ほんとうになにがいるのか――バック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』劇評

※結局Kyoto Experimentの批評プロジェクトに送らなかったもの。2013年10月7日にロームシアター・サウスホールで観劇しました。
KEXに関連する記事をZINEで用意してるので、そちらも情報お待ち下さい。


 危険を承知で動物の話から始めよう。ときどき動物園で屋内の獣舎に空の檻が設えられていて、よく見ると「ヒト」とキャプションがついているから中に入ることができる。見る人間と見られる動物の関係を反転させるちょっとした仕掛けである。ごくごくちょっとした仕掛けであるために、そこに入ってみた人間は特になにかヒトとその他動物の関わりについて考えを変えるわけではないし、日々動物の搾取や利用に加担し続ける。とくに、動物たちの地道な待遇改善のための運動や規制や改革は多くの人々の意識にのぼることがない。

 バック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』では、知的障害を持つ演者=登場人物(本名で登場)が、私たち観客(その多くがおそらく知的障害を持たない)に対して、話に付いて来ているかと尋ね、当然観客はシーンとしているので理解がおぼついていないと判断し、子供みたいだ、もっと簡単な(small)言葉を使わなければと言って説明するのだが、結局その後も話が分かっていないとみなされ、私たちの理解力は医学的な言葉で "mild"だと言われてしまう。ここでは動物園がその(多分余った)檻を利用したのと似て、演劇の第四の壁の構造を活かした反転が行われている。障害があるとみなされる人々の知的能力を一方的に判断し、観察する側だったはずが、自分の理解度や能力を示すチャンスを与えられる前から(というのは、たいていの観客は演者が舞台上から呼びかけてきても大人しく座っているだけだから)軽い障害があると認定される。こうした反転は、「あなたも将来障害を負ったり、老化や病によって他者の援助を受けざるを得ない状況になりえますよ」という忠告=啓蒙のレトリックを推し進めたものとも言える。

預言者

 とはいえ、よくよく聞いてみると、彼らが話しているのは、知的障害者に対する差別の告発ではなく、人工知能の脅威なのだ。『2001年宇宙の旅』のHALを引き合いに出しながら、人工知能が現在の一般的な人間の知能を遥かに凌駕したとき、「普通の」人間が、かつて障害者が受けたのと同様の扱いを受けるようになるという危機を語るのである。要するに、ここでは人工知能>>>「普通」の人>>>知的障害を持つ人という3段階のヒエラルキーが設定されているのだが、知的障害を持つ人々はその集団としての歴史的経験――知能を画一的な基準で判定され、その結果排除され、実験台になり、暴力を振るわれてきた――によって、将来的により上位の存在の出現により脅かされる可能性を分かっていない私たちに警告を発する、預言者としてふるまえる。そもそもAIは人間がこれまでしてきた差別を学習し再生産してばかりいるのだから、そういう事態が起こることは実際ありそうだ。いや。

 いやいや、まさか誰も、これが人工知能なるテクノロジーに対する人間性の抵抗の物語だなんて思ってはいまい。こうしたヒエラルキーの設定もまた、反転の構造と同じような、観客に靴を履き替えさせる仕掛けのひとつだ。皮肉なことだが、AIに牛耳られ虐げられる「普通の」知能の人を想像することのほうが、知的障害を持つとして差別され暴力を受けることよりも想像しやすいのかもしれない。私たちの想像力なんてたいてい非常にmildなのだから。

文字

 とはいえ畢竟大切なことはメッセージなんかではないだろう。この演劇において、AIがどのように表れているか見てみよう。Siriと音声認識である。人間の演者の台詞も、登場人物のひとりであるSiriの発言も、舞台上方に吊るされた横に細長い矩形のディスプレイに文字として表示される。次第に気づいてくるのは、ときどき文字が黄色く光って修正されることだ。"personnel"と認識されたものが"personal"になるといった変更と、文字の表示が音に対して若干遅れていることが暗示するのは、これがあらかじめセットされた文字情報の表示ではなく、音声認識の結果であること(になっており)、そしてその誤りを修正する人間がどこか舞台の外側にいる(ことになっている)ということだ。この音声認識を修正しているのは誰なのか。その何者かは、演者たちの発話を聞きとりづらいと感じるだろうとあらかじめ想定された私たち観客、よりも精度高く聞き取れる音声認識のソフトウェア、以上に聞き取りが正確にできる何者か、であるはずなのだが。

