそばにいれば困ったことや嫌な思い出は掻き消える。

 次の日の朝、リビングへいくと、キッチンカウンターにカットさたグレープフルーツとキウイが皿に盛られていた。

「オレンジジュースが無いんだ。これで我慢しろ」

 窓ガラスから差し込む光にイチコは目をしばたかせる。タクミから聞いた昨夜の話は夢の中のお話だったのかもしれない。いわゆる残酷童話ってやつかな。

「今日は帰るのか?」

 イチコは首を振った。

「おれ、今日の仕事はちょっと早いんだ」

そう言って玄関の右側にある部屋へ入っていった。

 イチコは、急いでソファーの陰で服を着替えた。

タクミは前髪をすべて後ろに流し襟足に残した後ろ髪を遊ばせている髪型をして戻ってきた。グレーブルーのスーツによくフィットしている。

「もう、でなきゃいけない。もし、家に帰るのなら、鍵はポストに」

「帰らない」

イチコはタクミの言葉を最後まで聞かなかった。

「ここにいちゃだめ?」

「お姫様の気の向くままに」

タクミは、軽く手を上げてでていった。

 イチコは急いでポーチを取り、静かにくつを履いた。そっと玄関のドアを開ける。エレベーターの閉まる音が聞こえた。

 エレベーターの横にある階段を駆けおりた。十二階の最上階から四階だけ下におり、八階のエレベーターで「▼」のボタンを押した。  

一階から上がってくる時間は遅く感じたが、息を整えることはできた。マンションのエントランスからタクミがタクシーを止めるのが見えた。タクミがこちらを見ていないのを確認し、イチコは少し北側に移動してからタクシーを止めようとした。

三台目でやっと捕まえることができた。南へ向かったタクミのタクシーは何台かの車の前にいたが、ちょうど交差点の信号で止まっていた。運転手には前にいるタクシーと同じところにいって欲しいと告げた。運転手は不審そうな目でイチコを見た。どの車か分からないので指示してほしいとだけ言って発車させた。交差点を抜け真っ直ぐに走りJRと阪急の高架下を他の車と連なるように抜け、右手に市役所の建物が見えてきたときタクミの乗ったタクシーは車線を右に変えた。運転手にそのことを告げる。

運転手は面倒臭そうに後ろの車を気にしながら右へ車線を変更し信号を右に曲がった。前の車がすぐに右へ曲がった。

「あの車です」

真っ直ぐ前を走る車を指さした。車はしばらく走って左へ曲がった。それから二回右に曲がった。

「ここでいいです」

タクミが乗ったタクシーが止まったのを見てドライバーに声をかけた。

五十メートルほど手前だった。イチコはタクミの姿を目で追いながら料金を払いタクシーを降りた。

 足早にタクミが入っていった建物に近寄る。「OLIENTAL・ HOTEL」の正面玄関の入口だった。高校の校門を入った真正面に植えられていたのと同じソテツが左右に置かれていた。

 タクミが消えていったガラスの回転ドアをしばらく見つめたが、立ち止まった足を動かしその場を通り過ぎた。スマホを取りだしてから現在の位置を確認し、そのまま繁華街へ歩きだした。タクミの部屋に足りないものが一つあった。グリーンだ。


          〈3〉


 薄暗くなった部屋の中で、一人では広すぎるベッドの右側にお腹を丸めて縮こまっている自分がダンゴ虫に思えた。

 ダンゴ虫はどのように繁殖するだろう。枕元に置いていたスマホを手に取り「ダンゴ虫・繁殖」と入力した。乳白色をした成虫と全く同じ形をしたちっちゃな赤ちゃんが母親の足の下で蠢いていた

 幼かった頃、真ん丸になったダンゴ虫を指先ではじいて転がした。見つけては服のポケットに入れていた。どうしてあんなことができたのだろう。

 バチがあたったのかな。

 スマホの画面に映るダンゴ虫の左右についた無数の足を見ていた。

 自分の体の中に数えきれないほどのダンゴ虫が入ってきて縦横無尽に動き回っているようだった。

 昼間、ドラッグストアにいき、妊娠検査薬を購入した。デパートのトイレに入り試みた。検査終了線と反応線と二本の線がくっきり見て取れた。イチコは検査説明書を何度も眺めながら便座から立ち上がれなかった。やっとのことで個室のドアを開けたとき、順番待ちで並んでいる女性たちから非難の目が一斉に注がれた。

 初めて付き合った男は、高校の同級生だった。

イチコは家に帰るのが嫌で、放課後は学校の図書館で勉強をしていた。家をでたい一心で東京の有名大学を目指した。誰でも知っている名前の大学ならプライドの高い祖母にも文句を言われないと思った。

 三年生の一学期で所属するテニスの部活を終えた彼は、図書館に通うようになった。「分からないところを教えてくれるかな」とイチコに声をかけてきた。隣のクラスにいることは知っていたが、話をしたのは初めてだった。一緒に勉強をするようになり、二週間後には初めてのキスをした。ファーストキスだ。

 彼は市内の私立大学の受験を目指していたが、イチコと一緒に勉強をするようになり、成績が伸びた。秋になり、イチコと同じ大学に通いたいと言いだした。彼は、合格ラインには危険なゾーンの成績で、先生からもあきらめた方がいいと言われていた。

 イチコは学年のトップクラスにいた。担任の先生からも大丈夫だと太鼓判を押されていた。彼は自信が無い、自分は絶対に落ちる。遠距離恋愛など無理だ、君は東京で新しい男と出会い僕など忘れてしまうと、駄々っ子のようにすねた。

 なだめるつもりで彼の家でたどたどしいセックスをした。いままで、自分しか知らないかった裸の身体を初めて他人の目にさらした。相手の手が乳房を包み柔らかな腹を撫でた。骨ばった彼の肩や腰骨の感触が手のひらを通して大脳の奥に染み込んだ。それはイチコの日常を非日常に変える磁力があった。

受験日はあっという間にやってきた。

二人で東京まで試験を受けにいき、一緒に過ごすであろうキャンパスライフを想像し、セックスを楽しんだ。

 合格発表の日、それぞれにインターネットでの合格発表を確認した。彼は受かったが、イチコは不合格だった。何度かメールのやり取り取りをした。高校の卒業式まで顔を合わすことはなかった。彼は早々に上京し連絡は来なくなった。イチコはスマホにある彼の情報はすべて削除した。

