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書の速度について。「スーラージュと森田子龍」展おぼえがき

 記号は速い。記号は音や意味と結びついていて、文脈や個別の人や状況が持つ複雑さをいったん捨象して、共通の了解を持つもの同士の意思の伝達をラディカルに効率化する。それが文字の速さだ。

 記録として残された映像はそれを裏書きするけれども、書はとにかく速い。それはメディアムの特性でもあるのだろうが、どのようなスタイル(紙の大きさや筆の太さ)であれ、紙に墨汁を含んだ筆で文字を書くということをやっている以上、誰もが速い。それはもちろん口で話すのに比べたら情報伝達の意味では遅いのだけど、唯一無二の具体物に結び付いた絵と比べるなら、たとえホイッスラーだって遅い(「2日で仕上げた絵が200ギニー?」「生涯をかけて得た知識につけた値ですよ」)。

 文字の速さには抽象だって全く叶わないのだ。森田子龍はスーラージュの知友を得て交流を重ね、スーラージュの絵画はそのスタイルからメディアムまで日本的なものの影響を吸収していくが、それは決して書と同化するものではなかったのだろう。どの作品も、森田の書に比べてもどかしいほどに遅く、じれったく感じた。

 文字の速さは、書かれるときの圧縮の速度であり、読み取るときの速度でもある。というのは日常生活の範囲内でのことで、学校の教室では読める字を書くことが求められ、デザインには可読性と誘目性がもとめられるというのはまったく経済的なことである。しかし書、とくに前衛書道というものは読めたものではない。もちろん、それ以前の伝統的な書道の字体についての知識や慣れがあればおそらくある程度内容が理解されるのだろうが、私のような(そして多くの観客がそうであるところの)素人には、キャプションと黒い形を照らし合わせて、それから筆跡の方向や重なっているところに目を凝らし、書き順がこうだからこのあたりがヘンでこっちがツクリでこれは草かんむりかしら、といったことをしなければならず、それでも分からないことは往々にしてある。

 それに比べたら抽象画を見ることはいくぶん速いかもしれない。線によるコンポジションは表すべき内容を持たないのだから、ひとまず身構えることもなく「味わう」というあたりからスタートできるし、読み解くべき意味などないのだから、パシャリと写真を撮るように瞬きしてこれでよしと立ち去ることができる。これはずいぶん速い。速いのだが速さを絵からは感じない。時間はかかるのだけど森田のとくに50年代の作品は非常に速度が出ている。それは不安定な薄い紙の上にばかでかい筆と全身で引かれた、油絵の具のように積み上がらないにもかかわらず3次元的な動きのそのシミ(痕跡、なんかではない)の速度だ。それがビートのように今も鑑賞者の胸を打ちまくるだろう。その速さゆえにこそ、あなたもそこに釘付けになるだろう。

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