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日本の公鋳貨幣45「寛永通宝」


銭づくりを目指し重い腰を上げた幕府

前回紹介した、「寛永通宝 二水永」を筆頭に、1630年台にかけて、各地に質の高い私鋳銭が登場しました。このことは、それまでぼろぼろになった鐚銭をなんとか使いまわそうとばかり考えていた幕府にまったく異なる考え方を呼び起こしました。

「オリジナルの銭を、新たに作ればいいんじゃね?」

幕府にこの決断をさせた背景には、国内の採掘技術向上により、銅の増産が起きていたことがあります。

慶長15(1610)年、現在の栃木県日光市にて、2人の百姓が山中に銅鉱床を発見しました。当時、鉱山の開削に力を注いでいた幕府はすぐにこの情報を秘匿するとともに、直轄鉱山として開発を行いました。


現在の足尾銅山

足尾銅山です。

当初は、幕府が直轄で開発を進めていましたが、採算が合わないとして寛永3(1626)年に日光東照宮へ払下げ。すると民営化の効果はすぐに表れ、寛永5(1628)年~万治4年/寛文元(1661)年にかけて、それまでの年産出量の倍近い量の銅を産出しました。

正保4(1647)年から足尾銅山は、再び幕府直営になっています。産出した銅は、日光東照宮の銅瓦や、江戸・芝にある増上寺、上野にあった寛永寺の建。江戸城の増改築に用いられました。足尾銅山から江戸までつながる道は、銅山街道(あかがね街道)と呼ばれて大変なにぎわいを見せたのです。

足尾銅山は江戸時代最盛期には年間1400tもの銅を産出しました。

ついに始まった全国通用銭の大量発行

寛永13(1636)年、幕府はついに銭貨の公鋳を正式に決定しました。まず第一段階として、江戸と近江(現在の滋賀県)の坂本に「鋳銭所(銭座)」を設置して東日本、西日本それぞれが求める量の銭貨を発行することにしました。


寛永通宝

こうして作られたのが「寛永通宝」です。東西どちらの銭座で作られたものも表面は「寛永通宝」の文字。背面は無地で統一されました。価格はすべて、1枚1文とし、状態によっての価格の上下は認められませんでした。

鋳造が始まると、同年六月一日に「銭定の高札」が庶民へ掲示されています。そこには、

・寛永通宝は金1両に対して4000文で通用させること。
・勝手に価格をたがえて使った場合は、本人だけでなく、町の年寄や、隣近所の各家庭からも罰金を徴収すること。
新銭は江戸と近江坂本に設置した銭座にて、作ること。
・撰銭はせず、従来の古銭と等価でつかうこと。
定められた銭座以外で寛永通宝をつくらないこと。
・寺社への寄進や、贈与においても価格の変動をかってに行わないこと

が定められていました。

まだ作り始めたばかりですので、鐚銭をすべて使用禁止にすることこそできていませんでしたが、いままでと異なり私鋳を禁止することや、儀礼的な場においても1枚1文の等価原則を徹底させるなど、それまで以上に厳しい条文が追加されています。裏を返せばこれだけ徹底しても大丈夫なだけの、寛永通宝を用意できる環境を整えたという幕府の自信の表れでもありました。

徳川家康が、金銀貨幣の統一を下知したのが慶長6(1601)年です。幕府が銭貨の統一を行うまでに実に36年もの歳月がかかったということであり、それだけ本邦の銭貨流通体形はぐちゃぐちゃだったということでしょう。

寛永通宝を作った男・秋田宗古

『銭録』には、寛永通宝の公鋳は、寛永13年から。関東では、江戸浅草橋と芝網縄手の2か所において、秋田屋小左衛門が鋳造したと書かれています。秋田屋小左衛門という人物は、『貨幣秘録』という書物に登場する、銀座役人・秋田宗古と同一人物のようです。『貨幣秘録』では、彼が幕命を受けて、江戸の芝と、近江坂本の銭座開設を行ったと記されています。

幕命がどのようなものについては、秋田宗古の子孫が『秋田家由緒書』としてしっかり残しております。すべてを紹介すると大変な額なるので、ざっくりと紹介しますが、幕府が「銭貨を作りたい人」と募集をしていたので、秋田宗古が自分で挙手したようです。

本来、自らの先祖の由緒書というのは、多少盛って残す物なのですが、秋田家の子孫たちは、あまり盛って書いていないようです。『貨幣秘録』に倣っ
「うちの先祖が、幕府の特命を受けて作った」
と残せばいいものを、正直に自薦であることを白状しています。

とはいえ、銀座で銀貨の請負鋳造の経験があった秋田は、貨幣の大量鋳造を行っていた鋳物師というかなり特殊な経歴の持ち主です。当然、幕府の信頼も他の鋳物師と比較すると大きかったでしょうから、銭座の開設はすんなりと認可されました。

ちなみに、初期の江戸銭座請負人の名簿を見ると、秋田家の他に末吉家、郡司家といった銀座職人と共通の苗字の方がいらっしゃいます。おそらく彼らも秋田宗古と同様に、自薦で銭貨鋳造に関わった銀座職人であったと思われます。

秋田家が鋳銭を行ったのは芝か浅草か?