 消せないものが残った。気づくと生理が二回飛んでいた。最初は不合格のショックで遅れているのだろうと思った。さすがに二ヶ月ともなると、「もしも」ではなく「おそらくに」変わる。そして、今日、「やはり」となったのだ。

 どうする・イチコ。

 新しいものを手に入れたことになるのだろうか。結果はイチコが望んだものではなかったが、確かに体内で息づいているのだ。

 手に入れたいものではなかったけれど、かわりに自分は何を手放さなくてはならないのだろう。


「気味の悪い鉢植えだな」 

目の前にタクミの整った顔があった。

「サラセニア。食虫植物だよ」

「なんでそんなもん」

「食べられたいの」

「体調悪いのか?」

イチコは首を振った。

「タクちゃん、昨日のように頭をなでなでしてよ」

 タクミはイチコの横に座って眉にかかる髪を撫でた。

「ねえ、タクちゃんは大切なものを捨てなければならなくなったら何を捨てる?」

「大切なものなんかないよ」

「でも、どうしてもってなったら?」

「どうしても何か捨てなきゃならないなら、命を捨てるよ」

「命、捨てられるかなぁ」

「何かあった?」

「なんでもないよ」

 タクミの手が止まる。

「お前、今日、おれをつけてきただろ」

 イチコはごくりと唾を飲み込んで、上目づかいにタクミを見た。

「タクちゃんが何の仕事をしているのかなって気になって。ほら、タクちゃんのお父さんの話で――なんか、聞きづらくて」

「それで?」

「だって、仕事って、朝から夕方まで働くとかが普通じゃないの? タクちゃんは朝からじゃないし、決まっていないみたいだし、それに……」

「体を売ってる」

「――そう、なんだ」

「金持ちの叔母さま方の相手をしてる」

「相手って何をするの?」

「食事して、くっだらない話を聞いて、セックスする」

 タクミは肩をすくめるようにして腰のあたりでかるく両手を広げた。

「深刻な顔するなよ。まともな仕事をして、おれがこんな生活ができるわけないだろ。賃貸だけど、いいところに住んで、いい服着てさ」

「それって」

「かあちゃんとおんなじだって言いたいか?」

「おばさんとは違うだろうけど」

「けど――なんだよ」

タクミの目の周りの筋肉が収縮した。

 イチコは首を振った。

「かあちゃんは脅されて体を売った。おれの客は快楽のためにおれの体に金をだす。同じセックスだ。何が違う? 金のいき先だよ。取られるか取るかのな」

「それでいいの、タクちゃんは」

「金があれば何でもできると思っている人種がいるんだよ。金さえあれば何の疑問も抱かずに欲望を思うがままにさらけだすんだ。もはや、人間とは思えないほど、あさましくなるんだ」

 単純で一方的なルール「欲望=悪」という言葉が思い浮かんだ。

「そんな奴らを相手にしながら、おれの中に芽生える憎しみをどんどん増やすんだ。かあちゃんの声を忘れないようにするには、ふさわしいやり方だろ。ゲームオーバーになるまでな」

 イチコは息を止めて聞いていた。

タクミの手が頭に乗っかった。

「やれやれ、厄介なお姫様を拾ってしまったな。とんだ再会だ」

 タクミはシャワーを浴びると言ってリビングからでていった。

 彼が味わった過酷な十四年間に比べれば、自分の過ごした時間が平らで薄っぺらなものに思える。くだらないことに反発して流されるままにセックスをして夢中になってこのザマだ。もし、自分が合格して相手の男が不合格だったら同じことをしただろうか。追いすがったに違いない。どちらにしろ妊娠したことを告げたら何もかも終わっていた。家出をしたのも反発からじゃない。祖母や母に体調の変化を知られなくなかったからだ。


 イチコはタクミより先に目覚めた。そっとベッドをでてキッチンへ入った。朝食の支度をしたかったが、実家で料理を作ったことがなく、冷蔵庫を覗いても何をしていいか分からなかったし、これといった食材も入っていなかった。

祖母はイチコに台所に入ることを許さなかった。庭の植木への水やりや、外回りの掃除を言いつかった。草を抜いたり落ち葉を集めたり、溝に溜まるゴミを取りだしたり――。ここでは、なんにも役に立たない。

イチコは洗面所へいき顔を洗った。鏡に映る自分の顔の輪郭がぼやけている。胎児と自分をどう扱っていいのか。出口のない気分だった。

 リビングに戻るとタクミは起きていて、冷蔵庫からペットボトルの水をだしているところだった。

「お前も飲むか?」

グラスに水を注ぎながらタクミが訊いた。

 イチコは首を振った。

タクミはとんでもない話をしておきながら、話しているときもそうだけど、翌朝は何もなかったような顔を見せる。イチコは彼との隔たりを感じずにはいられない。ここに居ていいのかいけないのか。  

イチコの不安な気持ちを察したのか、

「今日は一日中遊ぼうぜ」

「ほんと?」

「だましたように聞こえるか」

 グレーのパーカーにインディゴのジーンズをはいただけで、二十三歳のイケメンが出来あがった。いや、なんにも手をいれないぼさっとした髪形ならイチコと同い年に見えるかもしれない。

 イチコは新しく買ったくつを急いで履いた。バックスキンのゴム底のくつは歩きやすい。


JR三宮駅前の喫茶店に入った。タクミは、フルーツセットのモーニングとコーヒーをオーダーした。

バゲットにベーコンやトマト、歯触りのいいアスパラガス。目が喜んでいる。ミックスジュースにフルーツポンチまでついていた。

「これじゃ、お子様だよ」

イチコは唇を尖らせた。

「不満か?」

タクミはコーヒーカップを手にした。

 洋風の朝ごはんを食べたのは、高校の修学旅行以来で北海道にいったときのホテルのビュッフェくらいだった。

 フルーツポンチに入っていたソーダ水に心が満たされた。イチコが食べ終わるまでに時間がかかった。タクミはたびたび時計に目をやる。やっと食べ終わりトイレを済ませでてきたときには、タクミは清算を済ませ出口ドアの近くに待っていた。イチコを見ると早く来いと言うように手招きをした。

