リレー企画

鱗雲 ―海の中、雲の向こう―

 ふと考えた。 

 あの大きな雲が鱗なのだとしたら、その向こうにいるのは、一体、どんな生き物なのだろうと。

 屋上のフェンスに体を預け、空を仰ぐと、もうすっかり秋のそれだった。病院の雰囲気というのは、どうも苦手だ。たとえ病気でなくても、その空気に当てられれば妙に落ち着かなくなってしまう。思わず逃げてきた屋上からは、敷地内の様子がよく見えた。

 病院は坂の上にあった。道両側の銀杏並木は黄色が濃く、落ちた葉は地面をも染め上げている。坂を上ってすぐの所に本館があり、その後ろにある中庭を囲むように第1から第3病棟がロの字型に配置されている。そのさらに奥、他の病棟から少し離れ、海に面した所にもう一つ病棟があった。

 あちらの病室の窓からは、海がよく見えるのだろうな。

 ぼんやりとその景色を想像する。
 空の青。海の青。病室の白も心なしかその色に染められて。窓からの光が強いから、部屋の中にあるものたちは黒い影となってカタチが見える。

 それは息がつまるほど、静かで、寂しく、けれど、美しい景色のように感じた。

 波が寄せては返し、白いしぶきをあげる。
 青の中の小さな白は、どこかあの鱗雲に似ているかもしれない。

 

 ふと、こんなにも、まるで見てきたように
 あの病棟からの景色を想像できる自分に、自分で驚いた。変な、感じだ。

 海の中には、魚がいる。
 あの小さく白いしぶきの奥には、様々な魚がいるのだ。

 群れて動く小さい魚。
 ギラギラとした白銀の肌を持つ魚。
 藍色と白の美しいグラデーションを映す魚。

 奥に行けば行く程、魚は美しく、かつ神秘的な物になる。

 淡いピンク色で細長い魚。
 柔らかい肌を持つ魚。
 体が透けている魚。

 数多くの魚が青く広い海を自由に動く。

 ならば。似ているこの鱗雲の奥にもいるかもしれない。
 あの小さく白い雲の奥には何があるのだろうか。

 その時、探究心が体に駆け巡り、ゾワリと震えに似た感覚を覚えた。
 あの空の海に飛び込んでみたい。
 鱗雲の奥に何があるのか調べてみたい。

 気づけば、空を見上げ。雲の奥を食い入るように見ていた。

 ぐん、と、鱗が大きくなった。
 重なる鱗が、手を伸ばせば触れられそうなぐらい近くで揺れる。
 フェンスを掴んで、つま先で立つ。手を伸ばした瞬間、フェンスの感触が消えた。

 あ、と思ったときには、空に向かって落ちていた。

 青が濃くなる。空に沈む。包み込む温度は低いのに、心安らぐ暖かさがあった。
 すぐ傍を、撫でるように進む気配があって、頭を傾ける。魚だ。見たこともないような魚。炎のような赤と黄を纏って、けれど熱を感じさせない。ああ、知っている。見たこともないこの魚を、知っている。
 それに気付いたときには、悠然と泳ぐ冷たい炎を追って、ゆらりと空を泳いでいた。

 透明な青さを持った澄んだ空気の中、
 微かに光を透かして、雲が連なる空を見つめている。

 あの、さざ波のような水蒸気の流れは、
 何かの知らせだろうか。

 一瞬、雲の中に動く何かが、影のように見えた気がした。

 もう一度目を凝らす。
 その影は確かにゆっくりと雲と雲の間を泳いでいるように見えた。

 雲間から零れた陽射しが、片方の目に飛び込んできた。
 構わずあの影を追いかけようとするが、最初の一歩を踏み出して留まる。

 あそこに在るものとは道行が違う。
 そう思えた。

 雲を泳いでいた影が遠くに行ってしまったのを感じた。

 視線を下ろすと、澄んだ水面は暮れるにはまだ早い日の光と、
 影が消えてしまった空を映し出していた。

 空と海、ふたつの青さが視界の中で重なり合うと、もうほとんど境界がわからなくなる。

 まるで、夢の中で空を飛んでいるような浮遊感を感じたその瞬間だった。
 いつの間にか、病院前の銀杏並木がずっと遠くにあることに気づく。
 雲と一緒に自分の身体が猛烈な速度で流されていた。

(このままだと戻れなくなる!)

