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ICUのひとびと

(前回からのつづき)

入院の際にはスマホの充電器は忘れずに


ICU滞在は5泊6日だった(急性心筋梗塞で治療を受けました)。3日目くらいに副師長のウチダさんから「そろそろ出来ることは自分でやってもらいますから」と言われる。看護師さんからも「一般病棟に移られた患者さんから、なんか放っておかれたような気持ちになるという話は聞きますね」とも。

いくつか闘病記を読んだりもしてきたから想像はできるんだけど、実際ICUから一般病棟に移った二日間ほどは、ああ、とタメ息。ICUに戻りたいなあ、ともおもった。竜宮城を出た浦島太郎が頭に浮かんだ。

酸素吸入の管を鼻につけ、どうなるんやろう?    滞在中は、無精髭が伸び、如何にも病人という我が身に不安いっぱいではあったが、びっくりするくらいテキパキと立ち働く看護師さんたちを見ていて人生観がぐらぐらした(なんで助ける側の看護師さんたちが、何か処置をするたび「ありがとうございます」と言ってくれるのか?)。

利き腕が点滴でつかえず、食事の度に器をくるんだラップをはがしてもらうという些細なことにすら、いちいち感激したりしていた。王様みたいだった。と、一般病棟に移って、フットワークの軽やかな理学療法士のイシイさんに、リハビリ受診中に言うと、「そりゃそうですよ」と返される。「あそこは一人の患者さんに数人がかり。一般病棟は何人もの患者さんを一人が受け持ちますからねえ」と一笑されてしまった。
つまり、回復するというのは、ひとりで出来ることは自分でする「日常」に戻るということ。そう言えば、竜宮城ではハミガキセットも毎食後にベッドまでもってきてもらっていた。一般病棟では、あ、歯磨きだ、と腰をあげるまで、つい待っている間があった。わずか5日くらいの間の上げ膳据え膳で、すっかり、かまってちゃんになっていたんだろう。甘えん坊体質、恐るべし。

ICU二日目(木曜日)
午前中に、大きな病室から同じICU内の小部屋に移動する。何人もの人が立ち回れる、緊急性の高い患者のための大部屋だから、快復しつつある患者をいつまでも置いておくわけにはいかない。そういう事情を理解していなかったので、あのう、ここでいいですけど、と口にしていた。告げに来た看護師長さんはやさしいひとで、ソフトに次に入ってこられる人に空けたかったんだと言葉の意味を察したのは、結構のちのちのこと。いつもながら、おバカでした。

リハビリは、救急搬送とカテーテル治療の翌日から早速開始。担当のイシイさんは理学療法士として働きはじめて10年目(作業療法士の資格も取得されいて、勉強熱心なひと)。声が高音で明るい。看護師さんから「明日からリハビリをします。食事はそのあとになります」と聞かされ、結局、入院当日は一食もとらずじまい(食欲もなかった)。リハビリといわれ、ストレッチや歩行訓練を想像していたが、まったく違っていた。

まずベッドを寝た姿勢から90度起こし、心臓の負担を計測するというもの。心電図は24時間付けた状態で、リハビリ前と後で血圧などの変化を計ったりした。寝た状態から起こしていくことにより「心臓に負荷をかける」と説明されたが、自分では何もしないまま、えっ、これだけ、というくらいあっけないものだった。

翌日は、ベッドからそろりそろりと降り、立ちあがる。体重計に乗る。車椅子に座る。二日目もここまで。「胸が苦しくないですか?」。ダイジョブですというと「ああ、いいですねえ」とイシイさん。ふらついたりすることがあるので、ゆっくりゆっくりでいいからと言われる。立てば、このまま歩けそうだとおもうのだが、それは先の課題だった。

これはあとになって気づくのだが、心臓治療をした直後は血圧が低下し、点滴の薬で上げようとしていたらしい。2時間おきに体温と血圧を看護師さんが計りに来られるんだけど、最高血圧が80台。どうにも90台にいかない。看護師さんから「苦しくないですか」聞かれるたび、あ、全然と答えていた。
困っていたのは、点滴を右の肘からしていたため、利き腕が曲げられなかったことだった。左手で、スプーンとフォークをつかわざるをえない(箸は論外)。見かねた看護師さんたちから「左手だと大変ですよね」と食器を覆っているラップをはがしてもらう。しかし、そこから先、左手で焼き魚をフォークやスプーンでほぐしたりするのは自力。はいアーン、なんてことはない。してもらっても困るけど。最初はボロボロ落としていたけれど、まあ、ニンゲン何事も慣れで、「上手くなりましたね」といってもらう。