『秋田家由緒書』には、秋田宗古とその孫・小左衛門が「寛永通宝」を鋳造し始めたのは、江戸の芝にあった銭座であると記録しています。

しかし、『銭録』『鋳銭考』では、秋田家が鋳銭を行ったのは、浅草と記録されています。秋田家の由緒書きは、先述の通り不必要なまでに正直に記録を残しているため、それを考慮に入れると、家の名誉に関わることのない鋳造所の位置で、かような嘘をつく必要はないように思われます。

幕府の「銭定の高札」には、江戸と近江坂本ということしか記されておらず、銭座が設けられた場所までは記録されておりません。実は幕府の公式史料の多くには、"江戸"と"坂本"の2か所しか記載されていないことが多く、浅草について触れているのは、後の学者や、古銭収集家の編纂した書物ばかりです。

このことから、浅草に銭座は無かった……と断定するのは少々早計に思われます。『銭録』『鋳銭考』も、幕府に旗本から献上された"ちゃんとした本"ですので、あからさまなデマと思われる情報は極力排除されていたはずです。

とするならば、考えられるのは幕府の史料における"銭座"というのは、工場を表す"言葉"ではなく、組織の"名称"だったのではないでしょうか。銭座という組織はひとつかなく、その銭座が抱えている鋳銭所が芝と浅草の2か所に別れていたと考えられています。そして、芝の鋳銭所の方に秋田宗古などが勤務していた座人役所が設置されていたため、秋田家由緒や、幕府の資料においては、芝の扱いの方が大きかったのではないでしょうか。

関西の銭座は江戸の出張所?

ちなみに、坂本の鋳銭所がどこに設置されていたのかは、いまだに判明していません。ちなみに関西には、坂本の他、京と大坂にも銭座が設けられていたという伝承もあります。

関西の銭座は、江戸よりもさらに記録が少ないのですが、これも先述の、組織構造が関係しているのではという説が有力です。すなわち、勘定奉行に認可を受けた銭座という組織は、秋田宗古らが開いた江戸・芝の一ヵ所のみであり、その他の記録に残る銭座というのは、浅草の鋳銭所と同様の扱いであったというのです。近江の鋳造所にしても、江戸・芝銭座の関西出張所として設置されたものであり、やがて、江戸より経済規模の大きい関西では、京出張所・大坂出張所と、より大きな鋳造工場がつくられたという考え方です。

これを裏付けるように、京都建仁寺に設けられた京銭座で鋳銭を請け負った人物は、江戸銭座の座人としてその名が残り、銀座でも銀貨を鋳造していた郡司兵右衛門です。少なくとも京の銭座が、江戸の銭座の下に置かれていたことは間違いなさそうです。

生産が優先された寛永通宝

とにもかくにも幕府は、関東と関西それぞれに鋳銭拠点を設け、それまでの日本では考えられない規模での銭づくりを開始しました。しかしそのやり方は、かなり独特なものでした。

本来なら、貨幣の切り替えを行う場合には、旧銭の回収と新銭の交換を行う必要があります。そうしないと、たとえ法律で禁止していたとしても、人々は貯めこんでいた古銭の使い道を模索し続けてしまうからです。

ですが、いかんせん江戸幕府は約600年ぶりに国家レベルの鋳造を行っていたわけですから、回収と交換のノウハウなんてありませんでしたし、生産に必死で余力はありませんでした。ということで、幕府が選択した寛永通宝普及戦略が、"自然淘汰"でした。つまり、市場の需要に足るだけの供給を行えば、やがて良貨は悪貨を駆逐するはずという戦略です。

ちなみに、悪貨は良貨を駆逐するという事例がありますが、鐚銭の場合は、数が減少しておりデフレ状態に陥っています。そのため、寛永通宝登場時の鐚銭は、"状態は悪貨だが、価値は両貨"という倒錯した状態でした。幕府のとった戦略は極めて妥当であったと考えられます。大量に安定して寛永通宝を必要量だけ供給できれば、必ず神の見えざる手が働き、寛永通宝の価値が過剰に上昇することはないのです。

