見出し画像

悲しみの蒼。

嫌な夢を見て目覚めた。起きた瞬間は、それが現実なのか夢なのかわからないほど、最悪な気分が私を支配していた。最悪、では足りない、もはや絶望でも足りないくらいだ。時たま、世界中の人たちから無視されているような感覚に陥ることがある。誰も私を見ていない。見ていないならまだしも、存在を認知してくれていない。側を通りかかっても、認識しないまま、通り過ぎていく。赤の他人ならばそれも当然のことといえば当然のことなのかもしれないが、その事実に深く傷つくときがある。それも、紛れもない事実だ。意外にも最悪な夢とは、大切な人たちに見捨てられる夢だと知った。今日の夢もそうだった。最近は物作りをしている。写真を撮っている。今はまだ、自分のスタイルがわからない。わかるようで全くわかっていない状態だ。だからこそ、何が自分の表現したいものなのかを必死に考える。私は感受性が鈍ることを非常に恐れる。鈍る、というか、感覚が鈍感になり、いわば乾燥した肌のようにカスカスになってしまうことを恐れる。だから定期的に自分に波風を立てる癖がある。それが果たしていいことなのか悪いことなのかはわからない。それでもそうせざるを得ない、自分がいるような気もしている。そうして生きていると、決まって悪夢を見始める。そうでなくても普段、眠りは浅い方で、最近は特にソファで寝ることが習慣化されていた。ソファは硬くて、狭くて、非常に良い。普通逆だと思うのだが、どうしても、一人で寝るときは猫のように狭い場所に入りたがる。防衛本能の名残だろうか。そんなことを思いながら、身を潜めるように、静かに眠りにつく。誰かから見捨てられる夢は、それがたとえ夢であろうとも、心を深く抉っていく。心という一定量の器があるとしたならば、その器ごと破壊していく勢いだ。そうして何かを失った我が心はまた、ゆっくりと時間をかけて再生していくのである。誰かを忘れたくて忘れたとしても、再びその夢によって掻き起こされることがある。一度誰かを思い出してしまうと、再び、忘れるのには長い長い時間がかかる。心を操ろうとしてはいけない。そしてそれは実に、不可能に近いのでもあるが。必要なものはなんだろうと思う。生きる上で、必要なもの。お金、家、服、食べ物、パートナー、いろんなものやことを挙げることができるが、私は今、美しい画や情景以外のものをあまり求めてはいないのではないかと思ったりもした。美しい画、というよりも、そこにある美しいふれあいだ。人間は誰かに触れることによって、生きる寿命を延ばしていく。誰かの人生の話を聞き、自分の人生にも落とし込んでいく。そんなことをふと、思うことがあるのだが、紛れもない事実のような気もしている。そして、誰かの人生に触れた時の感動は、何者にも代えがたい瞬間でもあると思っている。自分の中に閉じこもって延々とぐるぐるしていると、自分が一番大きな存在になる。自分が一番大きな存在になると、世界がとても小さな存在になる。それは、とてつもなく不幸だ。やはり、生きているかぎり、自分よりも大きな存在を感じていたいものである。私は都会が好きだ。都会のめまぐるしさと、雑多な感覚は胸打つものがある。というよりも、都会には、干渉しない優しさがあるといつも思っている。干渉しない、されないというのは時として、その人自身を、無防備な迫害から救うことがある。人間は互いに迫害するものだ。暇をもてあませば持て余すほど、他に目を向け、そしてそれに執着し、陥れる。その逆も然りだが、私はあまりいいイメージを持たない。互いを愛しましょうというが、それも実に難しいことである。『必要とされたい』の本当の意味は、『愛されたい』だ。愛されるには愛するしかない、というが、愛する方法はどこで誰がどう教えてくれるのか、その答えを知る人間は非常に少ない。私は今のところ、写真に蒼を使う。蒼は、悲しい色だ。冷たい色、と思う人もいるかもしれない。でもそれでも、何度見ても蒼という色は、美しい色だと思う。油絵で白い肌を見せる時には、下地に蒼を塗る。厳密には、水色だ。水色を塗った後、白と、肌色を塗っていく。よく老朽化した絵画などを見ると、表面が剥がれ下地の水色が顔を出している。人間の根底には、蒼が流れている。ヘモグロビンは赤いが、それでも悲しみの蒼が根底にはあると、いつも思っている。だからこそ、私は蒼を愛し、蒼を使う。悲しみと、美しさは同じところにある。互いに手を取り合い、踊っている。だからこそ、踊りにかまけて深みにはまることは、時に、身を滅ぼす劇薬となり得るのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?