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仏教思想のゼロポイントを読みながら思ったことの最後に

著者は最後に大乗を定義している。
独覚の人は自分だけで涅槃に行く。最初の釈迦はそうしたかった。しかし仏陀は梵天に頼まれて、理解しついてくる人には門を開こうか、と。テーラワーダになると、船は出るくらいの人々が涅槃に。それが大乗になると、涅槃よりこの世、物語の世界の苦を乗り越える方に重点が。涅槃は輪廻転生の苦からの解脱。死んでも死んでも続く苦は、苦しい生の入り口になる生老病死。物語の世界での苦は尽きない煩悩、もっともっとの満足できない苦しみからの解脱。なんかこのふたつの苦はちょっと別々だなぁ、と感じていたが、大乗は物語の世界での苦からの解脱に重点を移したということで、そこはそうなんだな、と。菩薩はすでに覚ったのに一切衆生を過去未来を通じて皆救いきるまで自分ひとりでは解脱しないと願をかけたので、衆生は菩薩を頼れば、物語の世界の苦から救われる。
それでいいじゃないの。私が今、日々、苦しいのは、いつまでもこれまでの動機と承認欲求、尽きぬ煩悩を断ちきれないからなので、物語の世界は所詮フィクションだと気づけば楽チンですから。
ひとつだけ、独覚で行くか、できそうな人だけ教えて救うか、一切衆生を救うかは、遊び、ですというところはわからなかった。釈迦の時代より都市化、マス社会化が進み、煩悩でがんじがらめの多くの人を救おう、という時代変化、世界拡大にともなうニーズに大乗は応えようとしたのかしら、と思います。
魚川祐司さんは、最後にお母さんに感謝して、そこはどう落とし前つけるのか。本文にはなかったが、巻末の著者の別の著書の広告に「両親に対する積年の怒りを解いた時、心と身体に起きた奇跡とは?」とあるので、母親に素直にありがとう、と言っているわけではなさそう。それと本文終章辺りに星の王子さまらしきエピソードが出てくるが、安冨歩が星の王子さまは毒親たるバラを星に残したままもう戻ってこない息子の物語ととらえたように、マザコンの話であるとすれば解釈も出てくる。大乗で締め括れば、命令の元締めたる母と阿弥陀如来は実はひとつということではないだろうか。

魚川祐司さんはこの後道教に行ったようです。
四川省に暮らしていたとき文殊菩薩の峨眉山と道教の青城山に感激しました。私の経歴からは今は再訪するのは危ないだろうが、いつかまた行ってみたいお想いがムクッと起こりました(完)。

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