寛永通宝のが登場したのは先述の通り寛永13年6月でしたが、同年末には「水戸」「仙台」「吉田」「松本」「高田」「長門」「備前」「豊後中川領内」に、追加の銭座が開設されています。因みに、追加の銭座開設に当たっても、銭貨の大量生産ができる事業者を幕府が公募していたようです。

ですが採用法が少し煩雑になっています。まず自信のある事業者は、自らが暮らす藩にこの事業を請け負えると自薦します。すると藩が事業者にかわり幕府へ申請を行い、幕府からの認可を待つという形になりました。

初期は江戸と近江坂本の銭座だけ監視していればよかった幕府勘定奉行ですが、さすがにこの数の銭座で毎日生産される何万枚もの寛永通宝の品質管理を行うことは不可能です。そこで幕府は、新たな寛永通宝母銭を作り、各銭座へ手本として配ることをやめました。母銭を新規に起こすとどうしても、最初に型を作った作家の手癖が出てしまいます。最初は小さな手癖でも何回もコピーを繰り返すうちに、特徴は過剰に大きくなっていき、やがて寛永通宝の統一性を失ってしまうと考えたからです。

代わりに江戸の銭座で通用銭として作られた寛永通宝のなかから、完成度が高いものをいくつか抜き出し、それを加工・修正。手本として各地に配ることにしました。母銭の段階で量産銭なので、極端に出来が良すぎることも、特徴が出てくることもなく、丁寧に作ってさえいれば平均点の物のみが上がってくるはずでした。

この通用銭からさらに手本銭を作り、全国の事業者に貸し出しという方法は、かなりの成功を収めたようです。寛永14年からは、銅の輸出にも規制をかけ、一層国内での寛永通宝増産に力をいれています。

しかし、当時の鋳銭作業は、完全な手作業でした。ここまで大量に作ると、どうしてもエラーコインが発生してしまいました。また、鋳造工場と幕府勘定奉行との間に江戸の銭座、藩と2つの組織が入っています。管理がゆるくなりますので、銭座職人たちが本家と異なるわずかなズレに気づかずに、生産を続けることもありました。こうして生じたミスを、さらに他の職人がコピーし続けることによって、銭座ごとに特徴的な銭容が生じました。

また、世の中に寛永通宝が受け入れられると、やはり悪い考えをもつ人間も出てきます。贋作とみられる粗悪な銭や、職人が間隙をぬって手慰みで作ったと伝わるほど、誰が作ったかわからない寛永通宝が出てきました。

確かに幕府の狙い通りに、世の中に大量に寛永通宝をばらまいたことにより、鐚銭を世の中から排除することには成功しました。ですが、幕府の狙っていた完全に同一品質の銭貨による国内の銭貨統一とは程遠い状況になってきてしまいました。慌てた幕府は、寛永17(1640)年、全国の銭座に対して、請負分の鋳造数に達していなくとも、直ちに鋳銭作業を停止するように命じます。

が、ここれも、各地の銭座の活動が、勘定奉行による直接の支配から遠ざかってしまったことによる伝達の遅延が発生したようです。どのように連絡が行われたか公な資料は有りません。が、普通に考えると、幕府勘定奉行が江戸の銭座に命じ、江戸の銭座が諸藩にその命令を伝達。諸藩が各工房に命令を下達という形を取っていたでしょう。

さらにいうならば、世の中に寛永通宝を求める人はたくさんいたわけですから、命令後も各銭座ではひそかに鋳造を続けていました。勘定奉行が直接取り締まりに来る可能性は限りなく低いわけですから。

寛永20(1643)年、幕府は私鋳・公鋳を問わずあらゆる寛永通宝の鋳造を行った本人および、その近隣に暮らす五人組単位で死刑に処すというすごく厳しい法令を出しています。

高品質の貨幣を一度に市場へ大量投入することにより、貨幣の自然淘汰による入れ替えを図った幕府の思惑は、一応の成功をおさめました。ですが、大量生産を急ぎ過ぎたばかりに、銭貨の品質がアンコントロールとなってしまいました。

貨幣の発行数をコントロールできないとどうなるか。金融政策が打てなくなります。この時期に作られた寛永通宝は、明らかに市場の需要数をはるかに上回っていました。

実際、記録を見る限り、寛永通宝の鋳造禁止が命じられた寛永20(1643)年から正保3(1646)年くらいまでの3年間、市中で流通していた寛永通宝は、公定相場を下回る1両5000文程度で流通していました。深刻なインフレーションが発生したと考えられます。


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