第24段 斎王の野宮におはしますありさまこそ。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

才能とはなんだろうか。この世に才能なんてものはあるのだろうか。才能という言葉は、言ってしまえば現実逃避だったり自分を過度に守るための防具になったりもする。『あの人には才能があるからあそこまでできるのよ』だとか、『あいつは天才的な才能があるからな』とかいう言葉はよく聞くが、実際に自分が言われてみると『なんだかなあ』というよくわからないような気持ちになる。私はこれだけ努力している、と思いすぎることも嫌だが、だからと言って総ての努力じみた行為を『才能』という言葉で片付けられることもひどく癪にさわる。そう、癪にさわるのだ。たった一言で俺の歴史や情熱を片付けやがって!!!!というような得体の知れない怒りのようなものがふつふつとこみ上げてくる。そうすると同時に、『ああ、こいつは総てを才能という一言で片付ける意気地なしなんだな』と仕分けして深く接触することを避けるようになる。それでもみんながみんな、というわけではなく言ってもらって嬉しい人、というのも中には存在する。だが、9割型の人間が私の中では『意気地なし』に分類される。そして更におかしいことに、何もかもやる前から諦めてんじゃねえぞ!!!!!という威圧感が半端ないのだろうか、そう言った途端になぜだか急に謝られたりすることも多々ある。だいぶ昔になるが、その人のエネルギーを感じてそのまま絵に描き肖像画にするという作品を作っていた時代がある。私はそれを『会画(かいが)』と呼んでいた。一期一会という意味合いを込めて、そう呼んでいた。実を言うとこの絵はいろんな人に受け、だいたい総勢で200人くらいは描いた。値段はどんどん釣り上がり最終的には一枚5万以上で売っていたこともある。その当時私には画家の恋人がいた。岡本太郎やパウル・クレーなどに傾倒していた彼は、日本のキャラクター文化に焦点を当てた抽象画を描いていた。更に言えば絵を売ることを極端に嫌っている部類の人間だったので『この売女!!!!』と揶揄された日には家にあるビール瓶などを投げ合い血みどろの争いをしたこともままあった。芸術家同士の喧嘩は激しい。どちらも意見を一向に曲げることがないため、基本的には解決の糸口が全く見えない。暗闇の中躍起になってお互いに銃を撃ち合う。どちらかが死ぬまで消してやめない終わらない戦争が何日も何ヶ月も続く。しかしそれでも一晩寝れば次の日にはけろっと忘れていたりする瞬間もあるため、『ああ、僕たちにはそんな時代もあったね。』と朗らかに笑いながらあっさり終戦を迎えることも多々あった。その時代に実際にあったことなのだが、『みなみさんは天から与えられた才能があるのですね。』だとか、『ひいおじいさま(曽祖父は肖像画家)が見守ってくださっているからこそ、その才能が開花したのですね。』などと言う人に限って私を崇拝してくるような現象が多くみられた。その当時、私は単純に好きでその絵を描いていた。正直なことを言えば、ほとんど宣伝することもなく、ただ何とは無しに私の絵の話が人づてに伝わっていき、そうして気づけばいろんな人の絵を描くことになっていたのだ。おそらくそれも相まってのことなのだろう、はたから見ればいわゆるカリスマ性のある人間に見えたのかも知れない。人は誰かを崇拝すると魂がそこからいなくなる。当たり前のことだが、自分自身に成り切ってもいないうちから他人になろうとすることはある意味で最大の自傷行為に近いのかも知れない。自分自身のコンプレックスが強すぎて直視できない結果、誰かになると言うことを自分の主軸に置くことで問題から目をそらす。だからこそいつまでも対象の人間には自分のカリスマ的存在でいてほしい、いつまでも自分を導いてくれる光であってほしい、そう思うのかも知れない。その当時にも思っていたことだが、私はあくまでその人自身はやはりその人自身に成り切って欲しいし、その人の命を生き切って欲しいと強く思う。だからこそ、そう言った崇拝系の人たちとは距離を詰めすぎた、もしくはあまりにも詰められた時には一旦突き放す。いなくなることはないが、ずっと近くにいすぎると言うこともしない。格闘技や武道でも、そしてダンスでも同じことが言えるが、やはり最後に立つのは自分だ。自分の足で立ち、自分の目で見て耳で聞いて感じる。そして本当の自分を認識し、命を直視する。自分という命には常に接触しているものだが、接触はしていても直視することはもしかしたらなかなかにないことなのかもしれないと感じる。例えば臓器。あなたは自分の臓器をその目で見たことがあるだろうか。別段、見る必要もないのだが見る機会があったら是非、しっかりとその瞳で見てみて欲しい。私は卵巣の手術後、摘出された自分の卵巣を見た。びっくりするくらいに小さくて、そして生々しい海洋生物のようでいて、なんとなくだが呼吸を感じた。うまくは言えないのだが、なんだかとても愛おしく思えた。ずっと一緒に闘ってきた戦友のようにも思えた。ありがとう、さようなら。と言う言葉が口をついて出た。いまだにあの時のことを思い出すとびっくりすることがある。あの時私は、いわゆる私の魂が臓器を前にして、勝手にそう言ったんだと認識している。人間の体や細胞、脳や臓器に至るまで総てのものは神経が発達した結果だと言う説がある。猿が木から降りたと同時に、神経が異常に発達し、いわゆる脳や臓器となって人間の総てを司ってきたのだ。臓器一つとっても全く同じ人間など存在しない。魂に関して言うならば更にそうだ。同じようなことを考えたりシンパシーやテレパシーで通じ合えることもあるが、それでもあなたはやっぱりあなたでしかない。それ以上も以下も、前も後ろもない。だからこそあなた自身をしっかりと生き切ることは何よりもこの世界と宇宙が求めていることなのだと感じる。崇拝するならまずは自分を、誰よりも自分をと言うことをここに書き記しておきたいと思う。


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