 サラは、この音声認識を、侮蔑的だと批判する。声という形で発せられた言葉に対して同じ言語の文字がつけられることにはいくつかの異なる状況が考えられる。一つは聞き手がなんらかの(聴覚障害といった)理由で音声の聞き取りが難しい場合。それから、発せられる音声が多くの人にとって聴取・理解ともに難しいとき(たとえば文楽)。などなど。テレビの字幕では、日本でも英語圏でも、母語話者以外の発話にはどれだけ流暢であっても一律で字幕をつけるという処理がしばしばなされる。親切のように見えて、舞台上で反復されるこのような慣習(聞き取れるにもかかわらず、話者の属性に応じて字幕表示の有無が決定されること)は、支配的な言語と周縁的な話者のあいだに存在する権力関係を繰り返しパフォームする。サラ、スコット、サイモンの発話は、程度の差こそあれ、オーストラリア・アクセントに親しんでさえいれば、そこまで理解が難しいとは思えない。一方で、文字に頼らず声を聞け、という主張は、どこかに必ずいるであろう聴覚障害や非母語話者の聴衆をつねに貶めるだろう。

 いずれにしても、文字が出てくると人はそちらを見てしまう。そして耳に入った音と文字の情報をつなぎ合わせ、補強し合う。日本のお笑い番組がパンチラインを賢明に誇張するように。目の端で動くそれは、観客に激しく手招きする。とりわけ黄色い修正が視界の隅でパチンパチンと入れば、ワンテンポ遅れて私の目は動き、どの単語が何から修正されたのか結局分からないまま舞台上に目を移し、聞き取れない箇所があるとまた目線を上げ、分からない表現があると日本語が表示された左右のモニターに視線を走らせる(が、しばしば間に合わない)。そうやってパチパチしているとなかなか追いつかないし、舞台を、演技を、どこかに集中して見ることは難しい。ステージを囲むモニターたちは、舞台上の主役たちから目をそらさせる装置でもあるというわけだ。なぜか。

 声のでどころに、人は目視可能ななにかを探す。「当事者をエンパワーしよう」「声を与えよう」とするとき、そこに現れた「当事者」の姿には視線が集まる。凝視される。悪気があろうとなかろうと。とりわけ聴衆/観衆が観客席や画面の向こうといった安全圏にいるとき、その視線はいくらでも不躾、あるいは侵襲的にまでなりうる。となると、見世物小屋でも座敷牢でもないなにかを探るために、私たちの視線は操作されているのではないか。観客の目の向かうところをパチパチと――予測不可能に――移動させ、一点にとどめておかない。"I'm not a dog!"という、ドラマティックにもなり得た叫びは淡々と処理される。舞台上の役者は、演技というヴェールをかぶりつつ、しかし本名で、おそらく本人と同じ障害や病気を持つものとして(公式サイトの紹介文では、あえて彼らの障害を明記することが行われていない)現れる。そこに集中できないことは、そこにいる人のアイデンティティを忘れさせ、そしてある集団を代表しようとしていたことをも少しずつ忘れさせる。そのような機能として。

演技

 いや、しかしそれでも、やはり危険を承知で考えなければならないのは、私たちは演じることの背後にどのような能力を仮定しているか、ということだ。それは漠然とした知能だろうか。台詞を覚えて演出家の指示に従う能力だろうか。演者と役の内的な相互作用だろうか。イルカショー~プロフェッショナル俳優連続体のようなものを想定して、たとえば幼稚園児の劇をそのどこかに位置づけたりするだろうか。あるいは知的障害を持つものが現れたときにだけ、それがなにかしら、遊戯でない「真性な」演技なのかどうかと疑いだすだろうか。あるいは、対話型AIに指示を出して特定の人格や職能として振る舞わせるとき、それはAIの演技と言えるのだろうか。

 当事者が現れ、演技する、それは真性なメッセージを伝えるためではない。私達がそのメディアムの真性性を疑い始めるダブルスタンダードに、解釈の袋小路に陥っていくこと、それを起動させるのだ。知能というものがなにか非常に狭い範囲の能力を切り取った指標であるにもかかわらず、それを随分と広い領域に適用していたことに気づきながら。

虚構

 それゆえこの演劇は、フィクションとリアリティの境界を何重にも曖昧にする。3人の登場人物が行うミーティングは人工知能の危機を啓発するためのスピーチの準備のために行われている一方で、実際に観客に語りかけ呼びかけている点で演説の実践それ自体でもある。だからミーティングがごたごたしてうまく話がまとまらなかった結果、呼びかけ人であったサイモンは、失敗だった、恥晒しだったと呟いて去っていく。その上じっさいこれは、演劇の本番でもある。

 始まりに引かれ、最後に剥がされる黄色いテープは、観客と舞台の間にわざわざ境界を設定し、その世界をフィクションにしてくれたのだろうか。たしかにサイモンは、質問があればフォワイエでお待ちしていますと言って、実際にはいなかった。ここは京都であるにもかかわらず、ワタウロングの人々の土地であることに敬意が表された。いっぽうで俳優たちは本人でもある。リアリティは、メッセージは、ともすれば単線的で誰にも大して響かない袋小路に陥ったはずだったのに、そこにとどまっていず、何重にもブレ、多重化する。

 そのときやはり、観客はそれを心からのメッセージやリアルなドキュメンタリーと言い切ることができないし、虚構の物語として分析を進めきることもできない。そのような焦点の絶え間ない移動と点滅を起動することにこそ、この演目の目的があるのではないか。

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