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小説 金魚邸の娘 ニ

2025年 初夏 六花 1 

白川町しらかわまち記念図書館は、街全体を見下ろすかたちで建っている。


下から徒歩でここまで来るのはたいへんに苦労する。傾斜のきついくねくねとした細道を三十分以上歩かねばならないのだから、到着する頃にはすっかりへとへとになってしまう。だから、利用者は大抵バスに乗ってやって来る。利用者用の駐車場もないので、途中まで車で来ても坂のふもとに車を置き、そうしてバスで図書館まで行くのである。
けれども、不便さにもかかわらずこの図書館はけっして廃れない。どの時間帯どの曜日でも人は一定数いるし、週に何度も通う利用者も少なくない。それだけの魅力がこの図書館にはあるのである。
どっしりとした煉瓦造りに壁はミントとクリームのツートーンカラー。そこに立派な瓦屋根が妙なバランスでマッチしている。三階まである館内の大閲覧室も開放感のある吹き抜けで──残念ながらそこから下がるシャンデリアは安全性のためあっさりとしたデザインのものに変えられてしまったらしいけれど──それでも充分に来る者を魅了する美しさだ。
ここ、白川町記念図書館は大正時代に建てられた名家の邸をリノベーションして図書館として使っており、館内の蔵書だけでなく建物自体が生きた史料となっている珍しいタイプの施設だ。図書館であると同時に記念館なのである。

柳六花やなぎりっかはこちらに向かってうねりながら近付いて来るバスをガラス越しに眺めていた。ここからは下の街の営みがよく見える。白川町記念図書館の三階、職員用休憩室の小窓である。この観光街をもっとも美しく、もっとも広やかに眺めることのできる場所は実はここの窓辺ではないかと、六花は踏んでいる。 
白川町は観光の街である。理由は、この情緒ある美しい街並みだ。こんな山坂の多い土地に、それでもその昔資産家の住まいが集中し栄えたそうなのだ。現在はその跡地や周辺の施設、それに沿って発展した商店街が観光スポットとなっている。
昼休憩は慌ただしい。さっさと昼食を済ませて、残りの時間を窓から街並みを眺めて過ごすのが六花の習慣になっていた。
ここで働き始めて三年程になる。春、夏、秋、冬、と見ることの出来る景色は三巡した。今は春と夏のあいだ。すぐ近くの小学校の桜並木は花を散らし、若葉が日々緑の濃さを増している。白で統一された校庭の遊具や校舎さえも雰囲気があって街に溶け込むのは、何年か前の改装と拡大の際、敢えてそういうデザインを採用したからだそうだ。
バスが図書館前の停留所で止まり、乗客がぞろぞろ降車して来るさまを眺めていたときに背後から肩を軽く叩かれた。
「そろそろ時間だよ」
声を掛けてくれたのは同僚の金木かねきさんだった。ここの職員の中で一番六花と歳が近いのが彼女である。六花は最年少だった。
軽くお礼を言って他の何人かの同僚と共に休憩室を出る。臙脂色の絨毯が敷き詰められた階段を下りながらエプロンの腰ひもを結び直した。一番下っ端である六花の午後の仕事は大体決まっている。ひたすら配架はいかだ。





本を満載したカートを目当ての書棚近くで止めると、その書棚にしゃがみ込んで熱心に背表紙を目で追っている少女がいた。背負っている水色のランドセルの方が、彼女の背中よりまだ大きい。少女は六花の気配を敏感に察知すると勢いよく立ち上がり、くちびるを結んで逃げるようにして走り去ってしまった。ふと気付いて腕の時計を見ると、15時30分を過ぎている。そういえば微かにこちらにも流れて来る下校時刻を報せる校内放送を先程聞いたような気がする。
──逃げなくてもいいのに。
配架したい場所には常に利用者がいる、というのはどこの図書館でも同じなのらしい。それはそうかと思う。人気のある本だから頻繁に借りられてこうして返却されるわけだし、新たに借りようとする利用者がその書棚の辺りをうろついて物色するのだから当然の流れだ。
ああいう小さい子を見ると六花は自分の子供時代を思い出す。
大人しくて、無口で、気が弱くて。けれど本だけは夢中で貪るように読む子供だった。本の中の登場人物には割と六花のように孤立していて本の虫というような少女が多く、なんとはなしに安堵したものだ。
この児童書のコーナーにずらりと並ぶ背表紙のタイトルを、既に六花はほとんど子供時代に読破した。後で知ったことだが、司書の基本的な資格を満たす条件のひとつは蔵書の内容を熟知していることなのだという。『昔読んだ小説でこんな一文があったのだが、あの本は何というタイトルだろうか』というような利用者の問い合わせに自動検索機能はほとんど用を成さない。そこに決してコンピューターが担えない、司書の存在価値がある。
だからといって六花が有能な司書かといえばそうでもないのだけれど。カウンター業務などはいかにも辿々しく、有能どころか見習いアルバイト同然である。
時々思うのだ。
あの頃読んだ物語の内気な少女たちは、どんな大人になったのだろうかと。彼女たちは、ごく自然に内気を克服して社会に溶け込んで難なく職に就いて、普通の生活を送れているのだろうか。
勝手な思い込みなのは重々承知だが、何だか六花だけが置いてけぼりを食らった気分である。
六花の内気は今に至るまで改善されずにいる。社交性も目立つ才能もない。強みといえば精々読書家であること、そこから得た膨大な知識を持っていることだけだ。
六花には、ここしかなかった。図書館しかなかった。
図書館で働きたいという積極的選択ではなく、図書館しか拾ってくれないという縋るような思いだけで司書を目指した。
勿論ただ本が好きという理由のみで務まる程この仕事は甘くない。実際、どんな仕事に就いていたって人と人との交流は避けては通れない。それどころか、レファレンスサービスの仕事に至ってはかなり高度なコミュニケーション能力が必要なのだと知った。
それでも曲がりなりに一人のライブリアンとして、六花はこの仕事を愛していた。特別美しいこの図書館で、本に囲まれて日々本のことを知り知識を足してゆく。そういう意味では六花は六花の憧れを叶えている。

