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高校3年生の夏の出来事を浄化したい

何度も書いては辞めを繰り返し…気づいたら数ヶ月が経っていました。やっと、この出来事に終止符を打つことができました。
だから最後にここに残そうと思います。辛かったこと、苦しかったこと、あの夏と今日までの想い。2023年をもって浄化します。

高校3年生の夏の出来事とは、
コンクール1週間前くらいに部活でのストレスに限界がきて過呼吸がきて倒れて、そのまま心身ともに辛い状態のまま夏が終わった、私にとってトラウマの出来事のことです。


吹奏楽部って女の子の世界でいざこざがどうしても多いし、実力と人間関係でぐちゃぐちゃしやすい環境だと思う。そこで苦しんでいる人もきっと多い。そんな人たちに届いたら嬉しいなって想いも込めて。私みたいになる人がいなくなりますように。読んで苦しくなってしまったら、最後の教訓だけでも眺めて帰ってください。「逃げ」は悪じゃない。自分を守る最後の手段です。でも、自分を守るために死に逃げちゃだめ。
音楽はずっと私たちの味方です。

あの頃に書いていた日記とコーヒーを片手に。あとはハンカチを用意して。
あの時を思い出して泣くのは今日までにします。

それから、一部とても失礼なことを書いています。でも私の素直な気持ちを残しておきたいんです。私ははどこかに残したいんです。気分を悪くされたらごめんなさい。


♩.•


中高の6年間、吹奏楽部でアルトサックスを吹いていました。その形とキラキラとソロに憧れて希望を出して、第一希望の楽器になった時はそれはそれは嬉しかった。中学2年生の時には楽器を買ってもらいました。親には感謝です。

中学校は地区大会万年ビリの超下手な学校。
そんな学校育ちだったけれど、私が1年生の時の3年生の先輩はアンサンブルで県大会まで進んでいて尊敬していた。そんな先輩に憧れて練習し、同年代のサックス3人でアンサンブルコンクールに出場し、私たちも県大会に進むことができた。部内の他の子はそもそも出場さえさせてもらえないレベルだったので私たちサックス3人は誇りを持っていた。その年、中学最後のコンクールは数十年ぶりに県大会まで進み、有終の美を飾って幕を閉じた。
だから、高校では県大会常連校に行こうと決め、その高校に入ることができた。


高校の県大会常連校の世界はすごかった。同じ新入生も県大会くらいなら常連、なんならもう一つ上の東関東大会出場レベルもそれなりにいた。
人数も3学年で100人バンド。コンクールメンバーは部内オーディション必須。熾烈な枠争いを見て、1年生の私は来年のことを考えてひやひやしていた。アルトサックスは1学年当たり2人いる。しかしコンクールに乗れるのは2~4人。2年生になった時にコンクールに出られるかはかなり怪しい。私が1年生の時のコンクールメンバーは2人だった。

そんな中で、私は自分のレベルの低さがわからないほど下手だった。高校1年生の夏の部内ソロコンテストでそのことが明らかとなった。順位は下から数番目だった。でも、もちろん私はコンクールに出たい。ただ、私のレベルと相方のレベルと枠を考えた時、落ちるのは100%私だった。先輩も相方も、他の人もみんなそのことに気づいているだろう。

悔しかった部内ソロコンテストのあったこの日、私は来年のコンクールに乗ることを誓った。
下手なことに気づいて落ち込んでいたけれど、そんなことしていても仕方ないから、その日から勉強時間と寝る時間以外は部活のことばかり考えていた。

一つ上に同じアルトサックスの憧れの先輩がいた。上手なだけじゃない。その言葉選びや価値観や、行動のすべてがかっこよかった。副部長で自分の練習時間も満足に取れていないであろうにもかかわらず、お願いすると1on1で練習してくれた。ちょっと意識を変えたことにもすぐに気付いて褒めてくれる。いつも気にかけてくれて本当に有難かったな。だから、ただコンクールに出るだけじゃなくて、この先輩と一緒にコンクールに出たいと思った。チャンスは来年の一回だけ。

その先輩は忙しくいつも練習に付き合ってはもらえない。それに異なる楽器の人と関わればもっと違うことがわかるかもしれないと、先輩から同級生までたくさんの部員と1on1で練習した。
夏から冬まで、誰よりもうまくなることを考え、誰よりも練習した自信がある。

その年の部内冬のソロコンテスト。私は全体7位、学年で1位をいただいた。今までの伸びしろ点が入ってはいるけれど、ようやくオーディションで戦えるだけの実力をつけることができた。

そして高校2年生の夏、晴れて私はコンクールメンバーになった。憧れの先輩と二人で。
私の相方はめちゃくちゃ上手だった。それなのにメンバーにはなれなかった。この頃の実力は私が少し低いくらいだったと感じている。先生からの評価点は同じだった。しかし、私の高校は部員票制度があった。部員も決まった数だけ、メンバーにふさわしいと思う人に投票する制度だ。同じ楽器の人には投票できない。アルトサックスに入れられる票数はコンクールメンバー数の0~3票。全部入れる必要はない。ここでの差が大きかった。他楽器の人と交流が実を結んだのだ。

