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国学の幸福 —— 折口信夫

(昭和十八年四月二日、講演筆記。同年四月二十日・五月二十日「国学院大学新聞」第百四十・百四十一号)

 只今は、国学といふ学問の為には幸福な時代になつてゐますが、最近までは国学はそんなに幸福な学問ではなかつた。悪くはなかつたが、そぐはない待遇を受けてゐたのが、幸か不幸か、世間から認められるやうになつた。何時でも、国学が認められる時には世の中の不幸の時が多い。併し、今は幸福な時です。これは国学の為にも幸福です。この幸福が考へ方で、深い我々の心の底から悲しい、激しい憤りの上に立つた幸福である。だから、この時代を過してはならない。それで、あまり幸福であると、いい気持になつて、沢山の国学の本を書いています。私は皆さんの作文を見ましたが、皆さんが「撃ちてしやまむ」といふ標語を延して国学者らしい感想を述べてありますが、この学校の入学試験だからといふ気持で書いたとしたらこれを止めて、常にあゝいふ気持をば書かされたから書いたのではなく、信仰の気持になつて、何時も心に持つてゐて下さい。書いてあつても、心から書いたのかは訣らない。疑ふといふことは良くないが、入学試験の為だから書くと思ふと、情なくなる。本当の心、つまり、本音にして戴きたい。
 世間では国学に関する論文や書物が出てゐますが、国学の伝統を正当に伝へてるのは、この学校より外にない。名前の通り国学院大学です。この他のは何か少しづゝ違つた意味を持つて発達してゐます。また、中途から持つてゐるのもある。他処はどうでも良いが、この学校としては国学一つで生き通して来た。江戸時代からの国学者達の学問を受けて来た人から受け継いでゐる。それで、今の国学の論文を書いた者よりも、我々はまう少し働いても良いと思ふ。貴方々は若いから、どうも、若い中に書いた方が良いといふので早く世の中にとび出す者が多いが、元気にまかせてとび出してはいかぬ。三年なり四年なり二年なりの時期は、自分の心を昂める時期ですから、その間は歯を喰ひしばつても学問をしなければならぬ。あわて者を日本の思想界は望んでゐない。それで昨日から、いや今日から貴方々は、国学者の一人としての資格を持つて戴きたい。我々は割合、国学の伝統を掲げて世間の人を指導するといふ運動をしてゐません。幾分我々自身、呑気である気がしますが、本当はまう少し、世の中の様子を見つめてゐなければならないのか。
 国学を話すには、神武天皇の御代から話して良いと思ふ。神武天皇の御代は橿原の御代です。明治二十年頃まで生きてをられた伊予の国の学者、国学の大先輩、矢野玄道先生の晩年になつて作られた歌があります。