 イチコがどうしたのか聞いても笑うだけで急ぎ足でイチコの手を引いた。そぞろ歩くという言葉はこんなときに使うのかな。バスターミナルに着いた。

「なんとか間に合いそうだ」

タクミは券売機で買った切符を手に並んでいるバスのいき先を確認している。

「どこへいくの?」

ふらふらついていくイチコは、彼が指さした先を見た。『ユニバーサルスタジオジャパン』と書かれていた。

 バスは海岸線を走った。イチコは海沿いに並ぶ倉庫やビルの上にある看板を眺めていた。

「気分、悪いのか?」

タクミが心配そうに訊く。

「ちょっと酔ったかも……食べ過ぎたのかな」

イチコは目を閉じた。

 昼前には着くことができた。

「やっぱり一番は、ハリーポッターだろ?」

ゲートを抜けるときにタクミが言った。

「タクちゃんよく来るの?」

「いや、初めて。来てみたかったんだー」

 タクミは園内案内地図を見ながら先に歩く。すでに多くの人の歩く流れができている。うっそうとした木々に囲まれた道を進むと本で読んだ通りの風景の再現がそこにあった。景色が見えた瞬間に、それが頭の中で想像していたものと同じだと一瞬にして塗り替えられたのかもしれない。本を読む人それぞれが自由に思い描いていたものが目の前の画像に上書きされ――、そんな感じだ。

 そびえたつホグワーツ城へ入場を待つ人の列ができている。植込みから流れる音楽が徐々に雰囲気を盛り上げる。

「映画見たか?」

 タクミの質問にイチコは首を振った。

「おれも見てない。でも本は読んだ。一時預けられていた養護施設に七巻全巻そろっていたんだけど、まともな本はなかったな。こんなことあるわけないって思いながら読んだ。魔法なんか使えるわけない。使えたなら。こんなところにいない。それでもどんどん物語に惹かれていくんだ。不可能だって分かっていても、全く別の世界へ逃げたかったんだ。まわりはそんな奴ばかりだったんだ。だから、ハリポタは特別にボロかった」

 イチコも本は読んだ、三巻くらいまでだ。小学生の高学年になったころ、父親が買って来てくれた。読み終わるまでに何か月もかかった。おそらく家に置かれている本は新品に見えるに違いない。魔法を使ってしたいことなどなかった。

「タクちゃんはずっとそこに?」

「いや、十五歳まで、高校に進学してもいいって言われたけど、学校なんていきたくなかったし、あいつのことを探しだしたかったからな」

「それからは?」

「施設の紹介で、日本食の料理屋に働き口を見つけてもらった」

大々的に看板を掲げているような店ではなく、小さなビルのワンフロアにひっそりと構えている料亭だったと言う。知る人ぞ知る名店だったらしい。

「おれを引き受けてくれた人は、七十のじいさんだったんだけど、雇われてすぐに息子の代に変わった。息子はおれを引き受けることを反対していたみたいでおれにつらく当たったよ。でもおれは小学校のときから殴られるのは慣れてるからね、なんでもなかった。たださ、じいさんが突然倒れたんだ」

 イチコの魂がタクミの痛みを感じた。

「右半身がまひしたからさ、その世話をすることになったんだ。仕事は朝から晩まで目いっぱいあったよ。じじいのくせに厳しいんだ。達者な口でおれに命令しまくって……。それでも礼儀とか口のききかたとか、病人用の料理の作り方なんかもきっちり仕込まれて――。初めて躾ってのをしてもらったと思ったよ。今になって考えたらありがたいことだよな」

 ホグワーツ城へ入るための列は少しずつ進み、やっと屋根が付いた建物の中へ入った。イチコ達の前には修学旅行と思われる高校生たちが何組もいた。つい、数か月まで彼らのように制服を着ていたのに、遠い昔のことのように思えた。

「そのおじいさんは?」

「おれが十八のときに死んだ。脳の血管が詰まってさ。あっけなくあの世に逝ったよ。悲しむ間もなかった。息子の店に逆戻りだよ。じいさんの息子はおれを心底嫌っていたから、おれより年下の下働きのやつに顎の先で使われたよ。おれが勝手に話を作ってると思ってないか? おれってウソをつくのがうまいんだ」

 イチコは呆気にとられる。

「この店をぶっつぶしてやろうと思った矢先だった。玄関先で客の履物をだしていたときに声をかけられたんだ。もちろん女の客だ。二十歳を過ぎたころだったかな。で、今に至るわけ」

 タクミはおどけたようにすこし首を傾けた。この仕草は子どものころによく見せた。困ったときや気恥ずかしいときに。

 イチコは水を口にした。

「おれがしている仕事を知ってがっかりしたか? いやだと思ったか?」

 イチコは首を振った。

「まともじゃないと思ってるはずだ」

タクミはイチコから顔をそむけ前を向いた。

「普通じゃないことはわかる。でも、わたしがタクちゃんに文句をつけられるような生き方をしているわけじゃないから。気にしなくていいと思うよ」

「お前拾わなきゃ、ハリポタに再会できなかったよ。感謝しなくちゃな」

 タクミは首をかしげながら言った。

 やっと城の中へ進むことができた。薄暗い建物には本の中にでてきた動く肖像画などが現れた。館内に入ると列が進むのが早く感じる。ロッカーに荷物をあずけ、早歩きになった。アトラクションの乗り物に座ると、動きだした直後から本の中の登場人物が話しかけてくる。一気にスピードが上がり映像の中を駆け巡る。初めての体験に心臓が口から飛びだすかと思ったが、空中から急降下する場面では、恐怖はなくそのまま異世界に投げだされるような気がした。極度に興奮すると生きている実感まで吹き飛んでしまうのかもしれない。お腹に居座っている異生物もそう思ってくれないだろうか。

揺られすぎたせいで気分が悪くなった。

 ロッカーに戻り荷物を取りだし、グッズショップを通り抜けて外へでた。

ベンチに座り深呼吸をすると少し楽になった。

 タクミは売店で本の中にでてくるバタービールを買った。イチコは胸苦しいと言って断った。

「無理してついてきてくれたんだよな」

タクミの声がややうわずっている。

「おれ、こんな日が来るなんて思ってなかったから舞い上がっちゃって、悪かったよ」

「違うよ、楽しいよ。でも自分がこんなに乗り物に弱いとは思わなかっただけなんだよ。もうよくなった」

 イチコはタクミの腕を取って立ち上がった。

 二人はハリーポッターのゾーンをでて隣のワンダーランドゾーンへ入った。子ども中心のアトラクションだった。他のゾーンよりも人が少なく、ゆっくりと歩けた。スヌーピー専門の店に入り、タクミの提案でおそろいのスタジャンを購入した。胸元にあるアルファベットのPの字の上にスヌーピーが寝転がっていた。

