第14段 和歌こそ、なほおかしきものなれ。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

昔、予備校で受付嬢をしていた時よく後輩に言っていた言葉がある。『ねえ、聞いて。私はね、病気なんだ。』こう言うと、決まって人はドキッとした、少し白じんだような顔をする。『び、病気なんですか・・・?!』彼女はいつも、期待以上の驚いた表情を見せてくれていた。端正な顔立ち、春雪のように真っ白な肌、まるでロシア人形かなにかのように美しい彼女のことは今でも忘れることがない。そしてそう言う彼女の顔を見るのが私はたまらなく好きだった。好きな子に意地悪をする、まるで反動形成という名のシロモノにかかずらった小学生男子のように、私は嬉々としてその舞台を演じ続けた。そして最後にこう締めくくるのがお決まりのパターンだった。『そう。私はね、お金がないのにどんどん買い物をしてしまう病気なんだよ、あはははは。』『何だ、、、びっくりしました、もう!やめてくださいよ。』そう言うたわいのないやり取りを、少なくとも一ヶ月に一回はしていた。今思うと、あれは実に平々凡々で、それでいてどことなくうすらぼんやりとした幸せな日々だったのかもしれない。そう、私はいわゆる『お買い物中毒』だ。欲しいものは何でも欲しくなってしまう。金銭的にどうだろうが、全く財布の中を確かめることもなくいわば反射的に何かを買ってしまう。あまり褒められたことではないのだが、買うことによって一種の『スリル』のようなものを味わっているのかもしれない。これを購入することによって私は今月支払いを無事に終えることができるのだろうか。そう思うと私の中の何かが極端に疼き始め、同時に恋わずらいの若きヴェルテルの悩みのような状態に突入してしまう。何ともまあ、不健全な快楽主義者にでもなっているのだが、それでも特に己が悦に浸るとでも言うべき買い物といえば、それは意外にも『本』を購入するときに他ならないのだ。強いていえば、人に勧めてもらった本を買う時だ。そしてそれを実際に手にし、その人がなぜ自分にこれを勧めてくれたのか、この文学作品がなぜその人に会心の一撃を与えたのかを知り得るときときたらこれはもはや人類史上こんなにもセクシーでエロティックな瞬間があるのだろうか、といつもさもしい心持ちにさせられる。それくらいに、文学作品や書物を通じて誰かと想いを通わせたり、分かち合ったり、はたまたその逆も然りだがその尊い瞬間というのは掛け替えのない時間であると推測する。先ほども、とある書物を購入した。これは、私の憧れの人がいつも一番のお気に入りだ、と言っている書物だ。読んでみよう、読んでみようと思いながらも時間を言い訳にしてさほど真面目に検索したこともなかったのだが少しばかりそのさわりを読んでみたところ、非常に、非常に痺れた。電流が走り、大地が割れ、そのまま海の藻屑になってしまった、と言ってもいい。ああ、こんなにも美しい作品がこの世にあったのか、ともはや感嘆の極み以上の何物でもなかった。美しい作品、文学、詩、絵画、何でもいいがそれらに出会う瞬間に私はもう一度息吹を与えられる。それを誰かが伝えてくれるたびに、『まだ生きる必要があるのだぞ、みなみ』と言われているような気がしてならない。それくらいに、余命がどんどんと伸びていっているような感覚に陥る。もしこの世に芸術の神がいるならば、ギリギリのところまで私を苦しめ追い詰めた暁に、そういった筆舌尽くしがたいものをあてがわせ、私を虜にしていく術を持っている。何とまあ、現代語で言えばツンデレとでも言おうか。一種のスタンドアップコメディとでも言おうか、兎にも角にも私はあいも変わらず彼に首ったけということになる。高校時代から、いや、幼少期から全く変わっていない。3歳の頃、『私は芸術家だ。』と本能的に確信していたあの時から、私の心はすでにあの方のモノなのだ。生きている間に、どれだけの美しい作品に出会うことができるのだろうと考えることがある。ディズニー映画『美女と野獣』のシーンの一つで、主人公ベルが野獣と仲良くなり、お城いっぱいに所蔵された本を本棚のある部屋ごとプレゼントされるものがある。要するに図書館丸ごと贈呈しますー!という状態だ。見渡す限りあたり一面の、本、本、本。そしてベルは驚嘆する。あのシーンを思い出すことが多々あるのだが、あの部屋いっぱいの書物を読み漁るように、いったい私はこれからどれだけの作品を読むことができるのだろうと思う。そしてそれと同時にこうも思ってきたことも事実だ。学問と呼ばれるものは実は、人類の遺した多大なる妄想の全てなのではないか。と。そう思うと、この世で学問と呼ばれているものはいったい何なのだろうという感覚に陥ることがある。勉強しなさいと言われ、学んできたものは誰かの妄想でしかないというのなら、本当の自由はどこにあるのだということも少なからず思ったりすることがある。しかし決して悲観的な意味では全くない。そういう可能性があると思えば、人生は彩りも実りも豊かでとんでもない可能性を秘めているということになる。リンゴが赤いのは、誰が決めたのだ?緑のリンゴを緑リンゴ、と言わずに青リンゴを表すのは何故なのだろうか。せめて碧(あお)リンゴでもいいじゃないか。もしくは個人的には翠リンゴでもいいなあと思っていたりもする。翡翠のようなあおさ、それがあの若いリンゴにはあるような気がしている。それでも『青くさい』という意味合いを込めるのならば、青リンゴが一番妥当なのかもしれない。要するに、何だって自由なのだ。大切なことは、自分の思うこと、頭の中にあるものは全て自由であるということ、そしてそれに勝るものはないということだ。そして最も大切なことは、この一言にあるといつも確信している。これも、大切な人から教えてもらった私の財産の一つだ。









『全てを、疑え。』







コギト・エルゴ・スム

踊る哲学者モニカみなみ

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