  橿原の御代に帰ると思ひしはあらぬ夢にてありけるものを

 この歌を、私が思ひ出したり、しやべつたりすると、悲しい気持になつて来ます。貴方々にも感ぜられるかも知れません。幕末に国学者が働いて明治維新の大業が成り上つた。これは外側の為事として申しますが、その為事の片方を国学者が担いで居つた。国学者が片方の大きな部分を働いたが、明治の年代が進んで来るにつれて、国学者は用ゐられなくなつた。国学が用あられない事は悲しんでゐないが、国学者が自分達の学問の理想が用ゐられない。政治の上に現れて来ない事を非常に悲しんだのです。国学の先輩が血を呑んで、血を絞った、国学者の気概、学問が新生の気概に与る事が出来なかつた。
 新しい文化に国学が入らないのは悲しい事で、学者の学問の祖先に対して済まないといふ気になつたに違ひない。そこで、それを憂へ、改めようとした。それを歌に書き文に書き、それをまた、実行しようとしてゐる人もある。矢野玄道先生は、昼、提灯を持つて歩かれた。これは世の中の人を自覚させようといふ気であった。併し、世の人は玄道先生を気違ひだと思つてゐたが、先生が気違ひならこんな立派な歌は出来ない。先生は世の中を覚醒せられようとしたのを、世の中の人が受け入れなかったのです。後に、珍しがられようとして、提灯をつるのは良くありません。貴方々にはこの風はいけないといふ風に考へて戴きたい。併し矢野玄道先生の場合には意味がある。世の中の人の目を覚させたい。提灯の光を象徴として、一種のしんぼるとしたのです。しんぼるといふ言葉は、日本語によく感じられません
 だん/˝\世の中が進んで来て、文化が開けて来たが、矢野玄道はじめその他の人には、不平でしやうがなかつた。何が不平だつたかといふと、矢野玄道先生等は、神武天皇の御代と同じ御代になると思つてゐた。併し、明治の社会は一寸見た所、西洋の社会を直に移して来たやうに見えた。西洋の社会をこちらに持つて来たやうな結果になつた、それが残念でしやうがなかったのです。政治家が西洋の社会を持つて来た事になつてしまつたので、非常にくやしがつてゐます。矢野玄道先生は、明治二十年頃、即、私等が生れて三箇月ばかり後に死んでをられます。私はこの国学と如何に縁が薄いかゞ訣る。明治二十年といふと、まだ純粋な日本式な考へをば、取り戻さなかつた時代です。だから、苦しみ残念がつて往かれた矢野先生がさういふ歌を作られたといふ事は、橿原の御代が黄金時代で、そこに其儘帰るだらうといふ事ではない。「撃ちてしやまむ」といふやうな歌が、あちこちでまだ聞かれてゐるその時代の神武天皇の御代は、何と申しても今から二千六百年の昔の事で、その世の中に帰る気遣ひはない。矢野玄道先生は、その事を言つてをられたのではありません。何を考へて左様な事を申されたか。一つは、明治時代のあまりに情ない西洋の文化に酔うてをつた時代だつた、その反感を寵めて歌った。まう一つは、橿原の御代は、日本人が考へてゐる最も純潔な、清潔な御代です。それが橿原の御代を対照として、こゝに新しい清純な橿原の御代が復興する。文芸復興とは必しも文学復興・文芸復興ではなく、世の中が行きつまつた時に古代の美しい文学・芸術を見て、それから新しい反省を以て、そこに美しい世の中を築きあげようとする、これが文芸復興です。この歌も、橿原の御代の純粋な御代に帰さうとしてゐるのです。世の中の人の心もあまりに複雑になつてゐる、そこに、橿原の御代を顧みて、日本の文芸が復興する。橿原の御代をたてようとした国学者の理想は、それであつた。純粋な所に戻るといふ事です。つまり、日本における、もつと意味の深い文芸復興です。ところが、それを思つてゐて蓋を開けて見ると、さうではなかつた。これは世の中が悪かつたばかりではなく、自分等の過ちです。私は国学者の考へてるた最後の目的は、純枠帰一であると思ひます。純粋な所の元に帰つてしまふ、これが国学者の理想の極点でせう。
 それで、今の世の中を考へて見ますと、貴方々の中、今年入られた方は若いから、世の中の観察が行き届いてゐる筈がありませんが、この四・五年の中に、どれだけ変って来たかは、ほゞ、お気付きでせう。四・五年前の人は、到底今の事を考へる事も出来なかつたが、このやうに変つてしまつた。今の世の中が一番に良い事は、つまらない複雑を捨てゝ単純な気持に帰らう、純粋に戻らうとしてゐる。国学者の昔から持つてゐた理想を、世の中全体が持つやうになった。国学の理想の実現することを、世の中で考へられて来た。つまり、国学が世の中で顧みられるやうになつて来た事になる。若し、国学者が優れた鋭敏な感覚を持つてゐたら、一番先にこの世の中の人の欲してゐるものを摑み出す事が出来ます。
