竹の宮の姫君と白狼が男女の仲──。 先日、昭陽舎で開かれた立太子の礼をめぐり、錦濤の姫宮と円偉が対立なされた。その日の夜、翠令が左近衛府に佳卓を訪ねると、居合わせた趙元と朗風から思いもかけぬ噂を聞いた。 翠令は聞いたばかりのその噂を反芻してみるが、今一つ現実味を感じられない。 竹の宮の姫君はたぐいまれなる高貴なお血筋。そして、心を病まれた経緯から人を遠ざけ静養生活を送っておられる。片や、白狼は、妖のような怪異な風貌と筋骨隆々とした体躯とで京の街を震え上がらせてき
庭の階の下から「あのう」とおずおずとした声が聞こえた。家人が「来客が見えました」と告げる。 円偉はその声に応えるために庭を見た。昭陽舎では真夏の日差しが目を射るようだったのに、今はどんより厚い雲が垂れ込めてほの暗い。涼しくなったのも道理、夕立でも来るのかもしれない。 円偉は一拍置いて呼吸を整え、家人に落ち着いた声で客を正殿に通するように命じた。 来客が誰か分からぬが、その用向きの予想は容易についた。 案の定、客は今日の昭陽舎での合議に出席していた者だった。そし
円偉は自邸に帰るなり、出迎えた家人たちに「男の家人も女房も、寝殿には誰一人近寄るな」と怒気をはらんだ低い声で吐き捨てた。 今日の昼間は灼熱にあぶられるように暑く、その中を、この邸宅の主人である円偉は、錦濤の姫宮の立太子の礼についての会議に出席していた。 余りの猛暑に神経が苛立っているだけかと普通は思うところだが、普段の円偉はそんな理由で感情を乱す人間ではない。家人たちは主公の不機嫌の理由が皆目わからず、互いに顔を見合わせるばかりだった。 そんな彼らをよそに、円偉
「はあ? なんでだ?」 佳卓は正面からは答えない。 「貴族社会というのはとことん面倒にできていてね。当面は翠令と顔を合わせないようにしないといけない。少なくとも周囲に翠令と全く会っていないという体裁を取らなければならない」 「だからそれはなぜかと問うている。あんたたちは左近衛の上司と麾下だろ?」 「……だからだよ」 佳卓が酒杯に酒を注ぐ。白狼は「おい……」と声を掛けようとしたが、思いとどまった。これは深刻に何か考えを巡らせている顔だ。集中を途切れさせるようなこと
白狼のいる場所から北西にあたる正殿、そこで何か異変が起こっているようだ。 特段意識を向けるまでもなく、その声の内容が次第に明瞭になる。 「姫宮! お静まりを!」 「誰か! 裾を踏め! 姫宮を取り押さえるのじゃ!」 その騒々しい物音は庭の空気を震わせて白狼たちの耳に届く。 白狼は「あの女、南庭に飛び出したのか」と口にすると同時に、何も考えることなく腰を浮かせて駆けだした。 簀子の角を折れ、走りながら庭に視線を巡らす。 ここしばらく姫君が邸の外にまで飛び出
連日続くうだるような暑さの中、蝉しぐれもいい加減聞き飽きたとうんざりしていた午後、佳卓が来るという連絡が竹の宮にもたらされた 。 姫君が簀子の高欄の傍、廂の中の女房には聞こえないほど小さな声で白狼に話す。 「佳卓は時折挨拶に来ますが、いつもならその日のうちに竹の宮を出ます。泊まったことはありません。なのに今回は一晩ここで過ごしたいと言っています」 白狼は特に気に留めない。 「へえ……。俺とあいつは友というほど大した仲ではないが、一応あいつは俺のことを買ってはくれ
「嬢ちゃんは女童の格好をしてこっそり内裏を抜け出したそうだ」 「錦濤の御方が一人でですか?」 「いや、翠令って女武人と一緒だ。だが、翠令だけでは襲われても相手ができなくてな。ああ、言っておくが翠令の剣の腕は確かなんだ。だが、嬢ちゃんを人質に取られるとそれを封じられてしまう」 「白狼……。わたくしに分かるように順を追って説明して下さい。まず初めに、なぜ錦濤の御方は大学寮に行こうと思ったのですか? まだ十歳ばかりの少女だと聞いていますが」 「ああ、済まん。俺は説明が下手だ
沈黙が不自然になる前に何か言わなくては……と白狼は焦る。 「俺は……。翠令が俺の特別な女ということはない。……翠令には佳卓が惚れてる」 まあ、と姫君は驚いた顔をした。そこから気づかわし気な色を顔に浮かべる。 彼女は、白狼もまた翠令に好意を寄せており佳卓と恋敵なのではないかと案じているのかもしれない。 それは違う、断じて違う。何かがとても苛立たしかった。 「翠令はいい人間だと思うが、俺は別に惚れてはいない。俺は誰にも惚れない……俺は妖だから」 姫君はにっこりと