食事でいうと「一日6g」までという減塩食のため、どれも味がしないのがキツかった。ホウレン草のおひたしが頻繁に登場するのだが、醤油を探す。ない。あらためて、醤油、塩の偉大さを痛感する。おかげで退院後しばらく、ホウレン草は食べる気がしなかった。

それでなくとも食欲がなく、一日ベッドに寝てじっとしているものだからお腹は空かないし、煮物以外はどれも超薄味で、いっこうに食欲がわいてこない。毎食出される半分を食べるのがやっとだ。こういう減塩食が退院後もつづくのかとおもうと、気持ちがへこむ。ただ、たまにオムレツにケチャップの小袋や、冷奴に醤油のミニパックが添えられていることがあり、白い豆腐の上に数滴垂らすだけで、おお、美味しいと感じる。この醤油の残りを保存して、チマチマ、ホウレン草のおひたしにかけられたらなあと考えたりもした。

二日目の夜の担当さんは、男性看護師のホソヤさん。昼は二人体制だったのが、夜は一人になる(夜は本当に静かだった)。ちょっとひょうきんなひとで、採血中に「あ、しまった」。小声が耳に入る。
うっ!? シマッタって、、、
ドキリ。
枕に採血の血をこぼしてしまったそうで、シマッタというわりにまったく慌てた様子もない。ホッ。
もう一人の男性さん(担当外)が、「おにぎりのほうがいいですよね」とごはんのお椀を下げ、ラップに包んで握ってきてくれる。これが泣けそうになるくらい嬉しかった。そんなことで?と自分でも驚くくらい感動のレベルが違っている。

不眠をいうと、ホソヤさんから「睡眠薬を出しましょうか」と言われるが、いままで一度も飲んだことがないので、と躊躇。結果、この夜もほぼ眠れず、明け方にウトウトしたくらい。背中が張って痛かった(右手に点滴の管をつけていて「動かさないで」といわれ、寝返りをうった拍子に抜けちゃうんじゃないかと不安もあった)のと、やはり初めて尽くしが大きかったんだろう。ふだんはどんな状況でも、呆れられるくらい横になったら瞬時に寝入ってしまうのだけど。

三日目(金曜日)
昼の看護師さんはヤナギダテさんとウチクラさん。 ヤナギダテさんも髪をお団子にしているけれど、髪飾りで止めている。左手でスプーンを使っていると、「おにぎりの方がいいですよねえ。献立の人に連絡しておきます」と言ってくれる。この日あたりから血圧を計るのが左腕から右腕になって変わる(左では90にいかなかったのが、右だと90台になる)。のちに、そういうのはおかしいと、ひとりの看護師さんが一人言のようにいうのを聞いて、そうだよなあ。よくわからないから、あいまいにうなづく。

そういえば、ヤナギダテさんいわく、注射を痛がっていたわたしの声が聴こえていたそうだ。「痛いですものねえ」ちょっとオネエサン的なソフトな声のひとで、我ながら大のオトナが、と恥じいる。注射といえば子供のころに逃げようとして、かかりつけ医の先生を足蹴りし「針が折れたら死ぬぞ」と叱られ、固まったことがあった。話すと、笑われた。

注射は痛いのに、どうして鍼灸の針は痛みを感じないのか。不思議だというと「それは痛点があるから」だと説明してもらう。注射の針は太いため、痛点に当たる。ただし、それは一時のもので、点滴の針を挿したままでも痛みを感じなくなるのは、そうした理由からだそう。勉強になる。

担当二度目のウチクラさんと昼近くになるとお二人で身体をタオルで拭いていただくのだが、管のついたチンチンのまわりも泡立てた石鹸で洗われる。緊張する。万一にも反応したりするとどうしよう。カテーテルの手術中の下痢腹に匹敵する悩みだった。意識してはならない。おもうほどカジョウに意識が下半身に集中してしまう。