 文学者は何が偉いかといふと、偉いと思はぬ人も多いでせうが、私等もその中には偉くないと思ふ人もありますが、全体からして偉い所は、世間の人が考へるより前に、世の中の事を感じる思想上の問題を持つてゐる事です。世の中の複雑な中から、世の中が何を望んでゐるかを感ずる。それを筆を持つて書いてゐると、その筆にのつて現れて来る。文学を読んで、何に益を受けるかといふと、恋愛や探偵の小説ではない。つまり、今世の中がどうなつて行かうとするか、どうなりたいとなつて行つてゐるか、何を欲してゐるか、どうなつて行かうとするか、さういふ事を小説を通して感じさせて貰ふ。あまり偉い人がゐると、あまり先が見えすいて危険です。隠居してをれと言つて退けられる。優れた文学者を持つ事は、その時代の人の幸福です。その時代の人は、この文学者の為に良く訣り、初めて覚るのです。これがなかったら、文学の第一の価値を失つてしまひます。それが小説や戯曲の一番大切な所です。純文学に志しても、これのない文学は、お止しになつた方がよろしいでせう。これがないと遊戯になります。四十年位の経歴を持つて、今になつて初めて訣るのですから遅いですが、誰でもかうでせう。これがなければ文壇はなくとも良い。本当の文学をば書く、といふ心掛けを持つのが大切だと思ひます。
 左様な訣で、我々は文学者がさうする人ですから、国学者の場合も、やはりこれと似てゐて、かういふ場合には文学者に任せておけない、世の中の人が煩悶し、問題にしてゐるものを、摑まねばなりません。国学者自身が須悶して世の中の思うてゐる事を、文学者が文学を以て摑み出したやうに、さうして、古典の研究の知識の貯へと自分の心の中にある精神力と、それが現代において調和した時、文学者が文学を通して国民の上に現れて来る問題を教へるのと同じゃうに、我々は古典の教養を積んで、それを自分の心の動きの上に持つて居つて判断して行く。精神的な学問は、どれでも皆さうです。自分が教養として持つてゐる知識を、自分の情熱の上に高めて置いて、これに知識が加ると、正当な判断が出来る。また、我々の民族がどういふ事を望んでゐるか、どういふ事をしなければならぬか、何を求め、何を問題としてゐるかといふ事を知り、またこれをする事が出来るのです。
 国学の目的の対象は古典の研究である。国学の目的が古典ではないが、最初は古典です。今、国学の目的を述べて見たい。それにはこの古典から話しませう。
 国学の系統の中で、一人名高い坊さんがありませう。釈契沖といふ方です。併し国学の四大人と申しますと、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤以上の四人を歴史上の国学の代表者、国学の四大人と言つてます。契沖はこの処、国学者に入つてゐませんが、国学を只の知識として見ると、確かに入つてゐる人で、彼は国学を始めた人と言つてもよい。立派に国学者の中に入つて、国学の創始者です。だから我々の友人でも、契沖を国学の創始者・国学の大先輩と言つてゐる人もあります。これは国学を、単なる知識で言ふと立派な人ですが、国学院大学を生きた証拠としてとりあげると入つて来ない。国学院の他処と違ふ所は、正門を入つて神殿がある。国学院神社がたつてゐます。何故契沖を国学者、国学の四大人の中に入れなかつたのかといふと、国学者は神主が多いから坊さんは軽蔑するのだらうと言ふ、そんな根性の小さいものではありません。契沖の学問には感謝はしているが、契沖の学問は単なる学問・単なる知識である。併し契沖は偉い人ですから、その中には日本を愛するといふ所はありますが、日本を愛するといふ事は日本人として当り前です。それがなかつたら日本人として優れた人ではない。契沖は優れた人だから勿論、日本を愛する心がありました。それだけで言へば、四大人の外にも優れた人が沢山ありますが、これは別のことです。つまり契沖の時代には、研究の目的が歌にあつた。古代の歌を含んだ文を完全に正しく、解釈出来るやうにする事が中心の目的であった。立派な事は沢山出来ましたが、それは歌学の研究としては、進む所まで進まれた。学者として契沖より偉い人は、さう多くはありません。現代の万葉集研究者の言つてゐる事でさへ、既に万葉代匠記に書いてある事が多い。契沖は非常に偉い人ですが、それだけでは国学者ではありません。国学の大先輩とは言へません。
 一口に言ひますと、国学に対して後に出て来ました倭学といふものがありますが、この倭学者の大家です。契沖が日本の土台を大きく強く、固く立てゝ置いたから、同時代の人及びその後の人が大きな恩恵を受けてゐます。学問上の偉い人の為事は、後世の人が無駄をしない様に、そこから出発する様に、高い土台・出発点を後の者に据ゑ置くといふ事で、契沖はその点非常に偉い人です。坊さんですから、印度の言語学—悉曇学—に通じてゐますから、この契沖の研究態度が非常に立派なものでありました。これが後世の人々に影響を与へて、語学・国語学が盛んになりました。だから国語学が国学だといふ様にも見えます。国語学の大事な事は、思想は思想として使はれるものではありません。思想は必ず言語と文字との間に入つて伝へられて行くものであります。後人にも言語によつて継承されます。言語がなくては伝りません。日本の古代語を研究するのに、国語の学問—国語学が重大だといふ事が知れます。これを国学がしたといふ傾きはありませんが、この国語学を通して更に新しいものが出て来なければなりません。