「どうしても乗りたいものがあるんだ」

タクミが指さしたのは、建物や道路の上を横断しているジェットコースターだった。見上げると悲鳴を上げている客を乗せたまま猛スピードで高いところから落ちたり左右にねじれたりして走っていた。

「いいよ」

イチコはタクミの手に自分の手を重ねた。タクミの笑顔がうれしかった。ゆうべ聞いたタクミの身の上話がいっときでも薄れる気がした。上にも下にも、前にも後ろにもいかない乗り物ってないのかなあ。

ジェットコースターの乗り場には何重にも折り重なるような列ができていた。並んでいるときにスタートしたばかりのコースターが頭上を走っていく。観客は下にいるイチコたちに手を振る。イチコの周りに並んでいる人たちがそれに応えて手を振る。

「わたしたち、どんなふうに見えるかなあ」

「どんなふうにって?」

「恋人どうしとかに、見えたりするかなって思って」

「ここにいる連中は他人のことに関心なんてないさ」

「そうかなあ……。わたしは恋人どうしに見られたらうれしいなぁって思ったから」

 タクミは黙っていた。

「わたしね、タクちゃんとずっとずっとずっと一緒にいれたらよかったのにって、本当に、心から思っている」

 イチコはタクミの腕をつかんだ。

「たとえ一緒にいたとしても、おれの人生は変わってないさ。甘ったれのイチコとは違う。おれは自分の判断に絶対の自信を持っている」

「どう違うの」

「お前は引っ越したあと、おれとおふくろがどうなったかなんて一度も気にしなかっただろ? 違うか?」

タクミの声を遠くで聞いた。

「おい、顔が真っ白だ」


          〈4〉


 明るい白い色がぼんやりと見える。知らない人の声が聞こえた。「急に起き上がらないでください」

一度上げた首を下ろして目を閉じた。

「大丈夫か?」

 タクミがそばにいる。イチコは目を開けた。眉を寄せたタクミの顔がうっすらと見えた。

「わたし、どうしたのかな」

「貧血だって」

 行列に並んでいて、隣にいたタクミの腕をつかんだところまで思いだすことができたが、そのあとは思いだせなかった。

 タクミの手を借りて体を起こし、ベッドから立ち上がった。

「無理しないでね」

看護師だと言う女性に見送られて救護室をでた。

【ファーストエイド】と建物には書かれていた。

「つぎははどのアトラクションにする?」

イチコはタクミの手を引く仕草をした。タクミは帰ると言って出口へと向かった。タクミが絶対に乗りたいと言ってたジェットコースターにも乗っていないのに、申し訳ない気持ちが湧き上がった。無言でイチコの手を引っ張るタクミになんて言えばいいのか。

三宮行のバスは停留所に止まっていた。二人が乗ってから十分ほどで走りだした。

「寝てろ」

タクミはイチコの頭を自分の肩へもたせ掛けた。

 目を閉じた。気づくとバスは海岸線から一般道へ降りて街中を走っていた。目覚めてから五分もかからずにバスは乗った場所と同じ車庫に入った。

 タクミのマンションまで歩いて十五分くらいのところを、いつまでたっても辿りつかないんじゃないかと思うくらいのゆっくりした足取りで歩いた。

 部屋へ着くと、「休んでるんだぞ」と言って、タクミは玄関をでていった。

 体がだるかった。風邪でも引いたのかも。ここに来てから、まともな食事をしていなかった。

 部屋着に着替えてとりあえずベッドに入った。言われたとおりにしていなければ、タクミが帰ってきたときに叱られそうだと思ったからだ。

 スマホを取りだし、今日撮った写真を映しだした。ハリーポッターのホグワーツ城へ入るまでに並んでいたときのタクミの横顔が二枚とスタジャンを着たタクミが一枚だ。二人で一緒に映るよう自撮りでもすればよかったと思いながら三枚の写真を繰り返し眺めた。

 ウトウトとし始めたころ、タクミが帰ってきた。スーパーの買い物袋を両手にさげていた。

「うまいもの作ってやるよ」

「タクちゃん作れるの?」

「じいさんに仕込まれたんだ。そこいらの料理人にはまけない腕前だ。楽しみに待ってろ」

 タクミの表情に笑顔が戻った気がした。

イチコはベッドの中で寝入ってしまった。

 目覚めたころ、外はすっかり日が暮れていて、キッチンだけに灯りがともっていた。セピア色に染まりながらTシャツにジャージの部屋着姿のタクミがテーブルの椅子に座ってイヤホンを耳に挿したままスマホを操り、声を鼻にぬかせて歌っていた。

イチコが身を起こした気配に気づき、タクミがスマホを置きイヤホンを外した。リビングの照明にスイッチが入った。

「なに聞いていたの」

「クイーンの『ボヘミアン・ラプソディー』」

「そう」

 うなずいたけれどよく知らなかった。

「日本語の歌詞知っているか?」

「自由にはじけようって言うんじゃないの」

「『ママ、俺は人殺しだ』ってところがサイコーなんだ。お前はいつも何を聴いているんだ」

「決まってない」

 ベッドからでた。顔を洗ってくると言うと、ついでにシャワーも浴びろと言うので、着替えを持ってバスルームへ向かった。少し熱めの湯をだして浴びた。一日中、頭がぼんやりしていたような気がする。どうするのか決められないせいかもしれない。こんなときは、アルビノーニの『アダージョ』を聴きたい。学校でもそうだったけれど、クラッシックが好きだなんて、死んでも言えなかった。

 リビングへ戻るとテーブルに食事が用意されていた。

 魚の煮つけに、ひじき、湯気がでているような餡がかかった豆腐、里芋の煮物、ホウレンソウが入った味噌汁。檜木田の家でもよく見るメニューだった。

タクミと向かい合って食べる食事は特別な気がした。

「いただきます」

手を合わせて箸を持った。食欲はわかなかったが、少しずつ口に運んだ。母が作る料理と似ているのに違う。体の中に浸み込む味がした。あの人の作るものは味が濃かったのかもしれない。食材のもつ本来の味わいを殺してまでは母は祖母に従っていたのだ。

