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グリーンバーグ批評選集 備忘

前書き

現代美術史の勉強のために読んだ本の個人的な備忘録をつけておく。
本文を要約し太字として掲載しながら、それをもとに個人的な解釈を述べるものであり、正確さは保証できない。
また美術史の勉強においても概略の勉強は行っているものの、抽象表現主義系の専門書はこれが初めてであるため知識不足は否めない。

アヴァンギャルドとキッチュ(1939) Ⅰ


 社会発達の最終段階において形式の歪みが顕在化されると芸術による既成概念の変化が現れる。これがアヴァンギャルドであり、発祥は西欧のブルジョワジー社会。 
⇒おそらく歴史的な事実として王侯貴族の社会支配からブルジョワ社会が権利を求めて革命を促すという大きくいってしまえば民主化の流れがあったはず。その流れに芸術も乗ったのであろう。確かに中世芸術においてはその内容や目的はパトロンによって定められており、芸術家はその技が重要だったわけであるが、芸術家たちも自己意識の表明ができるという風潮になった時に、既存の表現とは異なる方向に傾いたのかもしれない。なおここで面白いのは4p「現下のブルジョワ社会の秩序は…一連の社会秩序の中の最新の段階に過ぎない」という部分。ならば現下の社会を塗り替えようとする新しい社会が現れるならば、それに伴うアヴァンギャルドの変化も十分に行われるということ。美術の絶え間ない進化。

 発祥の背景に反し、アヴァンギャルドは政治には無関心。ブルジョワ社会による社会変革の波に乗って、社会構図から離脱すると既存の体制だけでなく革命政治などをも拒絶。アヴァンギャルドの最重要機能は「実験」ではなく「革命期において文化を推進するための道を探す」ということ。
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既存の美術体制が社会に存在していたため(パトロン画家の関係など)、そこに対する反旗として独立を果たしたのだろうと推測する。ならば美術は作家の手に戻ることとなり、歪みを生み出す可能性のある社会から離れた美術は美術的な深まり(絶対的な表現)を考察するだけの土壌が完成する。ただここについて個人的に思うことは、歪みを解消するべくアヴァンギャルドは生じたというのに社会から離れてよかったの?と思ってしまう。確かに歪み解消のための美術は社会に存在しその問題点を発信し続ける存在であるから「芸術のための芸術」ではない。時代においてそれまで社会に権威に従属していた美術がその支配の手を離れたときに、表現の可能性として自己の高みはどこにあるのかを探索するということは理解できる話ではあるが。ただグリーンバーグの記載によると全体的な流れとして芸術志向を高めるようにも取れるが、社会に存在しながら問題点を発信し続けるような芸術活動はなかったのだろうか?

 アヴァンギャルドは絶対の探求の結果、抽象芸術に到達。ただしこの絶対とは美術家個人の絶対であり、美学上の相対的価値。ここで注目されたのは自然(=神)の模倣ではなく、芸術そのものの規律と過程の模倣。
 ⇒ここは文章の形が少し難しいのだけど、具象から抽象への過程は様々なところで触れられているからまぁ確かにな、という感じである。ルネサンス的な遠近法以来の中世絵画においてはキャンバス内にどれだけイミテーションの空間を設けられるかが熱心に求められていたが、それが技法的にも飽和した段階において外向的経験よりも内向的経験(心理状態であり制作における色彩や形態など)が求められたというのは自然な流れかと思う。この後段においては具体例が挙げられているが、面白いなと思ったのは「アヴァンギャルドは文化の模倣の模倣であるから克服するべき中世の流れがあるものの、中世芸術は静止したのに対してアヴァンギャルドは動いているから方法として正当化される」という部分。

 アヴァンギャルドは実は社会から離脱するふりをして支配者階級に属していた(支配者階級を観衆とするため)。高度化により知識のない一般観衆を遠ざけ、かつ支配者階級も縮小されている今、支持基盤が縮小しているアヴァンギャルドはますます臆病になっている。
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読んでいてマジか!と思ったところ。まぁ確かに人間が社会において生きている以上何かの方法でお金を得なければならなくて、芸術家においてはその価値を理解してくれる層が商売相手になるのだから支配者層に属しているわけだなぁ。

 ここまでにおいてアヴァンギャルドの誕生の過程と現在置かれている状況を概説している。この論文自体が1939年に書かれたものであり、社会情勢的にはファシズムをもはや容認しがたい時代になっていたからⅡ以降に現れるファシズムが使用するキッチュを批判する意図があったのは他でも推測されている。とりあえずⅠはここまで。

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