病む人の名前

東畑開人『ふつうの相談』、飯村周平『HSPブームの功罪を問う』、パット・デニング、ジーニー・リトル『ハームリダクション実践ガイド』を読んだ。

違う話だけど、たとえば標準化された用語では「障害を持つ人」ということになる人が、障害という言葉は自分をうまく説明しないと感じることはある。

東畑は中井久夫が『治療文化論』で、病や不調を3つのアスペクトで捉えたことを引いている。西欧近代医療のなかで発展した診断カテゴリーである普遍症候群、民俗的コスモロジーが共有されているなかで機能する診断である文化依存症候群、そして、「〇〇さんは試練のとき」「私はこういうときこうなる」といったミクロな診断カテゴリーである個人症候群の3つだ。これを受けて東畑は、発達障害言説はもともと専門職セクターの管轄下にあったものが民間セクターでの日常語彙になっていったものだと言え、「HSP」はその管轄権を現在進行系で三つのセクターで争っているところ、と分析する。

「メンヘラ」とかも、文化依存症候群/民俗セクターで扱われる概念かもしれない。このような西洋医療的な領域を離れた言葉で自分たちのことを語るコミュニティは無数にあって、それについてなんか嫌だなみたいな気持ちになることがある。HSPとかまさにそうで、私は明らかにそれに該当するものの、絶対そうラベリングしたくないので「すいません神経質なもんで」と言っている。「個人症候群」として捉えるとそういう具合になるのだと思う。

東畑が言及している『HSPブームの功罪を問う』には、HSPがかくも流行りに流行った理由のひとつとして、ポップ化されたHPS概念は、それに該当する人に、「呪い」と「祝福」の2つの側面がある、生きづらいが、特別な才能を持った人間だというナラティブを提供する、ということを挙げている。なんか見たことある、と思ったら、太宰治の『晩年』のエピグラフですね。「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」。みんなずっと太宰が好きなんだと思う。

いずれにしても、学術的な領域をはずれたHSPなるものが、他者や自己に対する理解を逆に狭めたり、搾取ビジネスの繁栄をもたらしたりするため、この本では警告が発せられています。

HSPなら自認することで当人に大きな害がもたらされることもないのだろうけど、「アディクト」となると話が違う。そのように他者から、あるいは自らスティグマ化が行われることで生じる害は、想像に難くないけれど大きい。ハームリダクションでは、アディクト、アディクションという言葉は用いず、「使用」と「誤用」という区別をする。一度使っただけで死に至るなら依存が形成されていなくても誤用だし、常習していてもそれがコントロールされていて問題が生じていなければ誤用にはならない。

ハームリダクションは、完全な断薬・断酒・禁煙などに比べて優しく感じる――完全にやめなくていい、自分で決めていい――けれど、やるべきことが少ないわけではない。自分の状況に対する観察と理解が不可欠で、つねにそれに取り組まなければならないから。たとえば、ドラッグ・セット・セッティング、に分けた分析の仕方がある。ドラッグは使用している物質の種類、使い方(注射か吸引か、とか)、時間や量や頻度や合法か否か。セットは使用者がどんな人で、どういう動機でどんな効果を求めて使っているか、そしてどんな健康状態にあるかといった情報、セッティングは個々の使用の状況やきっかけ、支援の有無といったもの。同じ人の同じ物質の使用でも、セッティングによってハームの度合いや有無は異なる。

読みながら念頭にあったのは自分の過食症のことだ(これは病院で診断や治療を受けているわけじゃないから普遍症候群としてのそれではない)。食べることをやめて生きていくことはできないから、必然的に過食症からの寛解はハームリダクションになる。(それを完全に絶とうとしてしまうとき、過食と拒食を行ったり来たりする人になる。私にも拒食期が1回だけあった。)

かつては夜中に炊飯器からご飯と缶詰を食べ続け、食パンに油をかけて腹に詰め込み、ヨーグルトのパックにジャムひと瓶放り込んで食べる、といったことを毎日だか2日に1度だかしていたけど、意を決して実家を出たら=セッティングを変えたらそこまでひどいやつを行わなくなった。菓子・炊けた米・冷凍パン・常備ヨーグルト・ジャム・はちみつ、から離れられない環境を出ると、今度はしかし、24時間営業のスーパーとコンビニに囲まれるようになり、おまけに仕事がちょっと嫌だったので、糖中心の過食から油中心の過食に移行したのだった。

何度もコールドターキーにやめること、一昼夜にしてクリーンになることに失敗して、ようやく、ハームリダクション的なことを考えられるようになった。コンビニのお菓子はできたら朝だけにする、外食を楽しむことを許す代わりに量を食べすぎない、やっちゃっても自傷しない、買い込むお惣菜のなかに、値が張ってもいいからサラダを紛れ込ませる。

多分ほんとに地道にやっていかなくちゃいけないのだろうと思う。そのとき自分のことを過食症だから、と言わないほうがいいような気もする。ちょっとだらしないところがあるけど頑張ってるんだ、と思えたほうがいい。ちゃんと取り合ってくれない感じがしていやだったカウンセラーの人も、ひょっとしたらそういうふうに軌道を変えようとしてくれていたのかもしれない。


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