「おいしい」

イチコはタクミを見て微笑んだ。

「残してもいいぞ」

 イチコは頷いた。おいしいと思っているのに、魚は半分も食べられなかった。味噌汁は飲みきれなかった。

 イチコの様子を察したタクミは「無理するな」と言って皿をさげた。

「ほんとにおいしいんだよ、でも、なんか……」

「気にするな、少しでも食べれて良かったよ」

 タクミはキッチンで洗い物をした後、ガラスのティーポットに入った飲み物を用意してくれた。

「紅茶?」

「いや、ルイボスティーだ」

 カップに注がれたルイボスティーは見た目は少し赤めの紅茶のようだったが、酸味が効いていて飲みやすかった。

「妊娠してるんだろ」

タクミはイチコの横に立ったまま言った。彼からいい匂いが漂ってくる。

「ルイボスティーはカフェインが無いから妊娠中にはいい飲み物だ」

「どうしてそんな話を……」

「ファーストエイドの人が言ってた。妊娠してるんじゃないかって」

「ただの貧血だよ」

「相手には言ってるのか?」

 イチコはあきらめたように首を振った。

「じゃ、おじさんやおばさんにも?」

「放っておいてよ」

「そうだな、自分のことだからな。自分で乗りきるしかないよな」 

タクミの声がいつにもより無機質に聞こえた。ついさっきまであんなに楽しそうな笑顔をみせてくれていたのに、押し戻そうとしていた現実からは、逃れられないってことらしい。

イチコはかたわらに立つタクミの手を握りしめた。

「タクちゃん、お願いがあるの」

「おれにできることならなんでも」

「もし、わたしが嫌いじゃなかったら……」

「嫌いなわけない」

「わたしを抱いてほしいの」

 タクミの身体が一瞬硬くなったのが分かった。

「何言ってるんだ」

「わかってるでしょ、セックスだよ」

 タクミは顔をそむけた。

「やっぱりわたしじゃ嫌? もうあの頃のような子どもじゃないよ。わたし、タクちゃんにそうして欲しい」

「勘弁してくれよ」

 イチコは立ち上がりタクミの両腕を掴んだ。

「こんなにお願いしているのに。わたし、これでも結構、勇気振り絞って言ったんだよ」

「勘違いするなよ」

タクミはイチコの腕をほどいた。

「お前を抱いたって、おなかの子供がおれの子供になるわけじゃないんだ」

「そんなこと言っていない」

「そうかな、おれにはそう聞こえたけどな」

 タクミはイチコから離れて冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだした。水を喉に流し込んでからイチコに向きなおった。

「おれにとってセックスは憎しみ以外の何物でもない。金を払って男にセックスさせるような女には憎しみを持てる。だから仕事にできるんだよ。憎んでもいない女を抱けるわけがない」

 イチコはタクミの視線を外して下を向いた。 

「お前が言った言葉、忘れてなかったよ。『迎えに来てくれ』って言ったよな。『待っているから、ずっと待っているから』って。でも、おとぎ話だとすぐに気づいたよ。どんどん汚れていく自分にそんな資格がないってことを思い知らされた。たった三年のことだったけど、おれは忘れられなかった。会いたくて会いたくて仕方がなかった。なのに、お前との思い出から遠ざかっていくような生き方しかできなかった。必死にあがいたよ。お前を花壇で見つけたとき迷った。何を期待したんだろうな。あのときのまんまじゃないってわかっていたのに」

 イチコの目から涙があふれた。

「泣いてんじゃねぇ、おまえ、覚悟ももたずに体を差しだすんじゃゃねぇんだよ」

初めて聞くタクミの怒鳴り声に体が崩れ落ちた。床に座り子どものように大声をだして泣いた。


          〈5〉


 タクミがスマホで話をしていた。

「そいつは本当にツムラテルキと名乗ったのか。顎の下に傷はあっただろうな。わかった。すぐにいく。見失わないでくれ」

 しばらくしてからタクミがリビングへ戻った。ジーンズの上に黒の革ジャンを着てきた。寝ているイチコの方を見た気がして思わず目をつむった。テーブルで何かを書いている音が聞こえた後、タクミは急ぐようにでていった。

 父親が見つかったのだ。イチコは目を閉じたまま深く息を吸った。

 枕元の小さな灯りだけの暗さに目が慣れてきてベッドをでた。

 テーブルの上に一枚の紙が置かれている。

「お父さんに相談しろ」とだけ書かれていた。

 イチコはカウンターの上に置いてあるグラスに入ったカバのストラップを手に取った。キッチンの流しに水を張ったカフェボールのなかにスマホが入っているのが見える。

 父親への憤りをかかえながらずっと生きてきた。その溜めこんだエネルギーを解き放つときがきたのだ。

時間を見ると夜の十時を回っている。 

 イチコは昼間に着ていた服に着替えた。紙袋に自分の荷物をまとめUSJで買ったスタジャンを着て、ショルダーポーチを斜め掛けにした。ポーチについていたカバのストラップを外し、タクミのストラップとテーブルに並べる。

 マンションの郵便受けに鍵を入れた。エントランスをでた。どちらへ歩こうかと見回し北へ向かった。少し歩くと大きな交差点の上にそれぞれ四方向の道路を繋ぐ歩道橋がある。ゴミが両端に散らばっている階段を上った。真ん中まで歩いたところで東西に延びる幹線道路を見た。数えきれない車輛が一定方向に走り抜けている。赤いテールランプがどこまでも続いている。

 イチコは持っていた紙袋を地面に置いて踏み台にした。

「もう、何を手放していいか分からないよ」

 手すりに手をかけた。

歩道橋で踏み台にして荷物を蹴った。

 手すりを支点に体が浮いた瞬間にイチコは消えることができると思った。父への怒りやお腹の子への申し訳なさのいっさいがっさいをひっくるめて捨てたはずだったのに、強い力で引き戻された。何が起こったか分からなかった。気づくとイチコは見知らぬ男性の身体の上に乗っていた。

 男性の通報でイチコは警察官に引き渡された。

「バイト帰りの大学生が通りかかって命拾いをしたんだよ」

イチコをパトカーに押し込んだ警察官はさとすように話した。

 生田神社に近い警察署に連れていかれた。受付の前を通ってすぐの部屋に入れられた。室内の照明の半分ほどが消されて薄暗い。質問に答えないイチコをソファーに座らせた私服の男性は、目の前のテーブルにイチコの所持品を並べた。スマホはロックをかけていたので誰も操作できなかった。ただ、父親からもらった通帳を入れた封筒に書かれた社名と通帳の苗字が同じということで本人確認をしたようだ。会社に連絡を入れると男性はイチコに告げた。父親の存在が遠く感じた。いや、イチコ自身も数十分前の自分からはかけ離れた物体に思えた。なんでゲームオーバーにならないんだろう。