近頃は日が延びてきて、十七時というと外はまだ充分明るい。けれど白川町記念図書館はそこで閉館時間となる。よその図書館よりも早い時刻だが、それは周りが観光街であることと、ここ自体も「記念図書館」として観光施設も兼ねている特殊性によるのだろう。閉館直前のカウンターは駆け込み返却の対応で俄かに慌ただしくなる。この時ばかりはカウンター仕事の苦手な六花も有無を言わさず駆り出される。返却業務が半ら片付いて殆ど利用者が退館した頃、金木さんが近づいてきた。
「柳さん」
緩くウェーブのかかった茶髪を耳に掛けながら、黒いエプロンのポケットからメモ帳を取り出す。
「今日私達が施錠当番だから。覚えてる? 」
メモ帳から目線をちらりと六花に移して彼女は問うた。言われて、今日は金曜だったと思い出す。返却された本を無意味に揃えながら何度か頷く。
「大丈夫です。よろしくお願いします」






明日に備えての雑務は全て片付いた。返却ポストも確認したし、見廻りも終えた。トイレもゴミ箱も綺麗だったはずだ。黒いパンツと白いシャツの仕事着から私服に着替え終えると、ロッカー室の外で既に着替えを終えた金木さんが待っていた。
図書館の鍵は金木さんが持っている。消灯し、施錠を二人で確認し、鍵を預かった職員が翌日早くに出勤して開錠するのだ。
じゃあ、良いねと金木さんと図書館を出ようとした時だった。
「あ、ちょっと…… 」
「どうかした? 」
「何か動いた気がして」
大閲覧室を振り返った一瞬、奥の書棚の向こうで何か動くものが慌てて引っ込んだ──ように見えた。ちょっと見てきます、六花は荷物を持ったまま駆け出した。
影が見えた辺りの書棚に近付くと、たたた、という軽い足音を聞いた。本当に誰かが居るらしい。途端に恐怖心と後悔に襲われる。不用心だった。泥棒か不審者かホームレスか。誰かが居る。確実に、この書棚の向こうに。
大丈夫ー、入口で叫ぶ金木さんの声が聞こえる。固まってしまった六花が答えられずにいると、彼女は素早くこちらにやって来た。
「なに、誰かいるの」
六花はこくこくと頷いて肯定する。眉を顰めた金木さんは荷物で身体をガードしつつゆっくりと歩みを進める。結構無謀なことをするな、頭のどこかで冷静に思いながらも六花もそれに倣った。恐ず恐ずと二人で書棚を覗く。
人は居た。
けれど想定していたような危険人物ではなかった。逃げ場のなくなった壁の隅にくっつくように立って、自らの腕をぎゅっと掴んで固まっている。口も同じように固く閉じられ、背中と壁の間で水色のランドセルが行き場もなく押し付けられていた。
「あ、昼間の──」
午後の配架の際、児童書の書棚で見掛けた小学生だった。
金木さんも拍子抜けしたようだった。
「どうしたの? 帰りそびれちゃった? 」
早い閉館時間とはいえ、もう時刻は十八時になろうとしている。小学生はそろそろ家に帰っていないと親が心配する頃だ。少女は睨むような、泣き出しそうな、とにかく緊張した面持ちで六花達をじっと見つめたまま口を開こうとしない。いや、開けないのかもしれない。六花にはなんとなくその感覚が分かる。
困ったなあ、すぐそこの学校に通ってる子だよねえ、金木さんは少女と同じ目線までしゃがみ込んで何やら思案しているらしい。
「お家はこの近くなの? 」
少女は頑なに答えない。
「何年生?」
何を尋ねても黙り込んでいる彼女に、うーん、と金木さんは頭を抱えてしまった。
「帰れない事情でもあるのかな」
これは時間が掛かるなと踏んだ。余計なことだと思いながら六花は口を挟んだ。
「あの」
多分緊張してるだけだと思うので──六花の言葉に金木さんが振り向く。
「私一人で大丈夫だと思います。施錠、していくので」
日が落ちかけた邸の暗い色の絨毯にしゃがんだ金木さんは迷うように六花と少女を交互に見る。
「ほんとに大丈夫? 」
「もし本当に困ったら交番に行くので」
大丈夫です、と念を押すと交番と聞いて安心したのか、金木さんは少し迷って立ち上がった。
「じゃあ、ごめんだけどお願いしても良いかな。実はこのあと用事があって。ほんとにごめんね」