このコンクールオーディションは様々なところに影響を及ぼす。部内の雰囲気はもちろん悪化する。メンバーとそのほかで真っ二つに分かれる。どうしようもないことだけれどピリピリして、メンバーの私が言っていいことではないけれど辛かった。
クラスの同じ部活の子は私を含めて4人。一番私に懐いていた子だけが落ちた。オーディションの日からぱたりと私に話しかけてこなくなった。
そういった雰囲気やわずかな態度の違いを節々に感じていた。それはコンクールが終わってもなお続く。


相方と「二人で後輩の面倒といろいろ頑張っていこうね」と先輩の引退式あたりに決めた。何事も相談して決めようと。その時はまだよかった。ただ、冬が近づいてきたころ、相方の態度が変わってきた。その頃、私はスランプに陥っていた。先輩という心の支えが無くなってしまったこと。目指すものが無くなってしまったこと。それに加えて相方の態度が悪くなったこと。そのとき相方の実力が伸びていることを微かに感じとっていた。
私が相談しても「勝手に決めていいよ」とすべてを放棄されるようになった。私には部内での役割が二つあった。二つもあるのは部員でも私だけ。責任があることは喜ばしいことだけれど、全部を完全に自分で背負うしかなくなってしまった。
その責任と相方の態度の激変、そしてスランプ。
もう、全部が辛かった。

私の高校の吹奏楽部は3年生まで基本部活に参加して、3年生の夏のコンクールを機に引退することになっています。ただ、その前の2年生の3月の定期演奏会で早期引退することも可能です。代々2~5人くらいは早期引退して受験に向けて勉強する人もいます。正直、私はそこで早期引退しようと思っていた。夢も目標ももう無かった。スランプも数ヶ月、もう抜け出せる自信が無かった。これ以上続けたらサックスや吹奏楽が嫌いになりそうだった。ただ、私の代はその早期引退がほとんど出なそうだった。しかもその段階で “辞めた人がいない唯一の代” でそれに水を差すのが嫌だった。早期引退した後、部員が私のことをどんな目で見るのか、そう考えると怖くて出来なかった。

私は続けることを選んだ。

春には新入生が入って忙しくなった。練習時間なんてほとんど無い日がしばらく続いた。目まぐるしく日々が過ぎていく。スランプも抜け出せず、相方だけでなくパートの同級生との仲も悪くなっているように感じていた。避けられている、と思った。

春をすぎても夏がきても変わらなかった。
心はずっと疲れていた。でも、抜かされたくない、ソロも吹きたい、あの憧れの先輩みたいな人に私はなりたい一心で、毎日目の前のことをとにかく頑張った。きっとそうやって心の叫びを無視し続けていた。


最後のコンクール1週間前
お昼休みを終わる頃、過呼吸になった。それまで何度か合ったけれど、家にいる時かつそれほど酷いものでもなく、一人やり過ごしていた。
でもその時は違っていた。お昼後のパート練のことを考えると怖くなった。行きたくなかった。でも行かなきゃ行けないと自制して、行かないと、と思っていた。でもそう考えれば考えるほど、過呼吸は酷くなっていった。
自分じゃどうにもできないけれど、きっと時間が経てば落ち着く。誰にも迷惑かけたくないし、知られたくない。頼れる人も信頼できる人もいない。トイレに駆け込んで、落ち着くのを待った。誰から心配して練習くれるかもしれないと、淡い期待を持ちながら携帯を握りしめていた。けれど、パート練がはじまる時間がどれほど過ぎようと誰からも練習が無かった。「私はあそこにいなくてもいいんだな」と思った。

落ち着く気配がなくてこのままじゃ死んじゃうんじゃないかと思い、張って廊下に出た。

真夏の学校のトイレの個室
続いて、真夏の学校の廊下

暑い
苦しい
辛い
怖い

「私はいらない人間なんだ」

それだけが頭の中に強く反響していた。


体内の酸素濃度が上がると身体は痺れるらしい。左半身がピリピリしている。携帯もどこかに落としてしまった。視界が暗くなってぼんやりしていた。

少しずつ辺りの音が大きくなってきていた。
そうか、パート練が終わって合奏が始まる時間か。

なんとなく声をかけられているけれど、返事をする気力すらもう無かった。
気がついたらクーラーの聞いた部屋に寝かされていた。
のちのち聞いたところ、真夏の廊下に居たのに汗ひとつかいていなかったらしい。身体はこの時からおかしくなっていった。