「檜木田一心(イチコ)さん、お迎えが来ましたよ」

 女性の制服警官がソファーに座っているイチコに声をかけた。

父親は挨拶もそこそこにイチコの荷物を手に取り「帰るぞ」とだけ言った。イチコはテーブルの湯呑を見つめたまま身動きしなかった。

 両腕を掴まれ、引き上げられ、イチコは立ち上がった。

「帰るって、どこへ?」

ゆっくりと首を回し父親の顔を見た。父親は目を逸らした。

「もうすぐお母さんも来るからな」

 自身の足が正常に機能しているか意識できないまま父親に右腕を掴まれたまま歩いた。出入り口のドアが見えたとき、駆け込んでくる母親の姿が見えた。

 父親は足をとめた。

 ドアが開き、足早に近づいてきた母はイチコの前で立ち止まり右手を振り抜いた。手加減のないビンタを受けたイチコはよろけた体を立て直した。

次の瞬間、なぜ今、自分が死なずにここにいるのかわかった。予感が確信に変わるのに時間はかからなかった。

イチコの目は出入り口へと吸い寄せられ、くぎづけになった。二人の警察官が若い男を両脇から挟むようにして入ってくるところだった。

 イチコは父親の手を振り切って駆けだした。

「タクちゃんっ」 

 タクミに伸ばされたイチコの手は、横にいた警察官に遮られた。再び手を伸ばしたが、タクミの身体には届かなかった。

「待って」

今度は警察官に取りすがったが「放しなさい」と鋭い声で振りほどかれた。

「よしなさい」

父親は、なおも追いかけようとするイチコの前に立ちふさがった。イチコは離れていく革ジャンを見つめたまま床に座り込んだ。もう二度と会えないと思っていた。タクミはイチコを一瞥もしなかったが、そんなことは同じ時間帯に起こった二つの偶然と必然に比べれば些細なことだ。

 父親はイチコを引きずるようにして歩き、タクシーを拾い、仕事場の事務所に場所を移した。三宮にある父のマンションの部屋へと向かわなかったのはそこにもう一つの家庭があるからだ。母に知られたくないのだろう。

「どうしてこんなことをしたんだ」

努めて優しげな声で問いかける父親が滑稽だった。

「自分を捨てたかったのよ」

「だからなぜそんな……」

父親の声が途中で消えた。

「あなたに捨てられたのが理由じゃないから。妊娠したの。どうすればいいか考えたけど、もう、手に負えなくなって――どうでも良くなったのよ」

「さっきの男ね」

母親の尖った声が神経にさわる。

「違うわ」

「警察に捕まるようなことをする男と付き合っていたなんて」

手が再び振り上げられた。

「違うって言ってるじゃないの。タクちゃんはわたしが父さんに見捨てられたときに、道端にいたわたしを拾ってくれたんだ。二人ともわたしと似たりよったりだから忘れているよね。彼はツムラタクミ。タクちゃんだよ」

「ツムラ……タクミ君なの」

母親は遠くの記憶を引きだすようにつぶやき、静かに手を下ろした。

「お母さんの名前は確か、劉さんだったわね」

「明石に住んでいた頃の……」

父親も思いだしたようだ。

 しばらく誰も口をきかなかった。

「じゃあ、誰が……」思いだしたように母親が聞いた。

「言ってどうなるの? みじめになるだけだよ」

「相手は知っているのよね。子どもができたってことは」

「関係ない。今更、母親ヅラしてわたしに関わらないでよ」

「なんですって!」母は声を荒げた。

「だってそうじゃない。今まで散々放っておかれたわ。おばあちゃんのせいにしないでよ。お母さんはわたしのことなんてなんにも知らないくせに」

 イチコはテーブルに置かれていたポシェットを取り出口へ向かった。

「待ちなさい」

父親がイチコの腕を取った。

「お前は、誰にも言えなかったから死のうとしたんだよな。そりゃ、大した親じゃないけど、もう、お前の悩みが分かったんだから、一緒に考えようじゃないか。今でていったって何の解決にもならない」

 父はイチコを来客用のソファーに座らせると、できるだけ平静を保った口調で語りかけた。

「どうだろう、イチコ、子どものことはなかったことにしなさい。お前はまだ若い、これからだ。今、子どもを抱えて未来を台無しにすることはないんだ」

 母親が大きく息を吸い込んで静かに吐きだした。

「それは、自分のことを言っているのね」

「何のことだ」

父親は母親に向きなおった。

「あなたが親になったのもこの子と変わらない歳だった。台無しになったのよね、自分の未来が――わたしと結婚したせいで」

「そんなことを言っているんじゃない。イチコのことを話しているんだ」

「何が違うと言うの、あなたはずっと後悔して生きてきたのよ。大学をやめて満足できない仕事をしなくてはならなくなった。お義母さまがもし、呼び戻してくれなかったら、あなたはたぶん、わたしたちを捨てていたでしょうね」

母はたったいま思いついたように言った。

「結果は同じだったのよ」

「よさないかっ、今は――」

「今だから言うのよ」

父親の言葉は母に遮られた。

「あなたは待ったのよね。わたしがひとりで家からでていくのを」

「そんなつもりはない」

「よそに女ができて、子どもまで生まれて――気づかないふりをするのも疲れたわ。お義母さまの言いなりになることもだけど」

 父親はだしかけた言葉を飲み込み横を向いた。

「イチコ、いくわよ。荷物を持ちなさい」

母親はドアの方へと歩きだしていた。

 イチコは父親の前に立った。

「父さん、どうするかは自分で考える。でも……一つだけお願いがあるの」


          〈6〉


 イチコはタクミのマンションの部屋にいた。

 母からは一緒に檜木田家へ帰って、家をでる準備をしようと言われたが断わった。母からの連絡には必ず応答する条件で納得させた。

 テーブルに並べられたカバのストラップを見つめていた。

 ここには戻るつもりはなかった。彼も同じようにここに戻ってくる気などないに違いない。

 タクミは自分の父親を殺しにいったのだから。

借り主の戻らない部屋の中を見回した。漂っていた香りは消えている。室内には何ひとつ彼の思い入れのあるものなど無いのではないか。このストラップももしかするとその一つなのかもしれない。