三日目ともなるといくぶんICUでのリズムが掴めてくる。検温、血圧と心電図。採血。間にレントゲン撮影。これらをローテーションのようにベッドにいながら受ける。点滴とパックにたまった尿の取り換え。はじめの違和感はなくなり、ハイペースで排尿しているらしく、すぐ満杯になる。取り替えが終わるたび、すみません、ありがとうございますと言うと、「ありがとうございます」と返ってくる。看護師みなさんがそうだった。
そうそう。まいったのは、スマホの電池が切れようとしたことだ。エコバッグに充電器が入っていると思うんですけどと探してもらうも、「お預かりしているリストにはないですね」。
どうして?
コンセントから抜いて入れたと思いこんでいたが、、、おぼろげにエコバッグから取り出し、ベッドに放り投げている場面が浮かんでくる。なんで?  一日二日で帰るつもりだったのだろう。やむを得ずSさんにメールして、取って来てきてもらえませんかとお願いする。
充電器に関しては、夜の担当のオオサワさんから「アイホンだったらお貸しできるんですけど」といわれる。ショートヘアで、クールで素っ気なそうひとに見えたが、充電器のレンタルがあればいいなあと話すと、病院内ではほぼアイホン使用になっているとか。食事についてきた醤油の小袋に気づいて「片手じゃ、大変ですよね」と封を切ってくれる。天使だ。
二日続けての不眠と腰痛に根負けし、睡眠薬を頼んでみる。26時を過ぎたころに眠りにつけた。強い薬ではないらしく、点滴の交換に深夜に来られると目が覚めたりした。

四日目(土曜日)
お昼の看護師はカミジさん。元訪問看護師だったそう。入院以来ずっと出なかったトイレをお願いする(これまでも旅行中、帰る日まで出ないことはよくあった)。ベッドに寝たまま、ポータブル便器を下に敷いてするという説明を聞いて、抵抗はあったけど、4日もとなるとそうも言ってられない。赤ん坊にもどった気持ちになってトライする。

「力を入れないでくださいね。心臓に負担がかかるといけないので。終わったら呼んでください」と部屋を出ていかれる。緊張する。力が入りそうになる。すこし軟便。ナースコール。お尻を拭っていただく。心境フクザツ。また晩年の父のことを思い浮かべる。

訪問看護の経験者というので、カミジさんに訪問看護のドキュメンタリーの話をする。(スマホにメモをはじめたのはこの日からになる)。訪問看護からICUを希望して移ってきたのは「多様な経験を積みたい」というのが動機だとか。訪問看護の現場では仕事の内容が限られる。いっぽうICUは様々な症例に対応しないといけない。より大変さは増すとおもうのだが、彼女に限らず、この向上心はどこから出てくるのだろうか。

訪問看護のときには、鍵の場所を聞いていて入ることもまれではなかったとか。しかも、ほとんどが1人体制で、保険料負担のことが関係しているという。
カミジさんに、以前ドキュメンタリー映画にとりあげられ、インタビューしたことのある、80歳の元東大の外科医が高齢者を対象の訪問診療医として、看護士を助手席に乗せランドクルーザーを運転して往診する話をする。

お昼前に充電器をSさんが届けてくれる。ありがたい。「いいお友達ですよね」といわれ、そう思う。面会はできないので、受け渡しだけ。

夜の看護師はナカエさん。口数少なくしっかりものを言うひとで、ショートカットの髪型の面影が卓球の石川佳純さんに似ている。
入院当初から「テレビは見ないんですか?」と看護師さんたちに問われ、そのつどラジオをかけてくださいと頼んできた。「ラジオなんですね」とめずらしがられてきたが、ナカエさんは「わたしはテレビは見ないです」という。「わたしは」が唐突で、面白い(ふつうこの場面、も、じゃないかな)。「人との距離感が難しくて」と言っていた転職してカメラマンになったYさんが頭に浮かぶ。点滴交換が終わったタイミングで、「いまの仕事の前に何かしてました?」と聞いてみる。学校を卒業してすぐに看護師になったという。
バイトとかは?
「バイトはしてました。居酒屋とか。一番長かったのがモスです」高校生のときには甲子園に行くのにクロネコの仕分けのバイトもしていたという。
「1リットルの飲料水の梱包を持ち上げていました」という彼女の腕を見ると、めちゃ細い。「青アザ、いっぱいできましたよお」おかげで同じ時給がよかったらしい。フェリーで甲子園まで向かったのは新幹線より安かったからだという。「同じフェリーに同級生が家族で乗っていて。その子がバイキングのパンをパッキンに入れていたのをよく覚えています」
わざわざ応援しに行ったのは、他校の選手。「そのあと、つきあったんですよ。すごいと思いません?」
ええ、思います(笑)。ジミできまじめなひとに見えていたけど、けっこうな行動力だ。その後、遠距離恋愛の末に失恋したのだとか。

