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頭でっかちの未来に希望なんかない。触れ。とにもかくにも触れ。

ついこの間の話になるが、稽古の最中、先輩が目の前で負傷した。あばらを何本かいったらしい。それでも折れたら喋れなくなる、といっていたので折れてはいない、ヒビくらいだろうとのことだった。(結果的に先輩のあばらにはヒビが入っていたそうだ。)目の前で人が怪我をしたり事故に巻き込まれたりということは今までもまあまああったのだが、なんというか久々にああいう光景を目にしたなと思う。そうしてよくわからない興奮に似た気持ちにもなってなんだか目が冴えてしまった。興奮というと語弊があるが、いわゆるアドレナリンが放出されたのだろう。人間は自分自身も大怪我をしたりなんだりするとアドレナリンが大量に分泌され一時的に痛みがわからなくなる。いわゆる脳内麻薬、麻酔と一緒で、ふと現実に戻るとそれがたちまちに消え激痛に身をよじらせるという。古きよきメキシコではこういうまじないがあったそうだ。『どうしていいかわからなくなった時、身動きができないくらいに未来が怖くなった時、とにかく近くにあるものに触れ。そうすれば夢か現かわからないこの状態が、少しでも現実のものだと自覚することができ、前に進むことができる。闘う準備ができる。』また、こういう話もある。あるところに、一匹の蠍とカエルがいた。蠍は川を渡って向こう岸に進みたいが、水の中を泳ぐことができなかった。そこで近くにいたカエルの背中に乗せてもらって川を渡ることを思いつく。蠍はカエルにこう話しかけた。『カエルくん、どうだい。君、僕を背中に乗せて向こう岸へ運んではくれないかい。』カエルは答える。『悪いがお断りするね。だって君は蠍だろう。背中に乗せたら最後、絶対に僕の背中を刺すんだろう。』蠍はそれでもひるまなかった。『僕はそんなことはしないよ。絶対に、君を刺したりはしないよ。他の蠍はどうか知らないが、だって君、僕は川の向こうに行きたいんだよ。どうしてもどうしても、行きたいんだ。だから君の背中を刺すなんて、そんなくだらないことは絶対にしないよ。』『ふうん、そうかい。だったら乗せてやってもいいよ。君のことを信じるよ。』そう言ってカエルは蠍を背中に乗せ、川を渡り始める。向こう岸はもうすぐ、と言うところでカエルはいきなり身体全体に痺れるような痛みが走ったことに気づく。『うう、痛い。なんだ、体が、動かないぞ。』そう言ってカエルはみるみるうちに身体をよじらせて遂には動かなくなってしまった。最期に彼は蠍にこう尋ねた。『きみ、ぼくの、ことを、ささないって、いった、じゃない、か。』蠍は虫の息のカエルにこう伝えた。『そうさ。刺さない、と僕は約束した。だけどね、カエル君、僕は、蠍なんだ。どんなに約束をしても、カミサマに誓ったとしても、決して、抗えないサガっていうものがあるのさ。そのサガというものに僕は、結局、勝てなかったと言うわけさ。』そう言って蠍は、後ろを振り返らずにまっすぐと歩みを進めた。どこへ行ったのか、彼がその後どうなったのかは、決して誰も知る由はなかった。

人間にたりないのは想像力でも力でも無い。たりないのは、圧倒的な手触りだ。最近ベランダでミニひまわりを育てている。わたしはこう見えて野育ち山娘(カントリーガール)なので、自然が身の周りから欠落した途端に息ができなくなる。というわけで早速ホームセンターに趣き、「初心者はハーブがいいよ!!!」と、見目麗しきMさんに素晴らしい助言をいただいたにも関わらず全く関係のないミニひまわりを購入してしまった。最初は芽が出るのか不安で毎日水をやっては土に手を当て、「土の具合はどうですか。気が向いたらこんにちはしてくださいね。アイラブフォーリンラブマイフォーエバー21。」とかなんとかいいながら親バカを通り越して土バカになっていたのだが、なんとかかわいい芽を出してくれた。ひまわりはニョキニョキ生える。毎日どんどん大きくなり、葉っぱもどんどん生い茂って、なんなら隣によくわからない雑草の子分まで引き連れて元気に育ってくれる。その姿はさながら植物界のギャングバイなのだが、ここで問題が発生する。そう、いわゆる虫食い問題である。ひまわりの葉っぱは虫たちからすると非常に旨いらしい。アブラムシ、ヨトウムシ、挙げ句の果てにこれからの季節はナメクジとの闘いが待っている。最初に虫食い穴を見つけたときは気が気でなく、急いで殺虫剤を購入し土にばらまいた。そのおかげか少しずつ虫食い穴も無くなり元気に今日も生い茂ってくれてはいるのだが、この瞬間に実は思ったことがある。「わたしが心配ばかりしていてもこの子達のためにはならない。そうだ、わたしには信頼が足りない。こいつらはそんなヤワな種族なのか?そもそもわたしと同じファイターなんじゃないのか。うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」これに似た話で、素晴らしい庭を作っているターシャ・テューダーというおばあちゃまがいる。彼女の作るお庭はそれはそれは素晴らしく、とにもかくにも植物やお花たちが元気で、見ていてとても幸せな、そして逞しい気持ちになる。彼女がチューリップを育てているドキュメンタリーを見たことがあるのだが、その時にこう言っていた。「このチューリップはこの土がすごく気に入ったのね。よかったわ。」なんという素晴らしい感性だろう。なんという美しい言葉、そして魂なのだろう。わたしはこれほどに感動したことがあるか、というくらいこの言葉とターシャのこころに胸打たれた。そうなのだ、わたしたちは植物やお花を育てているわけではない。一緒に育ち、暮らし、そして育てられている。自然はいつだって偉大で、花は散ることがあろうともけしてひるまない強さを持っている。だからこそこんなにも感動し感激し、言葉にできない勇気を貰うのだ。話はそれてしまったが、土いじりをすることによって、ひまわりと暮らすことによって痛感したのだが、人間はやはり五感、第六感を駆使して生きている。いわゆる想像やバーチャルの世界だけでは成り立たないような構造になっている。医学の世界で、皮膚は最大の器官だと言われることがある。度々このブログでも書いているかもしれないが、人間の脳は神経が発達したものであり、もともとは血管などと同じだったという。つまりは、脳だけが独立してからだの総てを突き動かしているように考えられてきたが本来はそうではない。脳はあくまで感覚をまとめ、言葉にしたり表現したりすることに使うべきもの。だからこそ脳に頼りすぎるのも危険なのかもしれない。コロナ禍になって、だいぶ緩和してきたものの、ひととふれあう機会が元来以上に激減してきている。本当に親しい者同士でないと顔を見ることができない、というのは捉え方によっては非常にロマンチックな代物だがそうもいってられないのも現実である。わたしは自分がすきなもの、そして好きな人、大切なひとにはたくさん触れたい。直に触れ、その体温と熱情を感じたい。それは実際に触れるだけでなく、言葉でも同じことを思う。会話をすること、互いに息をすること、なんでもいいが生きているということを感じるとき、わたしはたったひとりでは絶対に嫌だ。ひとりの美しさもあるが、それは作品作りに没頭するときだけでいい。せっかく人間に生まれてきたのだ、知性があり、知能があり、知恵がある。言葉も、歌も、踊りも、なんだって自分を表現し伝えることができる。だとしたらば、殻に籠っていては勿体ない。傷つくことばかりを気にしていても仕方がない。どこまでも届くロン○ヌスの槍を今こそ大きく振りかぶって投げうつべし。

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