乱気流に乗って
お久しぶりです。
ナマポにいです。
僕は、高所恐怖症です。
高いところ、めちゃくちゃ怖いです。
これまで生活保護として生活してきましたが、最近生活保護を卒業して日本と国外をウロウロしております。
そこで避けて通れないのが、「飛行機」です。
格安航空のPeachなどを使えば、僕のような貧困層でもお手軽に長距離移動できます。
ただ、高所恐怖症なので飛行機に乗るのが恐怖で仕方がないんですよ。本当に...
先月飛行機に乗った時なんか、着陸時にけっこう揺れて恐怖で吐きそうになってしまいました。
多分、飛行機の中では自己コントロール感というものが一切無効化されてしまうことが原因なのではないかと思います。
例えば、自動車を運転するのであれば、他人がどんなにクレイジーなドライビングをして追い越されても、自分がシートベルトをちゃんと閉めて法定速度をしっかり守っていれば、「まあ事故っても大丈夫だろう」という安心感を感じるのです。
しかし、飛行機は違います。
ただ、乗るだけです。
そこで、天候が悪くて乱気流にカチあってしまうと、もうどうにもなりませんし、自分では何もできずに「ただ、恐怖するだけ」になります。
ただし、今回そんな中でも僕に唯一できたことが「祈り」でした。
僕にとって、祈るということは、ただこの時が過ぎるのが早く過ぎ去っていくことを願うことではなく、「今までの全てに感謝すること」です。
そして、飛行中何回も乱気流に飲まれ、何度も祈る内にある一つのことが自分の中でつながりました。
それは、このように自分が何もコントロールすることができないような受け身の状態でも「主体的になる」ことができるのではないか?ということです。
言い換えれば、「死ぬことに対して主体的になること」です。
一般的に、死ぬことは病気になったり事故にあったり、自分達がコントロールできることではなく、全て受動的なものですが、その死に対しても祈りによって主体的になれるということが分かりました。
そして、死(乱気流)を受動的なものから「主体的に受け入れるもの」という風に理解できてからは、乱気流があっても以前ほど恐怖を感じず、ポジティブな気持ちになることができたのです。
僕は、キルケゴールの本の中で
という箇所が好きなのですが、それは「祈り」という儀式や行為を通してしかなし得ないことに気付かされました。
また、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を最近読んだのですが、以下のような箇所ありました。
今回、飛行機で乱気流に巻き込まれることによって、僕にとって精神の内的な変化が見られたことは本当にラッキーなことでした。
ちなみに、
「主体的になったり内的に成長したりして、それが何なん?周りも行動も何も変わってねーやん!」
と思われる方もいるかもしれませんが、僕は
動物と人間の違いはなにか?
主体性は人間の条件なのではないか?
と問い、そうありたいと思って生きています。
受動的になりがちなもの(死や病気や過酷な状況)に対して主体的に関わっていく。
実際に、そんな状況に陥ることは少ないかもしれませんが、自分の中に何か新しいものを発見できるかもしれませんね。
では、今回も最後までお読み頂きまして有難うございました。
フロー!!
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