雷 第十九話

不運なのは十兵衛である。
「山師だったのか」
 と疑ってみたところでどうしようもない。清河塾からは完全に人気が消え、十兵衛は捕吏の目を掻い潜って潜伏している。十兵衛はお玉が池から離れて浅草黒船町に戻った。黒船町の観音寺屋が気になっていたからである。
 ところが、その観音寺屋は跡形もなくなっていて、空き家となっていた。十兵衛は慌てた。
「ああ、そこはね若夫婦がやってたんだけどさ、コロリで両方ともあっという間にお陀仏だったよ」
 と、偶さか見かけた女が十兵衛に教えてくれたのである。
「そ、それはいつの事だ」
「さあね、そうそう、大老様があそこで殺されなすった後だったね。この辺もとうとうコロリが来てね、大変だったよ」
 といった。
「墓はどこにあるか分かるか」
「さあね。もうずいぶんと前だったからどこにあるやらわからないね」
 といって、女は立ち去った。十兵衛は両手を震わせて手を合わせると、暫くそこから動かなかった。
 十兵衛の居場所はすでに無くなってしまった。
(江戸を離れるか)
 十兵衛がそう考え始めていた矢先である。
「十兵衛殿ではないか」
 聞き覚えのある声である。
「やはりそうか。吉川です。吉川新八郎」
「お、おお。吉川殿、息災そうで何より」
「どうですか、そこで一杯」
 二人は近くの酒屋に入り、奥の座敷に入った。新八郎は随分と様子を変えた。というのも、髷が講武所結いという、月代の剃りが狭い形の髷に変わっていたからである。
「あれからどうされていたのですか」
 吉川は講武所で連日連夜、剣術などの稽古に明け暮れていただけであるが、十兵衛はこの間、実のところは全くの不毛であった。大老暗殺の場を目撃し、一気に攘夷に傾いたのはよかったが、何せ伝がない。観音寺屋で働きながら身の有様を考えるようになって、一端の志士を気取って清河八郎の所に入ったが、その清河も江戸を去って今はいない。
「結局、何をしていたのだろうか、と思うと何もしていないのだ」
 と、この中年の浪人は少したるんだ体を震わせた。
「境遇がいかんのだ。私と違って、十兵衛殿は生粋の浪人だ。そうなれば、仕官以外に道はない。かといって、すでに御公儀はその屋台骨を喪って、辛うじて他の梁柱で何とかしのいでいるが、これが喩え一柱でも欠ければ、早晩崩れるだろう。そこにもはや意味はない」
「講武所に通っている者が、そのような事を口にしてはいかん」
「いや。これからは我らのように縛られている者は無理だ。だから、十兵衛殿のような自儘に生きられる者こそが、新しい時代を切り開かねばならない。是非、そうしてくれ」
 吉川は頭を下げた。そして懐から
「些少ではあるが」
 といって出したのは数両ほどである。
「これはいかん」
「本来ならば、このような形で渡すのは無礼に当たる。だが、地震の折に何もできなんだ、これは見舞いと思うて受け取ってくれ」
 何度かの押し問答の末、半ば強引にねじ込むように懐にねじ込ませた吉川は、そのまま講武所に戻った。
「もし何かあった時には、講武所を頼ってくだされ」
 と言い残した。十兵衛は下げた頭を上げられなかった。
 年が改まった。
 遠いアメリカでは国内唯一の動乱期であった南北戦争が起こったこの頃、日本はまた改元をする。文久と改めたこの年、日本の動乱はますます混迷を深めていき、闇の迷路を彷徨うようにして、日本中が(幕府も含めて)迷走し始めたのもこの時である。
 その烽火が、またしても暗殺事件であるというのが、混乱の大きさが窺い知れる。
 高輪東禅寺には、イギリス公使館が置かれ、ラザフォード・オールコックが対幕府の折衝窓口として業務をしていた。そこへ水戸の脱藩浪士がオールコック暗殺の為にこの東禅寺を襲撃したのである。理由は、「紅毛人によって神州が穢された」というものである。
 この襲撃で書記官と長崎領事、それと外国奉行による命で警備をしていたものが死傷し、襲撃者も同じく死傷者が出た。幸いにもオールコックは無事であった。そしてここから、怒涛のように暗殺(未遂も含む)事件が起こる。桜田門外と同じように老中安藤信正が襲われる坂下門外の変、さらに横浜生麦村という所で起こった生麦事件である。