 イチコは父親には自分のことは自分で考えると言ったが答えなど見つからない。実感がないのだ。別の生命が身内に宿っていることなど、どうして想像できるだろうか。

 何が大切で何がいらないのか。自分のことなのに分別がつかない。こんな人間が生きている意味があるのだろうか。タクミのように自分の手で殺したいほど憎い相手がいるわけでもない。祖母や両親のことだって、自分の都合でしか考えてなかった。人は皆、一つを選びとれないから立ち止まったままでいるのだ。イチコの存在自体が父と母の足かせだった。両親にとってイチコは待ち望んだ子どもではなかったという事実にどう向き合えばいいんだろう。

 頬に手をあてた。母にぶたれた痛みが今になって感じる。

 スマホがメールを受信していた。開くと母親からだった。一週間以内に家をでるので一緒に暮らそうと書いてあった。

「一人で暮らすつもりだ」と返信した。

 母はたぶん、家をでていかない。今頃、ほっとしているだろう。今までの辛抱を棒に振る決心がつくはずがない。

ソファーにもたれたまま夜明けを迎えたころに眠りに落ちた。

 人の影が見える。

 男の背中だ。タクちゃん? 戻ったの?

確かめようと目を凝らす。

頼りなさそうに立つ身体にそっておろされた手の先から何かが落ちている。水? いや、血だ。

イチコは両手で口をふさいだ。

男が振り向く。

違う、さっきの男ではない。父の困ったような顔がそこにあった。何だっていうの? 父の身体が薄れ消えていく。

別の人物の影が現れた。同級生だった彼が無表情なまま立っていた。

「もう、たくさんよ」

 イチコは自分の声で目が覚めた。

有り余るほどの日差しが部屋の中に入り込んでいた。

うんざりだ。

昨夜と同じように紙袋とポシェットを手にして部屋をでた。

 JR三宮駅の中央改札口を抜けて、あの日歩いたとおりエスカレーターに乗った。上りきり、真っ直ぐに進み歩道の手すりをつかむ。深呼吸をして振り向いた。下りのエスカレーターの乗り口に目をやり瞼を閉じた。父と女性と少女の姿が浮かぶ。足がぐらつかないことを確かめた。東へ歩く。父の姿を見た後の記憶はほとんど残っていない。ただ、夜の光で怪しげに見えた場所を見たことはなんとか思いだせた。けれど、踏みこんでみると、太陽の光を受けた同じ場所は、整然と整えられていた。芝生に埋め込んだ木の通路があった。薔薇の枝を巻きつかせたようなアーチが作られていた。記憶はあいまいだったが太陽のない世界とはこのように違うものかと思う。

ここにいた自分をタクミは拾ってくれたのだ。

 ポシェットの中から聞えるスマホの着信音に気づいた。

 スマホを取りだすと父親からの電話だった。イチコは立ち上がり、画面に映しだされた「応答」のボタンをタッチした。

「イチコか」父の声は急いて聞こえた。

 返答をしなかったが声は続いた。

「警察へ来たよ」

 イチコはスマホを耳に強く押し当てた。

「タクちゃんは?」

「イチコの勘違いだったようだ」

「どういうこと?」

「お前から話を聞いて、何ができるのかはわからなかったが知り合いの弁護士に頼んでついてきてもらったんだ。殺人となるとわたしだけじゃどうにもならないと思ってな。けれど……、タクミ君は殺人を犯したりはしていなかった」

「でも、警察に捕まっていたわ」

「銃刀法違反、ナイフを持っていたそうだ」

「銃刀法違反……」

 それがどのような罪になるのかは分からなかったが、タクミが彼の父親を殺していなかったことに安堵した。

「今、弁護士が、保釈の手続きを取っている。これから何度か出頭しなければならないだろうが、ここからはでられるそうだ」

「父さん」

「なんだ」

「ありがとう」

「お前の頼みだからな」

 電話が切れた後もしばらくスマホを耳から離せなかった。

 あの日、父と別れるときに父親を殺してしまったタクミの力になって欲しいと頼んだ。なんでもいい、どんな些細なことでもいいからとすがりつき頼み込んだ。

「タクちゃんは殺さなかったんだ」

 体の力が抜けてその場に座り込んだ。頭の中がジンジンとしびれている。脳が事態を把握するのに時間がかかっているのだろう。

しっかりしろイチコ。

 体に温かさを感じながら空を見上げた。眩しくて思わず閉じた瞼を通して陽光が入り込む。


 イチコはJRの中央改札口で待ち合わせる人々の間をすり抜け、フラワーロードを北へ向かう。タクミのマンションへ戻る。

 タクミが警察からでられたのかどうか確かめられなかったが、できるならタクミにもう一度会いたかった。そして、自分にできることをしたいと思った。今までにしたことのないようなことに挑戦してみたかった。

 部屋のドアに鍵を差し込んだが、鍵はかかっていなかった。タクミは中にいる。イチコは深呼吸をしてからドアノブをゆっくりと引いた。部屋には灯りがついていない。寝ているのだろうか、それとも部屋をでるときに鍵を閉め忘れたのだろうか。音をたてないように靴を脱ぎ、リビングへ向かう。薄暗いなかベッドへ目をやるが布団のふくらみは見受けられなかった。カバのストラップは相変わらずテーブルの上に並んでいる。イチコはポーチを肩から外し紙袋と共にソファーへ置いた。

 向こう側に座り込んでいる人影を見た。見覚えのある革ジャンを着ている。

「タクちゃん」

呼びかけても人影は返事をしない。

 ソファーを回り込んでタクミの前に座ったが、彼の半開き目には何も映っていない。イチコが肩をゆすっても表情を変えなかった。 覆いかぶさるようにしてタクミの頭を抱いた。こうすることで彼の息遣いが体に伝わってくる気がした。

