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小さかった僕と、はたらくこと

小さかった僕にとって、はたらくとは大人になること、だった。

物心ついた時から、父も母も働いていた。保育園の先生も、学校の先生も、大人はみんな働いていた。

保育園の帰り道で立ち寄る商店街、そこにある八百屋さんの元気なおじさんも働いていたし、揚げ物屋さんのおばさんも働いていた。苦手だった耳のお医者さんも働いていた。

大人はみんな働いていた。

働く人が、大人なんだと思っていた。

中学生のとき、クラスに”子役”がいた。夏になると定番のように作られる「学校の怪談」に出ていたりした。(売れっ子というわけではなかったから、ほとんどの授業に出ていたし、反面ほとんどテレビには出ていなかったけれど。)

中学生”役”としてテレビに出ていた彼、当たり前だけどいつもの彼ではなくて、嘘をついて中学生の役をしているような大人のようだと感じた。

当時はよくわかっていなかったけれど、はたらくことは、素の本人とは違う人にならざるを得ない、のかも知れないと思った。それは、自分の労働が時間となりお金となるから。彼という個人を消して、中学生役を演じている感じなのだった。


僕はアルバイトをいくつかしたけれど、塾講師やコンビニ店員など、お客さんという存在に相対するとき、大人でなければいけないと思っていた。

それは、僕が考えている大人っぽさを装うことでもあるし、”塾講師役”とか”コンビニ店員役”のように、あたかも自分が俳優になったかのように振る舞うことでもあった。

でもそれには、いくばくかの勇気も必要だったから、慣れるまでに時間を必要とした。

生活のほとんどを”僕”として生きていたのに、いきなり台本を渡されて”役”になるようなもので、いや、台本なんてない口伝のような環境下でアルバイトの始まりを過ごした記憶の方が多い。


日本で一番有名なテーマパークでは、従業員のことを「キャスト」と呼ぶ。来場する客はゲスト、対義語ならホストが正解のようだけれど、そうではなく「役柄としての仕事」を割り振られている。

従業員は皆がロールプレイ(役を演じる)している建前で、パーク内で生き生きと働いているのだ。いつ行っても、ちょっと高めのテンションと、輝く笑顔、誇り高い動作など、非日常を感じるための仕掛けとしても、キャストたちが機能している。


立ち止まって考えてみる。

大袈裟に言えば、働いているときは、大人という“役”なのではないか。

だから、働いていない時は、自分に戻っても良さそうだし、子どもに戻っても良さそうだ。それは僕だけじゃなくて妻にも言えるだろうし、みんなそうであって欲しいとも思う。

もちろんこれは、僕が機嫌良く元気な時に書いているから、余裕みたいなものがそう思わせているのだと思う。

小さな子どもがいたら、親という役はなかなか降りられないかも知れないし、どんな立ち居振る舞いが役に求められているのか分からないけれど、親だって人間だし、自分に戻る時間はあっていいと思うから。


働いているとき、ふとした時に、大人になれているか考えることがある。

僕が幼い頃に見た「大人」なのだろうかと考えることがある。


#私にとってはたらくとは #大人 #仕事 #役

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