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書く意図⁉︎どう読んで欲しいのか、考えないで書いていたよ

妻は、たまに僕のnoteを読んでくれる。

読んだからといって、簡単に”スキ”をくれない硬派な運用である。だから、いつでも読んでいるようで読んでいないし、読んでいないようで読んでいる。

そして、何かあるとコメントを口頭でくれる。適切すぎて鋭すぎて、ときに僕は、心にぐさっと何かが刺さるときがある。

しかし、そんなふうになった後に書いてみたりすると、いつもの自分とは違う書き方ができたり、書きながら考えていることにも幅が出てくる気がする。ありがたいことだ。

その指摘とは、表現の指摘のこともあれば、エピソードを取り出して、あの時はああだったね・・・と思い出話をすることもある。

去年の秋あたりに書いたけれど、ずっと下書きにいる投稿がある。それは、妻のことを書いているものだのだけれど、公開に踏み出せないのは、内容がどうにも方向性が定まっていないと感じるからだ。

妻への不満が根底にあるのか、それとも応援したいのか、あるいは周囲の人にお知らせしたいのか、読んだ後にどうなって欲しいのか分からない、そのことを妻に指摘された。

「あなたは、この投稿を読んだ人がどうなってほしいの?」

実を言えば、この投稿に限らず「この投稿を読んで、読んだ方にはこうなってほしい」というのは、あまり考えたことがなかった。

いやむしろ、考えないようにしていたのかも知れない。

それは、「他人は変えられない」という言葉を信じているからだ。

それは諦観ではなくて、自分で言うのもアレだが謙虚さからである。誰かを変えようとして書くのは、烏滸おこがましい、そんなふうに考えている。

とはいえ、目的なく書いていることに、僕自身が愕然としてしまったのだ。

以前、投稿の目的は、投稿することだと書いたことがある。読み手など、二の次なのだと。そんな失礼な書き手に、読み手の方は憤慨するだろう。

何も考えずに書けることは気楽だけれど、読みたい人は増えないかも知れない。

でも、妻はあるときにはこう言っていたこともある。

「押し付けない感じが、読んでる人が安心するのかもね」

きっと、それだ。

自分でも意識して書いているわけではないけれど、押し付けない感じ、なのだ。

だから、読み手は、何も得るものはないかも知れない。そして、失うものは時間くらいなのかも知れない。それも随分と貴重でありがたいことであるが。

先日、650日の連続投稿をしたけれどフォロワーが少ないのかも、なんて投稿を書いたけれど、そういうことではないんだなぁと思う。

なんというか、僕が書いているのは多くの人に届けなくていい投稿なのだから。

例えば、最近はnoteを始めたような人が多く見受けられる。そんな人からフォローしてもらえると、何だか先輩になった気分だ。

書く意図は何か?

何かを教えたいとか、何かを変えたいとか、やっぱりそういうものではないかも知れない。

敬愛するフォロワーさんから、”平熱”のエッセイだと評していただいた。淡々と書き続けるために、思いついたことを、忘れないうちに書き留めておくような、そんな投稿が僕のいつもの“平熱”の投稿だ。

だから、読み手にとって近くにいる時もあるし、果てしなく遠いところにいることもあるだろう。

きっと、僕は単に書くことだけを続けたいのだと思う。だから、時には目的を持って、ゴールを目指して書くことも意識したい。それが、僕の投稿の幅を広げてくれるし、読んでくれる方に刺激になることを期待しつつ、これからも。


#noteの書き方 #妻の一言  

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