お風呂の外に、世界はあるのか。

昔から、いろんなことを考える子どもだった。
知的な成長が早かったとも言えるかもしれない。なんせ小学2年のときには「自分は容姿で戦えない」と悟り、勉強に力を入れ生きてきたのだから。

そんな自分が、人生で一番初めに持った(今思えば)哲学的な問いが、

お風呂の外の家族は、自分がお風呂から出た後、河童になっていないか。

という問題である。

小学校低学年の頃には、既に一人で風呂にはいるようになっていた自分は、この問いに真剣に悩んでいた。なぜお風呂場で思ったのか、なぜ河童なのかは分からないけれど、上で示した問いのとおり悩んでいたことは、今でも明確に覚えている。

この問いは、自分が見えていないところで、世界が変化してしまっていないか、もっと根源的には、「自分の見えていないところに世界はあるのか」という悩みだったと思う。もちろん、その時の自分はこうしたことを言語化・抽象化した上で考えてきたわけではない。
だけど、あの頃の自分なりにいろんなアプローチで「お風呂の外の家族は、自分がお風呂から出た後、河童になっていないか」について挑んできた。

一番オーソドックスなのは、経験的な理解だ。
幸いなことに、ぼくの家族はぼくが風呂から出た後、河童になっていたことはなかった。だからぼくは、若干安心した。しかし考える。

「昨日そうだったからといって、今日もそうだとは限らない。」

今考えても、もっともな指摘だと思う。ぼくらは明日が存在し、来週が存在し、あと少ししたらクリスマスが来て、2019年が来て、東京オリンピックが来て……と未来があるように振る舞っているけれど、そんなの全くもって自明ではない。「明日は存在します」と言える人はいないはずだ。

ウンウン考えているが、答えは出ない。
そんな中出会ったのが、映画「マトリックス」。この映画は僕の哲学的関心を開花させた。純粋なアクション映画としても十分楽しめる映画だけれど、この映画の真骨頂はむしろ哲学的な問いにあると思う。
映画の内容を忘れた人・映画自体を観ていない人のためにかいつまんで説明すると、要するにマトリックスの打ち出す問いは、「この世界は作られた仮想現実なのではないか」ということである。本当は単にプラグに繋がれているだけで、脳への電気信号でこの世界を見せられているだけなのではないかという問いである。(正確には違うかもしれないが)

小学3年生くらいのときこれを見たぼくは衝撃を受けた。
「河童どころの騒ぎじゃないじゃないか」と。

その頃までの自分は、「外の世界は自明か」ということで悩んでいて、自分自身の存在について疑問をいだいたことはなかった。その自分が、自分自身の存在を疑い始めたのだ。

「私とはなにか」

と。

これは今でも一番気になるテーマだし、日頃ぼんやりと考え続けている。
そして、僕は身の回りの人にこの悩みを相談するのだが、あまりこの問いの価値を理解してくれる人はいない。

ちょっとませた子なら、「あんたの父親と母親があれしたから、お前が生まれたんだ」と返してくる。もっと大人になると「そんなこと言ってないで働け」と言ってくる。

生物学的に自分という「個体」が自然に誕生することは、そんなに疑問がない。問題はそこではない。なぜ数多いる「個体」の中で、ぼくの自我がぼくに宿ったのか。そのことが問題なのだ。

こんなことを小学生の高学年くらいのときに疑問に抱きだしてから、いろんな哲学書をかいつまんでみては、「なるほど」と思ったり「分からん」と思ったりしながら生きている。
その営みは、まったくもって無駄なように思えるし、実際なにかに活かされたことはないのだけれど、自分のライフワークというか、遊びとして、生きていることとセットで存在している。

人工知能と哲学について書かれた本を読んでいる中で、急に「そういえば昔お風呂で……」と最初の一歩を思い出したので、書いてみた。

最近トレンドの悩みは、「なぜぼくは竹内涼真ではないのか」。

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伊吹 一

イブキ ハジメ|脚本家|コメディを書く|会話劇|1994|法務博士|東京在住|左利き|ミニマリスト|コント台本提供|mail: ibuki.hazime@gmail.com
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