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キスしながら話せる?

尼崎市にあるA-Labで2023年3月31日まで開催されている林葵衣個展「有り体を積む」を見に行きました。

たとえばヒッチコックの有名なキスシーン(※)を思い出してもいいのだけど、唇同士が触れ合ってしまえば意味のある音を発して組み合わせて言葉にすることは難しい。だからキスのあいまに発せられる言葉が切迫した、ぎりぎりのところでうまれるものという感じを起こさせる。キスしながら話すこと、は完全な同時進行としてはできない。

「唇を奪う」という陳腐な比喩は、そこで奪われているのが実のところ言葉であることを忘れさせるが、「口をふさぐ」ためかのように用いられるキスの場面は映画でよく見るような気がする。だし、わたしが一番誰かにキスしたいと思うのは、その人が話しているときだ。言葉を発して忙しく動いている唇をもっとも触れたいと思う(※)。この感覚が珍しいものだという感じはしない。

別の話。醤油瓶ペロペロはさておくとしても、私たちは別の人間の体液と触れ合うことに、ときに激しく拒絶反応を示す。中学のとき、「ねえ知ってる?」と高い声で言う豆の形をした犬のアニメ(※)が流行っていて、キスしたときに雑菌がどれだけ移動するか、という豆知識が言われたらしい。それを同級生から聞いた。すごく気持ち悪そうだった。もっと小さいとき、祖母の吐く息や口紅が気持ち悪くて、寒さで白くなる息が少しも面白くなかった。クリステヴァがアブジェクトの感覚としてはじめに挙げているのが唇の感覚であるのもゆえないことではないだろう(※)。

「写真はお撮りいただけますが、作品には手を触れないでください」と言われるのは、別に珍しいことではない。それはさておき、においはニオイ分子が鼻の中にくっついてにおうんだとか、誰かの手を介したウイルスの移動とかを恐れたり気持ち悪がったりするのと同じように、見ることを可能にする光の粒子の運動について、肉体的な居心地の悪さを受けるだろうか。そうでもないとしたら見ることは依然、安全なのだろう。

それでも、口紅の跡がついた壁をまじまじと見ることは難しかった。無機質で医療的にみえる樹脂の塊にしても、それが口の奥まで入ったものだと考えるとき、一度人が口に含んだまさにそのもの、を、自分が喉の奥まで飲み込むことを想像して「うっ」となる。ついでに歯医者でつけられる型採りの苦しさも思い出す。まずその、作品に対する肉体的な忌避感があって、そして言葉の難しさがある。

《Phonation -Dialog-》

人間がいつのまにか直立二足歩行を始めてくれたおかげでもろもろのバランスが変わって口が器用に使えるようになって、無数に可能な音を弁別してたくさんの意味を伝えられるようになったらしい。そして、どうにか同じ言語をあやつるグループの人々は、「音」としては異なるかもしれないものを、同じ「音素」として聞き分けることができて理解している。それはとても微妙な作業なので、口の中と唇がなにか別の物体にじゃまをされると上手くいかなくなる。触れることから引き剥がされないかぎり、言葉はできないということ(※)。そこを、音声言語にも接触にも無理をさせているのが林の作品と思われる。

「Phonation」シリーズは、ポリエチレン樹脂を口に含んだまま声を出し、口内の型取りを行った作品だ。Phonation piece -Fureru-》の制作記録映像を見ると、作家が嘔吐反射をこらえながら「ふ・れ・る」と順番に発声する様子が分かるが、テキストを読まなければ、その音ははっきりとは聞こえない。作品自体を見ても、それがどんな音の型取りなのか分からない。音声学者ならもうちょっと分かるかもしれないが。「あ」〜「ん」までを同じ方法でかたどった《Phonation piece -syllabary-》もそうだ。母音はギリギリ区別できそうだが、子音の調音は、そのまさに声を形にするための樹脂のせいで妨げられざるをえないので、それぞれのピースがどの行の音の形なのか分からない。口紅をつけた唇を窓ガラスと壁に這わせた《Phonation -Out of the Window-》と《Phonation -Dialog-》も同じように、唇を平面に押し当てながら横に動くという身体的要請によって、その声はくぐもってよく分からなくなる。

《Phonation -Fureru-》

考えてみれば、ドラえもんのコエカタマリンは、話した言葉がボリュームや声質に合わせた形・大きさ・速度をした文字のブロックとして口から飛び出してくるようになる、ようするに効果音から着想されたのだろう、最も漫画的とも言えそうな秘密道具だった。言葉でない声もきちんと音素として弁別され、音から文字へのジャンプは滞りなく、そのうえ声のストップであるにすぎない小さい「ツ」まで飛び出してきて、無茶なアクロバットが行われている(※)。しかし、私たちのこの世界で無茶なアクロバットは成立せず、コミュニケーション以前の痕跡的ななにか、を読解するための用意は誰もできていない。

文字はそこでじっとしているが、声は消えていく。作家が残す物体や痕跡は実体化した声のようにも思えるけれど、無理に騙される必要はなくて、それは声ではない。声は依然消えていくしかないし、私たちが見る痕跡は、発声を妨げるものと発声という行為のせめぎあいから生まれたものだから、かつてあった声を再現する可能性を持つような記録でもない。

ではそこで発せられるのはどんな言葉か。最初の部屋に並んだ樹脂は五十音で、窓ガラスの口紅の跡は、下の保育園から聞こえてくる子どもたちの声と、遊びの中で聞こえる音が言い直されており、続く壁には、尼崎という土地のリサーチをするなかで話を聞いた人の言葉がかなり断片的に言い直されている。その飴屋さんのインタビューは紙でも配布されていて、全体を読むことができる。最後の和室の樹脂は、声にまつわる杉山平一の詩をかたどったもので、色にかんする詩を発話したものには、様々な色が使われている。

《Phonation piece -声-》

口紅の作品には、鉛筆書きでどの部分を言ったのかが書かれていて、窓ガラスにはタイプされた文字が貼り付けられている。どれをとってもひとつ思うのは、「こう言っている」と説明されることと、そこで見る形が、本当に対応しているのか分からないまま、でも対応していそうなので、疑う理由もじっさいないので、信じる。でもそこにはやはり、文字として共通理解されることがらと音と、言葉の内容とそれを口に出す体との、抜き差しならないイガミ合いの可能性を提示してはいる。その点で作品はとても肉体的であるようできわめて抽象度が高い。

百瀬文と安直に比べたくなるけれど、もしかすると全く別のところを目指しているかもしれない。注視したい。


(※)当時ヘイズ・コードによって3秒を超えるキスシーンを映画に入れることができなかった。それを回避するために『汚名』で編み出されたといわれる間歇キスシーン。

(※)日本語の「触れる」が直接目的語を取らないことが単に不服である。

(※)こいつ。

(※)ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力:アブジェクシオン試論』の冒頭で、ホットミルクの膜について言っている。

(※)ただしこれは盲かつ聾の人が用いる触手話を除く。しかし私は触手話が手話のように言語としてのステータスを主張しうる性質を持っているのか判断できない。

(※)

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