 日本の古い事を研究するには、古代から伝つてゐる故実とか、儀式を知らねばなりません。お祭をするにも、儀式の知識が必要です。これを調べるといふ事が古代の事を顧みる機会になります。荷田在満は宮廷で、天子様御一代に一度行はれる大嘗祭について立派な調べをしましたが、それが自分の身に災ひを及し、その為に公卿達が江戸幕府に気兼ねをしましたので、荷田在満は為事を止めなければならなくなりました。荷田家の学問にはそれだけ骨がある。この骨が大事なので、前に私は、国学は気概の学問だと申しました。これが国学の著しい傾向です。国学はその方面からいふと気概の学といふ事になる。契沖から荷田在満を通して出て来、それからだん/˝\世の中が進んで参りますと、漢学者が支那風の政治の術、或は経済の学によつて、諸国の大名を支へたのです。江戸時代の大名の疲弊を救ふ為に、政治経済の学問に通達した民間の学者を招き、これをひき抜いて用ゐ、整理して貰ふといふ事が盛んになつた。そこへ国学者が国学を以て政治をし、広い意味の経済をして、世の中を国学者が治めて行かねばならぬとしました。一口に言ふと、国学者は経済学者の様になりました。そして国学者の眼界が広くなつて来、国学者の学問は必ず活動し、実行に移さなければならぬ目的を持つて居たのですから、目的が大切で、目的を持つてゐない国学者があると軽蔑せられました。家に居つて歌ばかりを詠んで、歌を以て女や隠居の相手をしてゐた人達は軽蔑せられ、その様にして国学は目的をはつきりしてゐました。始めは平安朝・奈良朝、或はそれ以前の書き物を研究するものから、歌を詠み、語学を研究し、それが有職故実・儀式、又政治経済の方向に出て来て拡つて来たのですがか、政治経済に出て来たのにも、どういふ風にして世の中を救うて行くのか、これは昔の政治と今の政治とは違ふ所です。政治経済は世の中の民を救ふ事が理想ですから、後世の理想よりは、もつと倫理の感情を基礎としてゐる。この点では、真似ではありませんが、支那の儒者の学問と同じ事です。この民族をどうして救はうかといふ事になつて来ますと、それには道徳といふ事が考へられ、これが大切になつて来る。そこで国学といふものが到達すべき所に到つて来ました。
 日本を救ふには日本の倫理道徳でなければならぬと考へる様になつて来ました。かうして考へると、国学の四大人と言はれる荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤、かういふ方々の学問にはかういふ道徳を目的として、これを摑まへようとせられた事がはつきりしてゐます。
 同じ時代でも、他の国学の薄い色合ひの人を見ると道徳感情が薄い。契沖を国学者であるかどうかを見るには、日本的な道徳感情が深いか浅いかであつて、それの研究を主としてゐるかゐないかといふ事になり、国学が進めば日本の古代道徳の研究に入つて来る。これのない日本の国学はありません。ですけれども、その道徳感情は常の場合と事のある場合とは違ふ。貴方々の内には、例へば予科にお入りになつた方は、大学部へ入つたら国文学を、或は国史学を、或は国民道徳を研究しよう、或は哲学、倫理と国史と文学とを研究しようと言ふ考へを持つてゐる方があるでせうが、これだけでは国学は足りません。日本倫理と国史と国文学との、倫理と歴史と文学とを研究し、結合し、それを綜合した上に、自分たちの学問を築いて行かねばならない。それだけの努力を積まねばならぬ学問です。いきなり、歴史だけ、文学だけ、倫理だけをしたいと、狭く目的を極めては本当のものにはならぬ。国学を研究する、国学を行ふ為の方法が、それでは具はらないのです。国学院の国史・国文学・道義は、単なる国史・国文学・道義ではない。それらを経た上でこゝに抜き出す、これが国史風なら国史を研究した事になり、国文学式だったら国文学を研究した事になり、道義・日本倫理式だつたら倫理科といふ事になります。
 歴史ばかり、国文ばかりするのでは国学者としての国史・歴史倫理ではない。これまでの国学者が綜合して、そこから自分の学説を出してゐます。本居宣長を考へて見ればよろしい。本居宣長は或点から言ふと国語学者でもあるし、或点は国史学者・倫理学者であるし、見方によつては歴史家の様でもあります。では八百屋みたいかと言ふとさうではなくして、一貫した道がある。だから国文科へ入つたから国文をしなければならぬとか、国史科だから国史だけに関する卒業論文を書かねばならぬといふことはないと思ひます。それ位、眼界を広くすることを望みます。
 我々が忘れてならないのは、「国学は常に或情熱を持つて生み直しをする」といふ事です。知識を情熱で運用する。それは日本式の倫理観・道徳観から出た情熱にょって運用せられる古代に関する知識でなくてはならない。古代といふのは、もつと最近までさがつて来てもよい、近世、即江戸時代でも、平安・鎌倉に持つて来てもよいのです。それを通して我々の精神のもとを識るのであります。
 世の中が閑かで、我々の情熱の鎮まつてゐる時は、国学の目的も静かです。その目的対象となるのは神道であつて、神道研究のために国学があると言つてよい。ところが今のやうな時代になると、国学は何を目的としてゐるかと言ひますと、単なる神道ではなくなつて来るのです。
 日本人の持つ信仰といふものが問題の対象となつて来、道徳慣習によつて国学がきまる、その国学が、かやうな世の中の一旦緩急あればといふ民族の働きの激しい秋は、どうすればよいか。一ロで言ふと、信仰といふことに基を据ゑます。つまり国学は、三つに分けられようと思ひます。

