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諸法無我(1)。「未来は決まっており、自分の意思など存在しない」をこれから読む

清澤満之が大谷大学を辞めて最後、愛知県大浜の西方寺に副住職として入り、結核を病んで浜風として寺に伏して暮らすようになってから。ミニマルポッシブルな生活を営むことで意識の上では極めて初期の原始仏教的な禁欲に自らを律するが、自分のものなど無い、ということで妻子と縁を切り(西方寺は奥さんの実家のようで、死ぬまでそこに起居してるし、昨年お会いした現在の住職は満之のお孫さんだが)、さらには病で自らの体も自分の意思でどうにもならないことで、無我の真実を実感したと読んだ。そうなんだ。心臓や、さまざまな臓器は自律神経によって動いていて、それがブラフマン。私の身体だ!といえども、自律神経系は己のままならず、腸内細菌は他者だし、空気、水、温度、重力、細胞を構成する元素など宇宙環境と自らの身体の境界を定めるのは容易でない。病気、さらに死まで考えると無我、すなわち自分で決められることなど少ないなぁ。
妹尾武治さんの「未来は決まっており、自分の意思など存在しない」をこれから読むけど、自分の意思すら、先に無意識が決めている、という話だと思う。
私は今から7年前、2017年に膵臓ガンの疑いで、膵頭十二指腸切除をして、膵臓は3分の1になった。お蔭をもちまして良性腫瘍で完治したが、全部切ると重篤な糖尿病になるので膵臓を残し、そこにまだ小さな腫瘍は残っている。それで3ヶ月ごとに造影剤を使って喉から膀胱くらいまでCTでチェックしていただいている。また毎日持効性インシュリンを打ちながら、血糖値を確認して、過度に糖分を摂らないよう、しかし体重がこれ以上減らないよう自分を管理している(術後は15キロくらい減った)。これは自然の一部である身体、特にインシュリンと血糖値、体重を適正な範囲におさまるよう自分の意思でコントロールしようとしていて、諸法無我の正反対。でもいつかこの管理が破綻するか、今は小さな膵臓の腫瘍が手術条件の3センチを超えるか、それで膵臓を全摘するか、その時手術に耐えられる年齢や体力か、などまで見通すと、いずれはコントロール不能になる。
ま、だから諸法無我は正しいですが、修行者が梵我一如になるとか、諸法無我、諸行無常を悟るとかの修行の日々はこんな風だったかな、と思うのです。

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