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本当に伝えたいことは言葉で表せないから、本がいっぱいあるのかぁ。お正月に考えた隙間だらけの論考。

お正月の新聞広告がそもそものきっかけだった

元日の新聞には出版社の広告がたくさん出る。
これって業界のしきたりなのか?

その中で不立文字という言葉にぶち当たった。
光文社の「心をととのえるスヌーピー」の広告でした。
なんて読むんだっけ?ふりつもじ?いや違う。
そうだ、ふりゅうもんじだ。小さくフリガナが付いていた。
どういう意味だっけ?ご親切にも説明が付いていた。
「本当に伝えたいことは決して文字では表せず、
 教えるべきものほど言葉の外にあるという、禅の基本のひとつです」
広告のキャッチが、
「本がすべてじゃない」と書いてある本、とあった。
なるほど、そういうことか。
本の広告なのにいきなり本を否定しているところが、
スヌーピーっぽいクールさなのか。
確かに言葉って、現実を荒い目の網ですくい取っている感がある。
今書いているこの文章だって、どれだけ言いたいことを書けているのか?

本はアナログでも、言葉はデジタル?

ライブラリ―つんどくは、電子ではない紙の書籍を並べている。
ついついアナログなんて言い方をするけど、よく考えたら、文字こそデジタル的なものの元祖ではないのか?
記号論的に言うと、言葉は世界を2つに切り分ける刃物なんだそうですね。
言葉を連ねることで、世界を切り分け続けて、ようやくある概念に到達する。ずいぶんと手間のかかる方法だ。
冒頭の広告のお話は、広告の写真を見せればそれで済むことなのに、その説明に300文字ほど使ってしまった。
しかし、写真を見せただけでは、私が言いたいことは伝わらない。
この写真を言葉によって切り刻んで、自分にとって都合のよい順番にととのえなおして、なんとか言いたいことが伝わる。
そんなに面倒な方法なのに、たくさんの人が本を読み、たくさんの人が本を書いている。どうしてなのだろう?
テレパシーが使えたら、そんな手続きは不要なのだろうか?
そうしたら本はなくなるのだろうか?
そんなことはないような気がする。

目が粗くて、大切なことがボロボロとこぼれ落ちているからこそ、その落ちたものを想像で補う。それが言葉のおもしろさであり、本を読むことの楽しさなのではないかと思うから。
詩や絵本は、むしろその隙間を味わうものだし。

契約書という、ち密な文体について

言葉のすき間を完璧に埋め尽くそうとする文書形態がある。
契約書だ。仕事で契約書をチェックすることが多い。
延々言葉の定義がつながって、何ひとつ漏れがないように綴られている。
その契約書は時に長編小説並みの厚さになることもあるが、契約書は細かければ細かいほど、不信感が透けて見える。
人を言葉でなんとか縛ろうと悪戦苦闘するが、
しかし、それでも裏をかかれたり、裏切られたり。
「不立文字」。
本当に伝えいたことは文字では表せない。
なるほどね。禅は真理を言い当てている。

ライブラリ―つんどくには、ち密な文体を誇る契約書はない。
すき間だらけで、もっと人の想像力を刺激するものばかりに限定している。
今年も、そこのところ、よろしくお願いいたします。

網目もいっぱい重ねたら、結構、目の詰まったものになりそうなのだが。それが、つんどく、いや、濫読の効用かな?

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