第18段 人は己をつづまやかにし。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

無題239

毎年、この季節になると決まって考えることがある。『イブには教会に行くかそうでないか云々。』これは、高校時代からずっと考えることだ。日本はクリスマスというのが完全にイベント化されている。イブからクリスマスにかけて恋人と過ごす、というのが、いわゆる世の勝ち組とでも言いたげな雰囲気が漂う。そうでないならば家族と過ごす、というのがクリスマスという無言の圧力があるような気がしてならない。それでもコロナウィルスの影響だろうか、今年はさほどそのような感覚も味わうことがなかった。今年ほど、誰かのことを考え、祈ったクリスマスはなかったように思う。自分の大切な人たち、葛藤したり、人生で戦っている人たちのことを考え、祈った。祈ることをお願いした人もいる。私はあの日、心が素っ裸だった。兎にも角にも、自分には何ができるのかを考えたら、もう、祈るしかなかった。昨日も祈った。久しぶりに、口に出して主の祈りを唱えた。私はクリスチャンだが、主の祈りしか覚えているものがない。どうしてもマリアの祈りが頭に入らない。みんなマリアを神格化するきらいがあるが、私は実は、あまりマリアが好きではない。マグダラのマリアはシンパシーを感じるのでひどく惹かれるものがあるが、その話はまたにしよう。祈りは不思議だ。全神経を集中させて祈ると、自分の感覚や言葉が、体から抜け出し相手のところやどこか遠くへ飛んでいき、いわゆるテレパシーのようなものとなって運んでくれるのでは、と思うことがある。そうでなかったとしても、人間同士は意外と、お互いに想いを馳せていたりすると感覚でわかったりするものだ。『風のたより』や『虫の知らせ』とはこのようなことを指すのだな、と思うことが多々ある。人間は淋しい生き物だ、と思うことがある。それでも、自分の淋しさなんてたかが知れているような気がする。世の中には、もっともっと淋しい思いをしている人たちがいる、本当にそう思うことがある。何かを欲している時、自分の心は浅ましいなと思う。喉から手が出るほど欲することが、自分の心を蝕んでいるような気がすることがある。欲する前に、すでに、何もかも足元にあったと思えるのが理想だが、その精神状態に戻ってくるのにはひどく時間がかかったりする。とある文章を読んだ。そこには、清廉な空気がただ、存在していた。凛としている、というのはこういうことを指すのだな、と思った。私は彼の文章を読むと、心が暖かくなる。なぜかはわからない。ああ、この人は、美しい人だなと思うからかも知れない。いつも、岡山の自然を思い出す。お山を眺めていた、拝んでいた自分の姿を思い出す。あの時、田んぼの中を吹き抜けていった、生ぬるい風をどことなく思い出す。目が眩むほどの朝日を思い出す。私の心にはいつも、岡山の自然がある。私の心はいつも、あの山の中にいる。そう思うと、もしかしたらここにいるのは、しかばねなのかもしれない。写真を撮るようになってから、とても敏感になった。私は性善説が強い。だから、あまり人を一概にこれだと決めつけるのは好きではない。それでも嫌いな人はたくさんいるが、どうしてこうなったのか、を考え始める癖がある。美しいものを追う、というのは写真家にとって絶対だ。それは師匠の教えでもある。自分が美しいと思うものをひたすらに追っていけ、というのが今の私の全てだ。だからこそ、美しいもの、美しい人に触れていたい。そういえば昔はよく、自分の心に嘘はつけない、と思っていきていたが、今はどれくらいそれが実行できているだろうか。何もかもがお為ごかしになっていやしないかと、自問自答したりもする。常に自分に問いかけ、できる限りで答えを出している。その結果、私の行動ははたから見たら常軌を逸している時があるようだ。それはそれで私なので、仕方ないと思っている。好きでやっているのだ、オーディエンスは関係ない。さて、話が逸れてしまった。今日も寒い1日が始まる。冷たい空気に触れていると、時に、瞑想しているような気持ちになる。頬に触れるひんやりとした感覚に、ふと、命のなにがしかをもぎ取られるような気になったりもする。そんな感覚が私は嫌いではない。今年ほど、雨に打たれて、いきていると感じた年もないだろう。死にたくなったら傘を持たずに雨に打たれればいい。雨は何もはばかることなく自分自身に触れてくれる。自分の感覚が死んでいると思うのなら、雨の底知れぬ強さと生ぬるさ、時に冷たさに触れることをお勧めする。言葉が悪いが、手っ取り早くいきていることを感じることができる。この世で最も悲しいことは、何にも触れられなくなった時だ。人間の皮膚は、最も大きな器官と言われることがある。その通りだなと思う。触れること、触れられることによって、何かを理解するのだと思う。祈りも同じだ。祈ることによって、何かにふれ、何かに触れられるのだ。






コギト・エルゴ・スム

MINAMI

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