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甘粕正彦

1891年一1945年 軍人、官僚。宮城県仙台市出身。津中学校、名古屋陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1912年に陸軍士官学校を卒業。朝鮮京畿道楊州憲兵分隊長、千葉県市川憲兵分隊長、東京市渋谷憲兵分隊長を歴任。1923年東京市麹町憲兵分隊長兼任時代、アナーキスト大杉栄らを殺害した容疑で禁錮10年の判決を受ける(甘粕事件)。3年後仮出所し、服部ミネと結婚して渡仏。
 1929年、フランスから帰国後まもなくして4月に渡満。満鉄東亜経済局奉天主任に着任。この後、関東軍特務機関長土肥原賢二大佐のもと、甘粕の母志げの旧姓内藤をもって名づけられた民間の「内藤機関」を設立し、熱河のアヘンの密売に携わったといわれる。1931年の満洲事変に際しては、関東軍に協力して、奉天やハルビンでテロ工作を行ったほか、溥儀の天津脱出工作を主導した。
 満洲国では、1932年3月から7月まで民政部警務司長に着任し、リットン調査団の警護・監視にあたった。さらに、1934年7月には華北から満洲に労働者を派遣する大東公司の発足に尽力し、さらに満洲国通信社理事に就任した。1937年4月には、協和会中央本部総務部長兼企画部長に就任し(1938年8月まで)、満洲国建国の功により勲四等旭日章、満洲国政府から勲二等景雲章が授与された。翌年には、満洲国修好経済使節団の副代表として、ドイツ、イタリア、バチカン、スペイン、ポーランドを歴訪。このとき、ムッソリーニ、フランコとも会談の機会を得た。
 1939年欧州から帰国後、岸信介総務庁次長、武藤富男総務庁弘報処長の尽力により、11月に満洲映画協会(満映)理事に着任。1940年、甘粕の指示のもと、満映は二度にわたる機構改革を行い、職員や俳優の給与改訂、専門スタッフの拡充、日本人映画人の招聘、中国人の監督・脚本家の起用などを実施した。1941年1月、再び協和会中央本部総務部長を兼任するも、4月には審査役に配置換えとなった。
 また、甘粕は、ロシア系のハルビン交響楽団を支援、財団法人となった日系の新京交響楽団理事長としても力を尽くし、1945年には両楽団と、大連・奉天の音楽家を糾合して、朝比奈隆を指揮者とした全満合同交響楽団を発足させた。さらに、1943年11月には社団法人満洲芸文協会会長に就任し、「あらゆる芸文が思想戦の武器として重用視せられる」点を強調し、「愛国の芸文」なる施政方針を強調した。
 しかし、1945年8月20日に新京にて青酸カリにより服毒自殺。墓地は多磨霊園にある。
 なお、「甘粕正彦関係文書」420点が国立国会図書館憲政資料室に所蔵されている。

[参考文献]
太田尚樹「甘粕正彦」(『近現代日本人物史料情報辞典』二、吉川弘文館、2005年)
山口猛『幻のキネマ満映―甘粕正彦と活動屋群像』(平凡社、2006年)
佐野眞一『甘粕正彦乱心の曠野』(新潮社、2008八年)
貴志俊彦「日中戦争期、満洲国の宣伝と芸文―甘粕正彦と武藤富男」(エズ ラ = ヴォーゲル・平野健一郎編『日中戦争期中国の社会と文化』所収、慶応義塾大学出版会、2010年)

—— 二〇世紀満洲歴史事典(貴志俊彦)

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