暦の上では梅雨も半ばを過ぎている頃だった。早い年ならそろそろ明けてもいい頃だ。 だが、ここの所ずっと雨がしとしとと降り続くばかりで終わりが見えない。邸内に倦み疲れた空気が漂っている。 姫君もこの天気を鬱陶しく思うのか、夜になるまで御簾から出て来て白狼と話すことが多かった。 庭の木の葉を水滴がぽつぽつと叩く。その音に耳を傾けていた姫君が、ふと傍に立っていた白狼を見上げた。白狼の手には、真名の学び書がある。 「白狼、真名の勉強は進んでいますか?」 白狼は肩を竦《す
「佳卓も、俺が口調を改める必要はないと言ってくれた。この口調が俺らしいのだ、と。それが意地なんだろうから、その意地を大切にしろと言われた」 「意地?」 「『情けを受けるまい、受けた恩はいつか返すのだ』という意地が俺の根幹にある。俺が傲岸不遜でいるのはその意地の表れだ。そう佳卓は言ったし、あいつは俺のことを上手く言い当てていると思う」 彼女は首を傾げたままだった。確かに、傲岸不遜という言葉は褒め言葉では決してない。それでも―― 「俺も、あんたに同じことを言う。あんただ
姫君が夕方に外に飛び出るほど錯乱することはほぼなくなり、夕暮れ時を静かに過ごす日が多くなった。 女房達は相変わらず自分たちの利害しか口に出さない。 「やれやれ、梅雨が始まる前に収まって良かったこと」 「雨の中を外に走り出られては泥の始末など手間がかかる。屋内で過ごしていただかなくてはの」 彼女達は簀子《すのこ》に座る白狼を「これ、お前」と呼んだ。 「なんだ?」 「姫宮は未だ夜中にふらふらと立ち歩かれるが、お前がしっかりお世話して、外には出さぬようにしておくれ
同じことは三日続いた。夕方になり日が翳り始めると、姫君は泣き叫び始める。部屋の中の調度を壊し、止めようとする女房達に衣を破かれても彼女は暴れ、そしてボロボロのなりで外に走り出てくる。 「白狼! 助けて!」 彼女は男が襲い掛かってくるのだと言い募る。彼女に見えている男というのは、あの猥談好きの下衆ではなく、童子の頃に襲い掛かってきた豺虎であるようだった。あの下衆男の一件は、彼女が封じ込めようとしてきた忌まわしい過去をはっきりと呼び起こしてしまったらしい。 彼女は白狼
翌朝、白狼は正殿に呼び出された。 ──正直なところ、面倒くさい。 白狼を呼び出したあの女は、湿っぽい声で大仰な謝辞を述べるだろう。そして今後もよろしく頼むと懇願するに違いない。 別に頼まれたことはしてやってもいいが、他人が憐れみを乞う惨めな姿を目にするのは不快なものだと思う。 白狼はこういう時の貴族の女が嫌いだった。 例えば、彼が彼女たちの高価そうな贅沢品を奪おうとすると、「お願いですからそれだけは返して下され」とさめざめと泣く。彼女たちは「恩」ではなく「
姫君の不興を買った翌日の夕刻、白狼は庭にいた 。 女房によれば、この竹の宮から京の近衛府に使いを出し、白狼の代わりの近衛舎人を呼び寄せるのだという。その者が竹の宮に着くまで、白狼は特にすることも与えられず、捨て置かれていた。 ──どうせ放っておかれるなら、庭園の真ん中にいたって文句ないだろう。 白狼はそう思い、初夏の夕暮れ前のひとときを庭でうろうろと歩き回って過ごしていた。 ──困ったことになったな。 彼は南庭の池の畔で考え込む。 自分のこの目立つ姿が
竹の宮の邸宅の門に到着したのは、西に広がる山々の陰に太陽が隠れる少し前の頃だった。白狼たち一行と入れ替わりで京に戻る武人達が出迎え、そして、そのまま竹の宮の姫君に挨拶をしろと言う。 一人が不満げな声を上げた。 「このままですかい? 旅装を解くくらいのことはさせてもらえませんかね?」 相手は首を振った。 「駄目だ。外が明るいうちに庭で姫君に顔をお目に掛けろ。でないと、今晩、竹の宮の敷地に入れて貰えないぞ。ここの周りは竹槍をあちこちに仕込んだ竹林しかない。まともな場
その男が白狼に優越感を抱く理由は何となく察しがついた。 彼は四人の男の中で話題の中心にいた。自分の周りに人が集まることが自慢で、白狼が独りぼっちであることを小ばかにしているのだろう。 いつも誰かと群れていないと落ち着かない人間というのは多い。彼らは、単独で行動する者を見ると友達がいないのだと見下しがちだ。どちらかといえば女に多い気がするが、この男もそうなのだろう。 その男は人と打ち解けやすい性格ではあるらしく、確かに話は上手かった。語彙が豊富で話の展開に無駄がな