今もアルバイトをしている理由

私は現在も就労継続支援B型事業所でアルバイトをしている。障害者さんにパソコンを教える仕事でもうすぐ丸二年になる。

アパートを複数持ってるというと大体の人から「それなのにどうしてアルバイトなんてしてるの?」と聞かれる。説明をすると長くなるので「いやまだまだなので。」とか「妻に働けといわれてるので。」なんてごまかす事が多いのだが、実際の理由は2つある。

1つはアパートの収益は出来るだけ再投資に回したいという事だ。

アメリカで流行っているFIREムーブメントというものがある。簡単にいえば生活を切り詰め、その分を投資して、早期リタイヤ(FIRE=クビ)しようという内容だ。

ここにFIREの提唱者であるピート・エイドニーの次の言葉がある。

稼いでいる額にかかわらず、収入の半分を貯金と投資にまわすことを目指すべきだ、と彼は支持者たちに伝えている。「この場合、働かなくてはならない期間はおよそ17年間です」と彼は言う。
「ちなみに、4分の3を貯蓄にまわすとその期間は約8年になります。実のところ、これは早期リタイアの話というよりは、もっと目的意識を持ち、ストレスをかけずに今できる範囲でベストな暮らしを始める、ということなんです。」

生活を切り詰めて投資しようは目新しさもない話だが、収入の半分を投資に回せばリタイヤまで17年、3/4を回せば8年と具体的な数字を示しているのが面白い。

ちなみに私のアパート経営を振り返ってみると、2005年に1棟目を購入し2017年の時点で月々58.9万円のプラス(家賃79.1万-返済20.2万)であった。諸経費を毎月10万円とみるとなんとかリタイヤ生活に入れなくもない金額だった。おそらく収入の60%くらいは投資に回していた気がするので、意外と汎用性の高い言葉なのかもしれない。

ただし私の場合は、望まずして数か月のリタイヤ生活に突入をしてしまった。結果は散々であった。

夢のリタイヤ生活

リタイヤ生活の直前には、某通信会社のコールセンターのアルバイトをしていた。応募したのは、ほかのバイトに比べれば時給も高く、一年中求人募集がされていたからだ。

応募をすると即採用が決まり、2週間の研修を受けた。お客様情報の調べ方や料金体系や過去のキャンペーンの内容の調べ方。そしてコールセンターがどこにあるのかは絶対に明かしてはいけないと警告された。

ここまで条件がそろってくると、コールセンター初体験の私でもどんな電話がかかってくるのか想像はついた。

最初に受けた電話から強烈だった。

電話に出るなり、大変な勢いで罵声を浴びた。そこのコールセンターでは電話が本人からかどうか確認するために、3点以上聞き出さなくてはいけないのだが、教えていただけず、聞かされるのは罵りの言葉だった。その後一日何十本の電話に出るのだが、その半分以上は苦情や罵倒であった。

怒られなかったり、普通の対応だけで済むのは記憶に残らないためか体感的には9割くらいは怒鳴られるように感じる。

電話を受けて第一声から怒鳴り散らされ、内容をデータ化して、また受電し苦情を聞くを繰り返す。

そこのコールセンターは、どんなに激しく苦情を受けても一人で最後まで対応する、という方針だそうで1本1時間以上怒鳴られる事も珍しくなかった。憔悴しきった私をみて、ある先輩がアドバイスをくれた。

それは休日にヤクザ映画やバイオレンス映画をみて、罵倒する言葉に慣れろ、という内容だった。なるほどそんな方法もあるのかとは思ったが、実行する気にはならなかった。

同期入社のバイトは10人いたが本番の電話にでる様になると一週間で半分になり2週間には3人になった。
そのペースで退職者が出てもオペレーターの数は維持されていた。
なぜなら2週間単位でまた新人バイトが入るからだ。
自分なりに工夫をしてみたつもりだったが結局二ヶ月弱で辞める事になった。

その後、別業種のコールセンターに転職をして驚いた。

罵倒までをされる事は週に一度くらいだった。ここでの仕事は一年半くらい続いた。
電話に出るのは慣れていったのだが、全く楽しいとは思えなかった。
世の中に楽しい仕事なんてないのはわかっている。こうして日々を消化していくだけだ。