「でも、いい人だったんですよ。社会人でいまも野球しています。野球だけのひとだったから」と悪く言わないのが印象にのこった。しかしなんでまたICUで、孫くらいの子の恋話を聞いているのか。ずいぶん前だけど、ある作家さんをルポしていたときに、「どんな相手でも会って話を聞けば短編のひとつを書く自信があるからさあ」と豪語していたのを思い出す。彼ならきっと短編のひとつやふたつは書き上げてここを出ていくんだろうなあ。
後日、妻に、病室ですることもないから看護師さんたちから聞いたことをメモしているとメールを送ると、「取材する仕事をしていると話しているならいいけど、あまり個人情報に入り込みすぎるとヘンなひとに思われかねないから気をつけたほうがいいよ」と注意をうける。まあ、そうか。くわえて「アサヤマさんは相変わらず自分ジブンの人だね。こういうときでもジブンを認識されたいんだね」とツッコマれる。胸元の直球にヒヤッとする。

わたしはインタビューを職業にしているとはいえ、仕事以外の場で会話するのは苦手だ。例外はタクシーの中。密室で黙っているのが耐えられず、どうでもよさそうなことを聞いていたりする。だけど病室、とくにICUという場所にいると現実逃避というか、病気とは関係のない話が聞けるのはすごくうれしいことだった。
初日に隣室になった、宿直医だと思い込んだタカハシさんが、わたしが誤解するくらい、あの頃はああだったこうだったとさかんにしゃべっていたのも、すこしわかりかけてきた。すごいなあと感心した。あの看護師さん、タカハシさんの話に絶妙の相槌をうっていたものなあ。

深夜22時過ぎ、とつぜん、あわただしくなる。救急の患者さん?    看護師さんが電話している声。医師らしい人たちが駆けつけてくる。ひとり、ふたり。足音で医師だと見当つけたけど、早足ではあっても、小走りにはならない。どんどん、ひとが増える。
すこしだけ開けてもらっていたカーテンも「ご家族が来られるので」とシャッと閉められる。ICUは家族の面会も禁止と聞かされていたので、大変な事態なんだろう。
消灯後の10時くらいにと頼んでおいた睡眠薬をナカエさんが、11時過ぎくらいになって「放っておいてすみません」と持って来られる。物音からそれどころじゃないのはわかっていたし、大変な状態の人がいるというのを知ることで、自分の置かれた状況を対比的に把握できもした。
薬が効いたのか、静かになった頃にウトウトしかける。

ヤンキーの巣窟に拉致される夢?
さらに、大量の水木しげるの漫画をこっそり運び出す夢をみた。

明け方になって点滴の交換の際、助かったんですか?と聞くと「大丈夫でした。聴こえてました?」といわれるが、詳しくは教えてもらえなかった。個人情報の管理はしっかりしていた。前夜のあわただしさは、看護師さんの動きからは消えていた。

印象深いといえば、副師長のウチダさんだ。担当外で全般を見るひとらしい。おにぎりを握ってくれた人で、「できるだけ快適にすごしてほしいですからね」と柔らかい口調の42歳男子。名札をのぞき込むと「ここのICUに男性は4人いますが、いちばん輝いているのがわたしです」と自己紹介される。笑った。勤続20年。そのうちK病院には15年(ICUは11年)。
車椅子を使ってトイレに行くことにトライすることとなったときに手助けしてもらったのがこのウチダさんだった。ベッドから降りて車椅子に乗り、後ろから押してもらう。わずかな距離ながら、これがなかなか大変なことなんだとはわかった。そう言うと、
「退院されたら、ヘレン・ケラーを読んでみてください」と車椅子を押しなかまらすすめられる。ヘレン・ケラーって看護の人でしたっけ? 
「それはナイチンゲールです。盲目で耳も聞こえないのに、水という言葉を覚えていく場面が感動的なんですよね」と体験することの大切さを教えられる。

ウチダさんは、TOKIOの松岡くんがドラマをやっていた頃に看護師になったそうで「当時男性は珍しく、職場の上の人はどう扱っていいか戸惑ったろうとおもう」という。他人の目で、自分を語るところが面白い。
将来を考えていまの仕事を決められたそうで「この仕事は好きですよ」という彼に、看護師のほかにもやりたいとおもったものを聞いてみた。
「将来、犬の泊まれる温泉旅館をしたいですね」即答だった。
温泉旅館ですか?
「温泉でなくとも、那須あたりで。東京から車で3時間で行ける。犬にとってはそれが限界かなと」
基準は犬なんですか?
「いや猫でもいいんですけど。よくペットと泊まれると言いながら、スペースは別だったりするでしょう。そういうのではない、ベッタリいられる。それにはホテルでなく、旅館かなあと。あと、この仕事は、年齢的に現場に立てるのは限られいますから」
ウチダさんは現場にいたい人なのだ。旅館の特色づけとして看護師をしていたのを看板にするのはいいかもと言うと、それはないですね。「昔、あの人なんかやっていそうだなと言われるくらいがちょうどいいかなあ」だって。

