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『うんこ文学』の中の「半地下生活者」

アンソロジー、『うんこ文学』の唯一にして最大の手柄はヤン・クィジャの短編「半地下生活者」を取り上げたことといえる。ヤン・クィジャ(梁貴子)の小説は、日本では『ウォンミドンの人々』と『ソウル・スケッチブック』が出版されているほかには、いくつかのアンソロジーに掲載されているくらいだろうか。『ウォンミドンの人々』を途中まで読み進めたが、短編の運びが非常に巧みな作家だと感じさせる。その作品が入手しやすい場所に掲載されたことは大きい。(既訳は同短編集に「地下生活者」として収録されている)

ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』トイレが天井近くに設置された半地下の生活を取り上げたことは記憶に新しい。この短編が扱うのも、「働けど働けど」という苦境だが、主人公が暮らす部屋にはトイレさえない。大家が暮らす地上階の部屋のトイレを使わせてもらうという約束なのだが、どれだけドアを叩いても彼女は居留守を使うのだ。主人公の男は、明け方の排便チャンスを逃すと、その後は一日どうにもこうにも出せないという体であるために、野糞を余儀なくされている。近隣のビルのトイレを始めは使っていたが、人を起こすことをおそれて流さずにいると、戸締まりが厳しくなった。そして野糞が彼のものであることは、周囲にすっかり露見してしまっている。この惨めさが伝わるだろうか。

先に今年の2月に出版されたアンソロジー『うんこ文学』について触れておこう。サブタイトル「漏らす悲しみを知っている人のための17の物語」にも表れているが、この本はうんこを漏らすという危機的状況(とりわけ健常者の男性にとっての)をペーソスで塗り固めてみんなで仲良く笑おうという魂胆でできており、異なる路線でうんこを追求する作品(谷崎潤一郎「過酸化マンガン水の夢」など)がかろうじて体裁を保っているという代物だ。うんこ漏らしの悲しみという偽りの普遍性が隠している排泄の不均衡と身体的管理をこそうんこ文学は描かなければならないのである。その意味で、「半地下生活者」は「大の男が漏らしちゃって」というマゾヒスティックな自虐を扱った物語とはまるで違う。うんこは有機的な自然野糞からも、都市的流通からも疎外された労働者である彼の姿を際立たせる。

どうあっても働きに出なければならない。小さな地下工場で生地の裁断を担う、もっとも下層の仕事である。ところがこの日、彼が出勤すると、労働者たちの謀議によって、ストライキをすることになってていた。仕事をしない、という慣れない状況に誰もが戸惑いながら、おずおずとストは始まる。社長の家で間借りしていたことのある彼は、経営の厳しさも、待遇が決して不当なものでないことも知っている。

大家はなぜトイレを貸さないのだろう。彼は次のように推測する。

「おそらく大家の女は彼を家に上げることが嫌なのだろうし、つるつるに磨き上げた浴室兼トイレにむさ苦しい男を入れたくないのだと彼は断定した。金が要るので地下室を賃貸には出したものの、彼と同じ便器を使うのにはためらいがあるに違いない」(p. 257)

これの気持ちも分からないではない。父が家に来たときにトイレを貸さずに追い返したことがあるが、便器を共有することは、同じテーブルで飯を食うのと同じくらい、いや、それ以上にかなり、想像のなかで身体的接触の感じを与えるようだ。

さて、ストライキは上手くいかず、首謀者が製品をくすねていたことを誤魔化すための作戦であったことが明らかになる。いつもより多めのボーナスを与えられ、社長とともに飯を食い、彼らは仕事を再開する。しかし彼はうんこが出来ない。部屋に帰ると、外から聞こえよがしに近隣住人が彼の野糞について話している。

「いったいどこのどいつだ! 糞するところがないなら、食わなきゃいいだろう」
(中略)
「まあ、これだけちゃんと片づけておきゃあ、あれも人間なんだから、もうしないでしょうて。居間の掃除なみにきれいにせんと」
するとホースの水音がいっそう大きくなった。
「朝、車を出そうとすると必ずこうなんですからね。今朝はぐにゃっと踏んづけて、見てみたらこの始末で、本当にうんざり……」
 聞き慣れない声の主がハハハと笑った。チョコレート色の車の持ち主が朝の失敗に腹を立て、一日じゅう彼の帰りを待っていたあげく、ゴムホースを持ってでてきたらしい。(p. 269-70)

彼の腹の苦境は、うんこだけを見る人々には少しも理解されない。マリー・アントワネットばりの「糞するところがないなら、食わなきゃいいだろう」という言葉の残酷さは、その想像力の及ばなさにある。そもそも食わなくたってうんこは出るものだし、食わない先には死しかない。徹底して辱められた彼はそこで、翌日こそいかなる手段を用いてでも上階の女と対峙することを決意する。しかし翌朝、誰かが上階に押し入る物音がする。それは彼女の不倫相手の妻だった。この騒ぎによって彼の敵意は消し飛び、自らの不運に悲しみをおぼえることしかできない。廃墟となったその部屋は、彼の部屋と変わりない洞窟に見える。戦うべき相手としての敵がその権威を失ってしまったからだろう。この構造は、ストライキとも類似している。そして、彼が少しばかり決意を新たにして向かう工場ももう一つの洞窟にすぎないのだと、語り手は注意を促す。

「体を動かすたび、服に染みついたカビの匂いが漂った。地下生活者だけの匂いだった」と短編は結ばれる(p. 276)。映画『パラサイト』でひそかにソン・ガンホ演じるギテクの怒りのトリガーを引いたのが、雇い主であるIT社長が彼の臭いについて(聞かれているとはつゆ知らず)言及した瞬間であったことを思い出す。うんこは出来ないし、貧困の臭いも誤魔化すことができない。その抜け道のない隘路を描きながら、「半地下生活者」のトーンはどことなくコミカルで、襲撃現場の朝日の描写には希望のようなものを感じる。人を愛することをやめない人の書く小説なのだと思う。

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