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窓辺トリップ


たとえばと考えながら窓を見る。

私の窓辺はきちんと窓辺として機能している。私はそこに邪魔くさい家具など置いてはいない。そんな野暮なことはしない。

ベランダに通ずる大きなガラスの引き戸とは別に、ただ顔を覗かせるための、ただ陽光を通過させるための、ただ風を入れるだけの、窓として使うための窓。
私はそこに、あこがれの窓辺の写真をぼんやりとした加工を施して貼り、その写真となるべく同じになるよう私の窓辺を整えている。
二面ある窓の片側には、薄い生成りの布地を取り付けた。カーテンとしての機能はごく低いけれどそれで好いし、それが好いのだ。私の理想の窓なのだ。
その窓に寄り添って考える。そこから見える景色のこと。その風景のこと。細い小川と小さな畑に挟まれた、心許ない小道のこと。そこの地面に触れた数知れない足の裏のこと。写真にも残らない昔の時代、この土地のこの地面に足の裏を触れて歩いた人のこと──。


私の窓辺のあるこのアパートは、私の生まれた日には存在していないもので、アパートの東側の跨線橋は鉄道が通る前は存在していないもので、ではほんの数十年前、この場所は一体どんな姿をしていたのか。そんなことを考える。
百年前、五百年前、千年前はと考え出すときりがない。
もちろん、土地の使い方は変わっただろう。いや、使われていない時代もあったろう。道にアスファルトなんか敷かれていなかったろう。
それでもこの地面の存在は変わらない。使用していた空も太陽も月も変わらない。

全く無名で今は忘れ去られた人たちが、今はほとんど無として扱われている人たちが、かつてはこの同じ場所で生き生きと、感情と思考を働かせて暮らしていたことを思うと、その途方もなさにくらりとする。

この感覚は知っている、と思う。

この感覚はあの写真を見たときと同じものだ。
あの白黒の画質の悪い写真。
写っていたのは雑多な町の通りと。
忙しなく行き交う人々と。
そして少年。
坊主頭で、服はぼろぼろで、道の端に座って物乞いをしている五歳ほどの少年。

戦争孤児なのだ。

おそらく何かの資料として目にしたそれは私に大きな衝撃を与え、この子は果たして大人になれたのだろうかとか、なれたとしてももう高齢で死んでしまっているのではないかとか、その子がその時座っていた同じ道路を今は何も知らない人達が何も知らないで歩いているのかとか、そのようなことをぐるぐると考えた。
おなじ国、おなじ地域、おなじ場所。
窓から見えるこの景色を、時代を越える壮大な巻き戻し再生で見てみたい。
この場所を歩いた人。転んだ人。帰りの道すがらの学生のお喋り。
ここで笑えるようなことがあったかも知れないし、珍しいこともあったかも知れない。恐ろしいことや、もしかしたら誰かが死んだことも。

昔の誰かの強い思いは確かに残ることもある。けれど、大多数の“誰か”の強い思いは事実として時と共に消え去る。
その人の内に秘めた思いはその人が死ぬと同時に失せる。
失せるので、その人が生きていた時代も、その人の日常の服装も、髪型も、習慣も、言葉遣いも生活様式も、ただ上辺だけの“歴史”として分類されたままになってしまう。“物語感”が拭えない。
実際は実際に実在して、わたしの見ているこの地面を歩いたのかも知れないけれど。

思う。

私は偉業を成し遂げて後世に名を残したい訳じゃない。だけど、私が死んだら私のすべてが消えて無くなるというのは、堪らない。私は何かを残したい。何かの印を残したい。少なくとも、「おばあちゃん家の古い土蔵を漁っていたら、昔の人のこんなものが出てきた」くらいには。

そんなことを考える。
私の整えられた窓辺で、現代に生きる私はそんなことを考える。


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