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『つくる』ってなんだろう? │ 秋田で哲学対話をした話

今年の春学期、大学の授業でずば抜けて楽しかったのが「哲学対話」だった。

「死ぬってどういうこと?」「人を好きになるって?」「なんで人は働くのか?」… 当たり前のことを改めて問い直す、一週間に一回 100分間のとても好きな時間だった。

そして、参考図書で挙げられていた「水中の哲学者たち」(晶文社)を読んで、哲学対話への好きはさらに増していった。

この、自分の考えに浸って、潜る時間がもっとほしい

そんなこんなで、地元秋田に帰省したタイミングで「つくる」ってなんだろう?を考える哲学対話を開催した。



対話が終わって、今この文章を書いている。

哲学対話の授業を受けていたときから、リアクションペーパーに何を書けばいいか悩む。今もそう。

わたしが開催したからといって対話の全部を書くのは難しいし、今思い返せば論理だっていない、その時に発せられたことばたちを組み替えて理路整然とつむぐのも違う気がする。

授業で言われていた気づきや感情の変化を大事にすることを意識しながら書く。


0→1 と 1→2


対話の最初に、『つくる』ってなにか?に対するファーストインプレッションを挙げていった。

「なにか新しいものをつくること」、「つくるって願いの形だと思う」、などなど 色んな考えが挙がる。

私は、0→1 と 1→2にすることには違いがあるんじゃないかと考えていると話した。

今回の哲学対話の題材として「つくる」を取り扱ったのは、デザイナーとしての私が、クリエイターやアーティストと呼ばれる人たちに対してずっと、劣等感ともなんとも言えないもやもやを抱いていたことがきっかけだった。

美大出身の子と普通大学の私。クリエイターやアーティストとデザイナーの私。

新しい物や価値観を創造する人たち。それにたいして、ある程度セオリーが決まっているものを一般化して、組み替えることを仕事にしている私。

私は彼らと自分を、0→1ができる人とそうでない私とで、分けて考えている。


すると、「そもそも0→1で『つくる』ってあるのかな?」という問いが参加者の方からあがった。

「アーティストと呼ばれる人たちも、何かしらに感化されたり、自分の考えていることを表現したい!っていう気持ちだったりから創作がはじまるものだと思っていて」

だからこそ、究極的には0→1は存在しないんじゃないか?って思います」



じゃあわたしの「劣等感」は違うのかも?

…まだ噛み砕ききれてはいないけど、なんとなく、すこしずつ、ほどけてきている気がした。


形あるもの ないもの


参加者のなかに、アイドルの方がいらっしゃった。
「バンドマンとかに、よく『アイドルはつくってない』って言われるんです」と話す。

作詞、作曲。これがバンドマンにとっての『つくる』なんだろうか。

その方は違和感を感じていた。わたしもそうだった。


俳優が好きな私。推しがきっかけで仲良くなった子もいる。


俳優目当てというより、そこに来る友達と話したくて入った現場もたくさんある。

わたしの推しは、彼の手が離れているところでわたしと友達との関係をつくっている。

それは多分、アイドルもそうで。

あ、『つくる』は必ずしも形にすることとイコールじゃないのか。

アイドルの方と今日たまたま話せたのも、そこに共通の知り合いがいて、わたしは話しかけたからだった。これだって 新しく『つくられた』関係。


あれ、じゃあつくるに0→1とか1→2のくくりってないんじゃないか。

感化される過程で出会った人、もの、ことがら。
その時点でもう、関係性とか見えないものをつくってる。

アーティストという 新たな価値を目に見える形にできる人たちに劣等感を感じていたわたし
関係性や目に見えない『つくる』と考えているわたし

自分の中の矛盾に気づく。

ようやく、自分のなかで 「劣等感を抱く必要はない」の考えがすとんと落ちた。

哲学対話のこういうところが好きだ。さっき噛み切れなくて口の中に残っているものがある状態で対話していると、あるときふとごくん、と飲み込める言葉に出会う。


対話を終えて

わたしの中で「つくっている」人に対する劣等感は、変わったのか?

少なくとも劣等感ではなく、「つくっている」人たちにもっと話をきいてみたい という興味に変わった

今回話したアイドルの方を始め、自主制作で映画を作っている方、本の編集をしている方、雑誌を作っている方、デザインを学んでいる方、絵を描いている方… など、


今回参加してくださった方はみんな、なにかをつくっていた。それは、形あるものないものに関わらず。

いや、そう考えると「つくっていない」人はいないんじゃないか?という考えも浮かぶので、きりがなくなってしまうか。

じゃあ、とにかく。話を聞いてみたい。何を考えているのか、どう思っていて、なにをつくっているのか。

わたしの推しみたいに、もしかしたらその人自身が自覚していないところでなにかつくっているのかもしれないのだ。


哲学対話が好きで、哲学科を専攻しているわけでもないけど、今回勝手に地元で開いた。

導入やファシリ―テーションもわたしが行ったが、そこについてはあまり強く記憶は残っていない。

もっと運営とか、ファシリテーションとかにフォーカスしなきゃいけなかったかもしれない。単純に楽しんでしまった。

ここは反省点ともいえる。わたしの気づきと、問いと、その答えしか強く記憶に残っていない。


ここまで書いて、全然まとまっていないことに気づく。気づきと変化を人に伝えられる形でうまくまとめる方法はあるのだろうか…

まとまらないままだけれど、こうやって対話をしたり当たり前のことを問い直すことができるようになる機会をもらえた「水中の哲学者たち」と、立教大学の「哲学対話」の講義に感謝を込めて。

そして、参加してくださった方にも最大のお礼を申しあげたいと思います。


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