 流れに逆らい、がむしゃらにもがいた。
 だが、銀杏並木は近づくどころかますます遠ざかっているようにみえる。

 焦れば焦るほど体力を消耗し、やがて意識が薄らいでいった。

 目が覚めたのは、海の見える病棟の一室。

「あそこは潮が速い。
 ……キミも、鱗雲の向こう側へ心を泳がせてしまったの?」

 振り向くと、黒い瞳が自分を見下ろしていた。

 その男には見覚えがあった。健康的で綺麗な顔立ち。少し前の、彼の姿だ。
 何故、そんな当たり前なことを聞けば消えてしまう気がするのはどうしてだろう。

 「君は、向こう側から帰ってきてくれないのかい」

 その問いに彼は微笑みを返した。
 どうにもそれが歯がゆくて、つい、手を伸ばしてしまった。

 彼は蜃気楼のように消えていく。
 同時に、再び浮遊感が襲った。
 目まぐるしく変わる景色。
 病室は溶けるように空気となり、一面の青が目に映る。
 雲と共に流れるこの身体の終着点など分かるはずもなく、ただ身を任せ流されていく。
 ふと感じる気配は魚だろうか。
 彼はまだ、鱗雲の向こう側で泳ぎたいらしい。
 彼はまだ、目覚めてはくれないらしい。

 この息苦しい世界に一人は嫌だ。
 一緒に連れて行って欲しい。
 そんな浅はかな考えは、彼の微笑みに一蹴された。

 なんて残酷な微笑だろう。
 とっても奇麗だ。

 届かないとわかっていても、腕は自然と君が溶けた方向にのびる。
 そして、「空」が手に満ちる。

 (あぁ、いない)

 悔しくて、きゅっと握り込んだ手に突然、刺すような痛みが走った。
 漂う意識は重力に引き戻される。

 (紅い)

 錆びたフェンスを強く握りすぎたらしい。ざらつきとべたつきの不快が手を染める。

 気付けば、陽は海に半分ほど飲み込まれていた。
 青々としていた空と海にはいつしか燃えるようなオレンジイエローが揺れている。

 「あの色」

 意識の水底で、冷たい炎の尾びれが揺れた。

 そうか。やっとわかったよ。

 君はあの病棟から、

 この景色を見せたかったんだね。
 青や赤や黄や白も混ざった境界のこの世界を。

 人の抱えた鱗や焼き焦がすような痛みを伴う尾びれだって、
 その意味や役目があるのだと、
 そう言いたかったんだね。

 あの浮遊感の中で私は綺麗な物ばかりを見ようとしていた。
 綺麗で強く光る白いものに照らされた黒い影に目を向ける自信がなかったから。
 やっぱり現実は怖かったから。

 紅く染まる世界で重たい鱗を持ち上げ、痛みを伴う尾びれを動かす。
 そうやって、病棟の一室へと足を向けた。

 足取りは重かった。そのくせ空で感じた浮遊感だけがまとわりつく。
 ふわりと廊下を泳ぐ冷たい炎。ひらりと視界の端を横切る影。どちらも引き連れて病室へ向かう。

 何度も会いに来ようとした。でもあの屋上から病室を眺めるのがやっとだった。その繰り返しをあの黒い瞳は全部見ていたのかもしれない。

 「空」をつかんだ手をドアに掛ける。目を閉じてまぶたの裏に鱗雲を思い描いた。その奥から連れて来た光と影と共にドアを開ける。
 彼はそこにいた。ゆっくりと泳ぐように歩み寄る。

「……君は、向こう側から帰ってきてくれないのかい」

 気付けばもう一度同じ問いを口にしていた。
 応えはなく、微かに残った透明な青さが夕日に染まる病室に漂っていた。




ー書いた人答え合わせー

①くさなぎ
②れとろ
③Miyavi様
④あきら
⑤Celt様
⑥しるてっく
⑦sora様
⑧れんぷく
⑨鹿水 美優
⑩みそら

※写真画像は以下よりお借りしました。
 著作者:scott1346様
 https://www.flickr.com/photos/bluecorvette/10715733895/


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