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日本人は日本人であることに誇りを

先日、外国人の方と少し話をした。日本人の不思議についてだ。
彼は「日本人はテレパシーを使っている」というのだ。
どういうことなのか?

仕事の指示が「これお願い!」とかで終わることがある。
例えば、みんなでカレーを作っているとする。玉ねぎを渡されながら「これお願い!」と言われたらあなたはどうするだろうか?
多分、玉ねぎのみじん切りを頼まれたかな?と思わないだろうか?
これが外国人的には不思議なのだそうだ。もし同じことをするなら「カレーを作るから玉ねぎをみじん切りにしてくれるかな?」とかなり明確に指示を出さなければならないらしい。

ただ、昨今は言葉にあらわそうという外国的な流れになってきているが、多くを語らずに理解するという文化は大事にしたらいいと僕は思う。伝わらないひとには言葉にすればいいが、多くを語らなくても伝わるというのは非常に素晴らしい文化ではないか?と僕は思うのだ。

これは日本がハイコンテクストな文化であるからだと言われている。基本的には単一民族で長い歴史の中で教育もある程度行き届いている。それらの結果できることだと思うのだ。「はっきり言わないとわからない!」というひとももちろんいるだろう。文脈がなければ流石にわからない。あくまでさっきの玉ねぎではないが、状況的にわかるだろのレベルだとする。それでわからないのは自分の状況判断が甘いだけなのだ。そうすると「はっきり言わないとわからない!」ではなく、「申し訳ないんですが、もう少し具体的に指示をいただけますか?」になるのだ。謙虚さが生まれるということだ。

子どもは「あれして」、「これして」と言ったら親は大体わかるからそれをしてしまう。それに慣れてそのまま大人になったひとによくあるのが、他責にする言い訳ばかりするタイプの人間だ。これは完全に子どもで与えられることを前提に生きている人間だ。ある程度大人になれば子どもに与える側にならなければならない。つまり、「あれして」、「これして」と言われたらそれをする方だ。

この何かに対して察するということは武道的にも非常に重要で、この能力の高さこそ日本人の特異性でいいことだと思うのだ。昨今、忖度とかよくない方向に使われることが多いが、本来もっとポジティブな内容だと僕は考えている。

その理由に僕は日本語があると考えている。
サピア・ウォーフ仮説というものがある。国民性などが使用している言語に影響を受けるというものだ。例えば、インド・ヨーロッパ語族と言われるような英語に関して言うと、よく言われるのが第三者目線だ。

川端康成の雪国の書き出しで見てみよう。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
英語では
「The train came out of the long tunnel into the snow country.」
直訳すると
「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」
どうだろうか?雰囲気が明らかに違わないか?
原文では汽車に自分が乗っていて、その汽車がトンネルを抜けると雪国であったように日本人は思うと思う。
英語の方はトンネルを抜けた先に誰かがいて、長いトンネルを抜けてきた汽車を見ているという情景にならないだろうか?

このように同じ風景や状況を表すのに言語によってみているものや見え方が変わる。普段その言語で思考しているので、言語は国民性や思考に関係あるというものだ。

日本語は一人称視点で英語は三人称視点(神様目線)と言われている。

そして、日本は漢字の文化なので同音異義語が圧倒的に多い。外国語母語話者のひとが日本語を学ぶ時に絶望するポイントだ。つまり、そもそも話をしていても文脈から読み取らなければならない面が多く、普段から察する練習をしていると言ってもいい。

僕は医療従事者でもあるので、察するということは非常に注意している。どのように痛いのか、どのレベルで痛いのか、などは感じ取らなければならない。

テレパシーのような能力も鍛えなければ磨かれない。皆さんも日本人であることに誇りを持ち、感覚を研ぎ澄ましてみてはいかがだろうか。

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