少女と二人きりになると、六花は相変わらず固まっている彼女の隣に、少し間隔を置いて座った。壁に頭を傾けると自然と視線が上方へ向く。
「いいよ。何か言えるようになったら、言えばいいよ」
この低さから見回すと、館内は驚く程果てしない。吹き抜けなので余計そう感じるのだろう。本来はこれが個人の住まいだったというのだから驚く。昔の日常など想像もつかないが、こういう所に住む人たちというのはどんな暮らしをしていたのだろう。

六花は努めて少女に意識を向けないようにした。恐らくこの子は、子供の頃六花が持っていたような極度の内気さを抱えている。そういう子は、誰かに面と向かって問い詰められると余計言葉に詰まって黙り込んでしまう性質がある。もともと、元来が内気なのだからそうしたからといって心を開いてくれる保証はないのだが。問い詰められるよりは増しというだけである。長期戦を覚悟で粘る心構えでいた方がいい、そう思った。
とは言え、日が暮れ月明かりが照らし始めると徐々に六花も不安になって来た。腕時計を見ると十八時三十分を指し示している。辛うじて館内はまだ薄明るいが、十五分もすればすっかり暗くなってしまいそうだった。
あと五分したら無理矢理にでも交番に連れて行くしかないな、そう思った時、落とした──と半分泣きそうになって小さく呟く声を聴いた。少女は袖で力一杯目をこすってもう一度訴える。
「──落として、見つかんなかったから」
「落としたもの探してたの?」
ん、と声付きで幼く頷く。ひょっとして親から渡された家の鍵か何かだろうか。
「何落としたの」
「消しゴム、です」
消しゴム。正直拍子抜けしたが、小学生というとそんなものかと思い直す。この年頃の子供にとっては、ヘアピンやシール一枚が非常に貴重な宝物だったりする。
「大きさがこんくらいで、お花の形で、ピンクのやつで、匂い付きのやつ── 」
「うん。そしたら一緒に探そうか」
六花が立ち上がると、少女はまたしてもぶん、と前髪が揺れるほど力を入れて頷いた。

電気を点けるから待ってて、と駆け出した途中、スイッチの場所にたどり着く前に少女が元気に、あった、と叫んだのでまたしても肩透かしを食らった。そのまま声のした方へ戻る。
「あったの? 」
「うん! 」
行ってみるが、彼女がどこにいるのか分からない。暫くして、館内の中央にある閲覧机の下にいることに気が付いた。机の下なら、開館時間は人が座っていて落とした消しゴムが見えなかったのだろう。
巨大で長いその机が伸びる先には、やはり大きな白い格子窓がある。半月が窓から覗いていて、月あかりに反射した微細な埃がきらきら、ゆらゆら、舞っているのが見えた。縁に特徴のある大机の上で静かに揺れている。
六花は思わず足を止めた。
何故だろう。既視感がある。
実際はそんな筈は無いのだけれど。こんな時刻までここに居るのは今日が初めてなのだ。それとも、美しいもののようにきらきら舞う埃に見覚えがあるのだろうか。

少女は床に脚をぺたりとつけて大机の下にじっと座っていた。見つかったの、と声を掛けても何も答えず出てこようとしない。側に寄ると、机の天板の裏側を見上げているのだと分かった。
六花もしゃがみ込んで大机の下に潜ってみる。少女は六花にだいぶ慣れたのか、動じたりはしなかった。それにしても大人にはここは窮屈だ。背中を丸めて縮こまっていることしか出来ない。
「どうかした? やっぱり消しゴムじゃなかった? 」
少女は初めて六花と目を合わせて、静かに首を横に振った。小動物のように曇りのない子供の目。右手を見ると、確かに小さな消しゴムらしきものが握られている。
消しゴムを握ったまま、彼女は人さし指を上に向ける。さっきまで見ていた天板の裏だ。何かあるのだろうか。
この体勢で上を見上げるのは苦しい。六花は絨毯の上に仰向けに寝転ぶ。

思わず目を見開いた。

見えている範囲内、隅から隅まで。
「何これ」
少女も六花の隣に並んで寝転ぶ。
照らすのは月明かりだけで、うっすらとしか判らない。





それでも確かに、大机の裏一面に文字がびっしり書き込まれているのが見えた。



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