映画館でミスるという〈間〉 │ 「風をとおすレッスン」
書店でこの本を手にして、家まで待ちきれず 帰り道カフェに入って一気に読んでしまった。外はすっかり暗い。
帰り道、映画館で映画を観たくなっている。
田中真知先生の新刊「風をとおすレッスン 人と人のあいだ」
以前、真知先生とお話した際に、この本のおわりにもある「天使をとおすレッスン」について少しお聞きしていた。
私が「大人数で話しているとき、しんとなる瞬間に耐えられず人と対話をする際に〈間〉をつくることが怖い」と話すと、
真知先生は 「みんなで話していて急に静かになる瞬間を、フランスの慣用句で『天使がとおった』と表現する」と教えてくださった。
私が人と話す時、天使が入り込めないくらい ぎゅうぎゅうになっている、と笑った記憶がある。
お話を聞いたときに、ちょうどこの本のことも聞いていたので、発売日を心待ちにしていた。
サブスクは「事故」が起きにくい
2章「『むだ』が教えてくれるもの」にて、映画やドラマを倍速視聴する人が増えていることが語られている。
先日、同じようなことを秋田の映画館のシアタースタッフの方と話したことを思い出す。
その方は「最近はサブスクがあることで『事故』が起きにくい」とお話されていた。
「事故」。それは、映画館で映画を観るとき、超つまらない映画に当たってしまうこと。眠い、でもお金を払ってるし元をとらなきゃいけない、でも眠い、あ〜事故った!思うこと。そして、この経験が楽しい、と。
でも、サブスクはつまらなければそこで再生をやめて、別のものを観られる。映画館という空間でしか起こり得ない「事故」が減っていることを残念そうに話していた。
事故…とまではいかなくとも、映画館で映画を「ミスった」と感じることは私にもある。
今年2月頃に観た「エゴイスト」。
鈴木亮平と宮沢氷魚のキスシーンを目当てにこの映画を観に行った私は、映画中盤、かなりの内容のヘビーさに「ミスったかも」と感じた。多分、サブスクだったらこの二人がイチャイチャしているシーンだけ飛ばし飛ばしみて終了だった。
同時期くらいに観た「Winny」。
誘われて内容もなにも知らず劇場についていったら、開始直前に120分を超える上映時間を知り、この時は本当に「ミスった」と思った。
本の中では、「『むだ』が教えてくれるもの」内「〈間〉がシンクロを生む」で「息遣いだったり、沈黙だったり、せりふとせりふの〈間〉だったり、風景描写」が映画やドラマと観衆との同期を引き起こすとしたうえで、
と語られている。
「エゴイスト」では、二人の息遣い、絵画のような背景、ラストシーンの余韻が今でも鮮明に頭に焼き付いている。ミスって良かった。
「Winny」では、レイトショーで2時間超、長い、眠い、戦い抜く人達の姿、いやでも眠い…あの感じ、よく覚えてる。これは時間帯を本当にミスった。
ミスった!とは思ったけど、時間やお金がもったいない!とかいう後悔は全く感じていない。
むしろ、映画一つにこんな鮮明な思い出をもつことができて儲けものだ。たぶん、サブスクで観てたらこんな思い出は生まれなかった。
映画館で映画をミスるという人生の〈間〉
むだってなんなのか?
映画館で映画をミスるのはむだなのか。
映画館に映画を観に行くことなんて、極論時間とお金のむだかもしれない。
でも、それはシアタースタッフの方にとっての楽しみである「事故」で、
わたしにとって価値ある「ミス」だ。
対話の〈間〉
映画やドラマの〈間〉
人間関係の〈間〉
この本はさまざまな〈間〉について書かれているけど、もしかして映画館で映画をミスるという経験自体、長い目で見れば人生に必要不可欠な〈間〉なんじゃないだろうか。
そう思うと、私が苦手な会話の間にも少しだけ、天使を通してあげようという心の余裕ができてきた気がする。
つまらない映画を、だまって、じっくり2時間座り続け、暗い空間で観ることも、もしかしたら「言葉にならない重要なメッセージが記されている」のかもしれない。
そう考え始めたら、私も積極的に「事故」を起こしに行きたくなった。
来週あたり映画を観に行こう。
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