ウチダさんは将来、このひとをスカウトしたいなとか思いながら、後輩の看護師の仕事ぶりを見ていたりするという。そうか。だから、担当でもないのに、おにぎりを握ってくれたのか。背後で看護師さんがクスクス笑う声が耳に入る。
「ホスピタリティーでは通じているのと、シーツの取り替えとか、することも似ていそうだし。とっさの対応には自信があるし」とウチダさん。具体的に資金のこととか考えているという。温泉旅館、何年先か知らないが行ってみたい。「おにぎりのひと」から、わたしの中では「温泉旅館のひと」になりそうというと、「温泉のほうがいいなあ」。

日々患者さんは入れ代わるICUならばこそ、患者さんがその後どうなったのか考えたりするものなのか?   昨晩のこともあり聞いてみる。ウチダさんは、気になることは気になるという。たとえば患者さんが回復し、あとになって挨拶に来られたら、わかります?
「わたしは、名前ではすぐに思い出せないけれど、顔と声で思い出せますよ。どういう人だったかなとか」

五日目(日曜日)
昼の担当はネネさん。「お久しぶりです」と元気のいい声。お団子髪と目の印象から、カナイさん?というと、「ちがいます。○○です」と名札を見せられる。「お団子多いから覚えられないですよね」。
点滴の交換をしたりするたび「よし!オッケー」の掛け声を発する。「体育会系とよく言われます」とサバサバしたひとだ。そうそう、初日に「晴れた空」を答えたひとだ。

夜はカミジさん。彼女も二度目、知っているひとだと自然と安堵する。名札の下の名前が見えたので、命名者を聞いてみた。すこし古風な名前だったから。
「 おじいちゃんがつけてくれたんです」誇らしそうで、うらやましい。リハビリのイシイさんも「学校の先生からもずっと読み方を間違えられたましたねえ」と、祖父がつけてくれた話をされていた。わたしは実家の祖父母と不仲だったぶん、そういう話を聞くのは好きだ。「祖父はふつうの人で、いま92です」とイシイさんがいうのを聞いて、亡くなった父と同世代なんだとおもう。

カミジさんに胸のアイラブのバッジの意味をきくと、点滴の針をうつ資格だそう。「とくになにもえらくはないです」と名札をみせ「ヒラ(肩書きがない)ですから」。
なくなった友人の本をつくった話をする。なんでそういう話をしたのか流れは忘れたが、話したい気分かったのだろう。

六日目(月曜日)
朝食。いつも残すからか、これまで小3個だったおにぎりが2個に。はじめてその2個めを齧る。スイカを完食。前日のオレンジにつづき。「みなさん、果物はよろこばれますね」とカミジさん。

朝の担当は、団子髪のウチクラさん。三回目にもなると、もう気をはらなくともよいのが助かる。転校体験はなかったが、毎日担当さんが交替する病室にいるというのは、今度の人はどんなひとと、不安な気持ちにさせる。新しい担当さんに嫌われないように、きらわれないように。名前を覚えようとしたのも、ちょっとでも好かれようとしていたのかも。そして、きょうはICU最終日。
お昼前、ウチクラさんに身体を拭いてもらう。看護師さん二人でやってくれていたのが、ひとり。「重症じゃないひとの場合は一人でやりますね」。そういえば、お昼の担当看護師さんが二人から一人になっていた。
何かを持ち上げるとき「オイショ」と声をだすのが耳に入る。「あ、言いましたね。両親とも東京だから、方言じゃないと思いますけど」

11時、ICUを出て循環器病棟に移ることに。ウチクラさんに部屋のドアのところまで見送ってもらう。次は4人部屋。病棟の看護師さんのサトウさん、ヤマモトさんの二人が来られベッドごと運ばれていく。新天地だけにすこし不安。途中「リハビリのイシイさんは心臓の専門で、説明がわかりやすいといわれてますね」と教えられる。人気の先生らしい。そして、ずっとクールな印象の主治医の先生も「いい先生ですよ」と聞き、ほっとする。



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