辞めるきっかけは、アパートを購入するために休み希望を入れたが数週間の休みは受理されなかった。

半ば強引に辞職をし、アパートを購入をしたのだが
なぜだろう、私はすぐに働く事が出来なくなってしまっていた。

幸いにして、仕事を辞めても生活するだけの収入はあった。

結果としてリタイヤ生活に突入したのだが、何もする気になれなかった。

朝も起きたくなければ、食事もしたくない。好きだった読書もしなくなった。ただ一日中スマホゲームをするのだが、苦痛だった。ゲームの内容もすっかり飽きていたが、ほかにやる事がない。アパートを増やさなくてはとは思ってたが、物件を探す気力すらなくなっていた。

よく考えてみればそもそもずっと服や車や音楽にも興味がなく、自分にも他人にも全く興味が持てなかった。食事も空腹の苦痛がなくなれば良いだけで味はどうでも良い。どのチームが勝っても誰かが世界記録を出しても何の感傷も感じなかった。

楽しいと思える事や興味のある事はほとんどなかったし、一方苦しいと思う事は一日に何回もやって来る。妻と子供は好きだったが、あの頃の私は日々苦痛の中にいた。

私は無気力に包まれてしまい、みかねた妻からアルバイトをする様に強制させられた。今となって見れば、妻には感謝している。
言いなりで始めたアルバイトに私はずいぶんと救われた。

無気力からの回復

いつもの通り私はソファに寝っ転がり、スマホゲームをしていた。

その日は妻は休日で、なにやらパソコンで調べものをしているようだった。

しばらくすると妻が私に一枚のプリントアウトをみせて今からここに電話をして応募しなさい、といった。

障害者支援施設の支援員と表示されている。
障がい者の施設、というのはわかるが支援員とは何だろう。

「わかった、今度仕事を探す」と返事をしたのだが、妻は引かなかった。

結局、その場で電話をするはめになり、とんとん拍子で面接となり、私の経歴を面白がってくれたのか、支援員として採用になった。

採用になったが、私の心は虚しかった。これからしばらくは、朝早く起きて電車に乗り、気に入らない人たちの顔色をうかがい、愛想笑いをして一日を過ごすのだろうと思った。

支援員とは、障がい者の方にパソコンや手芸などを教えるという仕事だった。そこではワード、エクセル、パワーポイント、イラストレーター、フォトショップなどを教えていた。
気難しい障がい者の方もいれば、優しい方、意地悪な方、純粋な方などが混在していた。キリスト教の教会にいっても同じだし、どんな職場に行っても同じだ。良い人もいれば、そうじゃない人もいる。障がい者も健常者も同じなのだ。

働きはじめて2〜3週間くらいだろうか。明らかに私の心の虚無感が薄くなっている事に気がついた。これはどういう事なのか。

単純にコールセンターのように罵倒されなくなったというのもあるのだが、それ以外の変化が自分の中で起きたのだ。

数カ月後にはすっかり虚無感は消えてしまった。

幸せとは何か

障害者支援施設は、障害のある方の自立を支援するための施設だ。このため、パソコンの学習だけではなく、生活リズムを整えるための計画を立てたり、抱えている問題の解決のための相談を受けることがある。

そこで私が目にしたのは、何人もの障害者の方が「死にたい」と職員に相談をしている姿だった。

ここで具体的な内容は書くわけにはいかないが、多くの人が重荷を抱え押しつぶされそうになっていた。治ることのない難病や、食事をする分のお金がないほどの貧困、近親者からの虐待など、こんなに辛いことが本当にあるのかと思うほど過酷な現実。そして苦しみを吐露しながらも必死に施設に通っている人たち。

あるとき私は上司に「○○さんのご病気つらいですね」といったことがある。
すると上司は「病気なら治る場合もあるからまだいいけど、障害は治らないからね、つらいよね。」と返された。
それを聞いて私はショックを受けた。

ここに来ている人たちはみんな一生障害と付き合って行かなきゃ行けない人なのだ。数日風邪をひいたり、虫歯になったりするだけであんなに辛いのに、それが一生つづくとすればどうなるだろう。

ましてや五体満足で、病気もなく収入があり、妻も子供もいるが虚しさに悩まされるとはどういう事なのか。私は自分の事が恥ずかしくなった。
多少電話で罵倒された事くらいで辛いと言えるのか。電話のように切れば消える苦痛と、一生続く苦痛では比べ物にならないではないか。

2年間ほど働いてみて、つくづく感じることがある。

障害者支援施設の職員は表面的には、障がい者の方を応援したり、サポートしたりする仕事なのかもしれないが、私の場合は逆だ。

この人たちの生きる姿をみて、私のほうが生きる力をもらっている。

幸せとはなにかはそれぞれ答えが違うかも知れないが、お金があっても幸せにはなれない、ということだけは断言ができる。

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