「タクちゃんがお父さんを傷つけてなくてよかった」

 汗臭いタクミの身体がピクリと動いた。

「あいつは死んだよ」

「え?」

体を離し、タクミの目を覗き込んだ。

「だって……」

「おれが殺す前に、勝手に死んじまったんだ」

タクミの身体がぶるっと震えた。イチコはもう一度しっかりと体を抱きしめた。お互いの鼓動を聞く。

「何があったの?」

「おれが殺すはずだった。やっと見つけたんだ。そのために生きてきたんだ。そうだろ? おれが殺さなきゃならないだろ?」

 タクミはイチコの腕を振りほどいた。

「あいつはすぐに見つかった。ホームレス同様の格好をしていたよ。会ったとたんあいつはおれに気づいた。おれは突っ走った。もう少しであいつに手が届くとこまでいったんだよ。ポケットからナイフを取りだしたそのとき、雇った興信所のおっさんに腕を掴まれた。おれはその手を振り払ったが、あいつを捕まえる前に、あのやろう、道路に飛びだしやがった。頭の中が真っ白になった。あいつはトラックに轢かれた。おれを羽交い絞めにしていたおっさんが言ったよ。ありゃぁ、だめだなって」

タクミの血走った目がイチコにすがりつく。

「おれが殺さなきゃ意味が無いんだ。なあ、そうだろ。区切りがつかないんだよ、こんなんじゃ」

「お父さんは、タクちゃんに謝ったつもりなんだよ。もうずっと前からそうしたかったんだよ」

「どうしてそんなことが言えるんだ」

 イチコはタクミのとがった肩に手を置いた。

「タクちゃんにお父さんは殺せないよ。そんなことわかってるよね。お父さんはお母さんに甘えてたんだよ。不器用だからお母さんをいじめることでしか気持ちを伝えられなかったんだよ」

「今までなんのために生きてきたと思っているんだ。わかったような口をきくな」

 タクミはイチコの肩を突いた。イチコは仰向けに倒れた。体の奥で何かに掴まれたような痛みを感じて思わずおなかに手を当てた。タクミの目が一瞬、驚いたように見開かれた。

 お互いの呼吸音だけを聞きながら二人とも身動きしなかった。

 イチコは大きく息をし、それから立ち上がった。台所へいき、シンク下から包丁を取りだした。

「わたしが殺してあげるよ。もう、生きる意味がないって言うなら、わたしが死なせてあげる。それからわたしも死ぬ」

 タクミは怪訝な表情でイチコを見あげている。

 イチコは両手で包丁の柄を握りしめ真っ直ぐに頭の上まで上げた。そしてテーブルに向けて思いっきり振り下ろした。二つ並んだカバのストラップの上に。

 ストラップの一つは衝撃で飛び、包丁は残ったカバに食い込んでいた。イチコは包丁をテーブルに置き、飛んだストラップを拾い上げ、食い込んだ包丁を外し、ストラップを二つ並べなおす。そして再び包丁を振り上げる。容赦なく振り下ろす。とぼけた顔のカバはなかなか切り離せない。イチコは繰りかえす。何かに取りつかれたように。

「いい加減にしろよ」

タクミの乾いた声が聞こえた。

「しない」

イチコはタクミに目もくれない。包丁を振り下ろす。

 カバは、同体を切り離され床に転がった。

「わたしたち、あの頃の自分を殺さなきゃいけないのよ」

 イチコは肩を上下させながら荒い息のまま声をだした。

「おばさんは、おばさんの人生だったんだよ。タクちゃんのために死んだんじゃない」

「お前に何がわかるんだ。かあちゃんの手を振り切って取りに戻った大切なものはおまえがいま切り刻んでいるカバだよ」

 手を止め、イチコは息をととのえた。

「みんな、何で当たり前のように生きていけるんだろうね。わたしたちにはこんなに難しいのに……。でもね、生まれてしまったんだからしょうがないんだよね。家族も選べないし」 

 包丁をシンク下へ戻してから、ばらばらになった二体のカバを拾い集め両手に包む。ゴミ箱の前まで歩き、手を広げた。テーブルにあったサラセニアも捨てた。

「わたしね、子ども産むよ。この子が宿った以上産むしかない。だってもうここにいるんだし、生まれてこようとして準備をしているんだもの。わたしなりに、一生懸命育ててみるよ。でもね、その子はなんで父親がいないんだって怒ると思う。わたしが両親を責めたようにその子も反抗するんだ」

 イチコはタクミに向き直る。

「そして、もし、わたしがこの先、変な男に引っかかって、タクちゃんのお母さんのようになったとしたら、わたしはやっぱりおばさんのように、この子を守るんだと思うよ。生きていてほしいと思うからさ」

「かあちゃんが死んだとき、おれはお前の実家にいったんだよ。ばあさんに追っ払われたよ」

タクミは、両腕で抱えた膝の中に顔をうめた。

 乗り換えもあるし大人でも迷う距離だ。イチコの心がタクミの孤独と哀しみでキュッと絞られた。

イチコはソファーに置いたポーチを肩に掛け、紙袋を手に取った。

「タクちゃんに拾ってもらってよかったよ」

玄関へ向かう。途中で振り向いた。

「ぐるっと一回りして、もとに戻らないでいく先が決まったって感じかな」

 くつを履く。ドアに手をかけた。ドアを後ろ手に閉める。

「さよならタクちゃん、元気でね」 

 エレベーターを呼ぶボタンを押す。ドアが開く音がした。

「イチコ」

振り返るとタクミが心許なげな表情で立っていた。 

 エレベーターが到着を知らせる音とともにドアが開かれた。

 イチコは紙袋を足元に落とし、タクミに駆け寄り、肩甲骨のきれいな彼の上半身に腕を回した。

「おれ、生きていてもいいのかな」

「生まれてきたんだもの。生きようよ」

イチコはタクミを見上げて、口角を目いっぱいあげた。

「やな女を抱く仕事を続けるかもな」

「タクちゃん、おしゃれさんだもんね」

「ていうか、世間のアカが染みついているんだよ」

「しょうがなくない、何もかも」

 タクミは首を傾けた。

「おれのもう一つの名前を知りたいか」

「知りたい」

「リュウ・チャオスー。逴巳を中国語で読むとチャオスーになるんだ」

 イチコはチャオスーの瞳を見つめた。薄い膜がかかっている。唇を合わせた。

ぎこちないキスだった。

 唇を離したとき、タクミはイチコから目を逸らした。

「おれ、キスしたの初めてなんだ」

「素敵なキスだったよ」

「これで何もかも吹っきれたよ。じゃあ、そっちも元気でな」

チャオスーは踵を返し、二度と追ってこなかった。

 イチコの目の前の全てが溶けだしてぼやけていった。

 永遠の一瞬が過ぎた気がした

                          完


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