  一、知識的で静止してゐる学問。
  二、学問は知識でなければならないが、常に情熱の上に載ってゐる学問。謂はゞ実行を持つてゐる学問。

 窮極の目的は信仰といふことになつて来る。つまり国学は、静止した知識だけでは足りない。一つの活動要素をへてゐるのです。情熱を持つた学問でなければならぬ。信仰的な学問なのです。

  三、もう一つは、活動的実践的学問。

 国学は知識に加ふるに情熱を以てする。つまり今は、倫理的な感情の発動によつて活動しなければならぬ時機になつて来てゐます。いつも多少、働いてゐなければならぬものでありますが、殊に時が来ると活動しなければならない。国学院でしてゐる国学は、常の状態と、かやうな世の場合とでは違ひます。つまり情熱がなければならぬ。信仰がなければならぬ。併しながら信仰といふと、とかく世の人は迷信と軽く並べてゐるやうに見えます。
 神道家の信仰といふと宗派神道と思はれますが、それらの宗教家信仰家の目的は、自分の信仰を深めよう、神仏に対する情熱を深めようとするのです。それを導くものとかその対象が間違ってるる時、その信仰は誤ったものとなります。我々は常の場合には、割合に信仰を忘れがちですが、かやうな時世には、まう一度信仰を考へて見なければならない。
 昔から日本は行きづまつて来ると、これを突破しようといふことが起ります。霊異——近頃の言葉で奇蹟が現れる、その奇蹟の幾つかの場合が浮んで来ませう。現に最近、一年たつかたゝぬ中に我々は見てゐます。初めて心の底に恐らく信仰が目覚めて来たと思ふ。これを当り前だといふのはいけません。驚くべきものは驚き、感謝すべきものには感謝せねばならぬ。我々の努力といふものは、想つた通りの結果をもたらす場合もあるし、もたらさない時もあります。それ以外に思はぬ結果が現れた時、奇蹟が現れたと言ふべきでせう。日本の歴史は奇蹟を信じて、生活を一層進めて行くものと考へられ、日本人が今まで伸びて発達して来たのは、強い信仰の心が、行き詰った時、日本人に力をかしてゐるのです。我々は今、信仰が一番必要であります。その信仰は国学者が考へると、正しい意義を発生し、発揮して来、宗教家の考へる信仰とは別であります。かうして我々が、沢山の国学の先輩の学問を継いで来たのが、かやうな秋になつて役立ち、世の中の訣らないことを解決するのです。貴方々自身、まづ日本の道徳的な生活が深い信仰を持つた事、その信仰が奇蹟を持つに到ることを考へねばなりません。国家がさやうな奇蹟を産むやうに導いて行く、かやうな有事の際は、平時とは変つた形で導いて行くのであります。


底本:折口信夫全集 20(1996年10月10日初版発行、中央公論社)

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