 この生麦事件自体は、暗殺が目的ではなく、薩摩島津家の大名行列にイギリス人が騎乗のまま乗り込み、しかも行列の中を割り込むという無礼なふるまい(無論、イギリス人側は分からなかったため、いうなればこれは文化違いによる不幸であるが)によって無礼打ちされた事件であるが、これがきっかけとなって日本における外国人排斥運動は急こう配の山道を全速力で駆け上がるようにして一気に高まっていくのである。
 そうして、発電機のクランクを回すようにして膨れ上がった攘夷熱は、志士階層から一気に町人百姓に至るまで広がっていき、さらに大きな呼び水となって日本全土が攘夷の塊となっていくのである。
 十兵衛もその中にあるのだが、未だに不遇の身の内にある。世間ずれし、自棄になりかけていた。唯一の伝になりかけた虎尾の会もなくなって、どこかに所属するわけでもない十兵衛にとって、自らの境遇と伝聞する動乱との乖離は大きいもので、それがまた自らを惨めにさせてしまうのである。吉川からもらった金もすぐに底をつき、まさしく十兵衛はおみよと知り合う前の野良犬ような生活に戻っていた。
 清河八郎が江戸に戻ってきたのはそういう最中であった。その清河が奇策を作り上げた。
「浪士組??」
 十兵衛はそれを同じ境遇の者から聞いて、最初は分からなかった。要は攘夷であれば誰でもよい、というのである。
「まあ、知りたければ伝通院に行けばいい」
 その者も浪士組に参加するというのである。
「伝通院か」
「どうせ、金がないのだろう。だったら行ったほうがいいぞ」
 悩む必要性はない。むしろ、十兵衛は清河に面と向かって言わねば腹の虫がおさまらないのである。
 小石川伝通院に浪士たちが集まったのが文久三年の二月四日である。集まったのは記録によると二百三十人から三百五十人と幅が広いが、とにかく幕府の考えているよりもはるかに多い浪人たちが一斉に集まったのである。何せ浪人であるから、そのむさくるしさたるや隔絶の感がある。中には博徒のような凶状持ちもいれば、田舎から腕を頼んで出て来た百姓上がりなど、雑多なことこの上なくこの時、取締役筆頭であった松平上総介は即刻辞任を申し出、鵜殿民舞少輔が後任としてついた。無論、この発案者であり一番のある意味では黒幕といえる八郎は表に出てこない。
 十兵衛は清河を探した。会って一言でも言っておかねば気が済まないからである。
 だが、清河には会えず、代わりに偶さか山岡には会った。会うなり、
「私を覚えておいでか」
 と詰め寄った。最初は分からなかった山岡も、すぐに十兵衛と分かるや、
「あの時は済まなかった」
 といって幕臣らしからぬ態度で謝ったのである。
「焼き討ちはやるつもりでいたのだ。だが、伊弁田と樋渡が通訳を殺してしまった事で、公儀の目が厳しくなってな、しかも八郎の奴が」
 といって手刀で首を当てると、
「公儀の役人をこれさ。たまらず逃げたのだ。八郎の代わりに儂が謝る。この通りだ」
「本来ならば、直に清河先生に恨みごとの一つでも言ってやりたかったのですが、貴方様にそこまで頭を下げられるともうどうしようもない。だが、この事はきっと覚えておきますからな」
「分かった。しかるに、おぬしは参加をするのか」
「はい。もう一度、伝通院に行きます」
 再び集められたのは八日で、この日の浪士組の各々のいでたちは勇壮華麗であった。ほんの少し前までいうなれば乞食が刀を差しているのと大して変わらぬほどの出で立ちであった浪士組が、形だけとはいえ一端の武士姿になったのは、浪士組の目的にあった。
 将軍徳川家茂上洛の警護である。
 将軍徳川家茂が、孝明帝に謁見し、攘夷断行を宣誓させるための上洛であり幕府は当時あふれていた浪人たちを江戸から体よく追い出すための措置として、八郎の献策を採用したのである。尤も、八郎は八郎でその真意は洩らさなかったが。
 そういった政治的な駆け引きの上に成り立った、いうなればガラス細工のような存在が浪士組であり、ほんの少しでもその駆け引きが揺らぐだけで地に落ちて粉々になるほどに繊細であった。そしてその中に十兵衛も入っているのである。

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