コンクール前だから、次の日だけはお休みして部活に行った。コンクール5日前ほど。
コンクールのパートの人全員と部長とで話し合いの場が設けられた。もしかしたらこの時が一番辛かったのかもしれない。
“1対大勢”の状況でひたすらに責められた。「あの時の私の態度が嫌だった」「あの言葉が引っかかって嫌になった」「なんで私たちのこと考えてくれないの?」それをパートの人みんなから言われた。私はみんなのことを考えて、意見も求めて、新入生だって欲しい子を言い争いながら頑張って自分のパートに入れたのに。どうして私はこんなに責められているんだろう。訳が分からなかった。それに、倒れた2日後。心を守る手段はもう無い。全部が一撃必殺。なんで今日来ちゃったんだろうなって。

そんな状況でコンクールを迎えた。普通にステージに乗った。私一人、「どうかここで終わりますように」と願った。残念ながら、県大会に進むことになった。こんな思いの人がここに居ちゃいけないと思った。辞めたかったけれど、責任感から辞めれなかった。

それからずっと吹くのがしんどかった。
どうしてもマウスピース(吹く部分)を咥えないと吹けない。咥えるだけで吐き気がした。音が頭の中に響いて頭が痛い。自分のだす音が悪くなっているのに気づく。自分の音も嫌いだ。

合宿があった。とてもじゃないけれどまともに座っていることさえしんどくて行ける状況じゃなかった。でも、「メンバーは行かないとだめだ」と先生に言われて行かされた。熱が出っぱなしに気づいたのはこの頃。きっと熱中症になったあの日からずっと熱が下がっていない。そのまま合宿に行った。みんなと同じ生活を送れるはずもなく、合奏だけ出て、あとは寝ていた。迷惑をかけているのも辛かった。

ソロは相方に取られた。あれだけ練習したのに。でも当たり前だった。私どんどん下手になっていった。というか、調子を崩し、吹きたくないのに吹いている。咥えるのさえ気持ち悪い。いい音が出るわけが無い。

音楽も
吹奏楽も
サックスも
アルトサックスも
同級生も
後輩も
音楽も
音楽室も
自分も

ぜんぶぜんぶ、大っ嫌いだった。
死にたかった。

帰る度に見える、夏の綺麗な夕日が憎かった。
私はこんなに辛いのに、夕日どうしてあんなに綺麗なんだろう。
電車で向かう学校。駅からなんど飛び込もうと思ったか。
帰り道の道路。なんど車の前に飛び出そうと思ったか。
苦しくない死ぬ方法をなんど調べたことか。
楽器を壊してやろうとなんど思ったか。

笑えない時ってあるんだって思った。

ストレス性難聴を知っていたから、耳が聞こえなくなることをなんどもなんども願った。
自傷行為が進んだ。髪を抜いて至る所にハゲを作った。口の中を噛んでは血を出す。
毎日毎日消えたいと思った
私が生きた痕跡、私という存在が消えればいいのにと思った。
夜は死ぬように眠った。全部に対して疲れていた。
朝起きるのが怖かった。

8月10日
わたしの19歳の誕生日
県大会の日

相方とは仲のいい振りをして、お昼ご飯一緒に食べた。仲良くていたい気持ちだけは無駄に持っていたから。そんなことなんでしたんだろうって、今では思う。

そしてやっと終わった。
私の代は、今までで一番上手な代だった。
だから、終わってしまったことに先生はとても悲しんだし、みんなも悲しそうだったけれど、一人内心ほっとした。地獄の日々の幕が閉じた。


残りの夏は体力を戻すことに尽力して、なんとか身体は復活した。でもこの一連の出来事は大学4年生の冬、約4年半消えることの無い深い傷になって、まとわりついていた。

受験生の夏は無かった。そのまま勉強も間に合わず浪人して、大学に入って今に至る。



高校の吹奏楽部の人たちとは縁を切った。同窓会とかで度々出席を聞かれるけれど、全部無視していた。(連絡もせずごめんなさい) もう、私は死んだことにしてしまいたかった。私という存在を消してしまいたかった。

夏になると思い出した。
寂しい夜に思い出した。
たまに過呼吸が出てきそうになる時があった。
その度にあの日々を思い出しては悪化しないことだけを考えてなんとか落ち着かせた。


この出来事に何度苦しめられたかは分からない。
大学生の間、頭の片隅にはずっとあって、忘れたくても忘れられなかった。部活の記憶全部、無くなっちゃえば良かったのに。

このおかげで、私は自分がHSPであると気づいた。対処方法を知って少しは生きやすくなった。でも、HSPでなければこんなに辛い思いしないですんだような気もしていた。



♩.•



でも、
思い出しては辛くなることは無くならないかもしれないけれど、
部活の人には永久に会いたくないけれど、
やっと吹っ切れたような気がする。

私という人間や世界は何も変わっていない。
変わったのは自分の見える世界だと思う。

世界の広さは知っていた。でも腑に落ちて分かってはいなかった。やっと世界の広さを感じられた。
HSPだからここまで辛くなったかもしれないけれど、HSPだからこそ気づけることやその繊細さが私は長所だと思えるよつになった。それに、吹奏楽は嫌いになって、もうずっと聴けてないけれど結局音楽は辞められなかった。ピアノもまだまだ弾くし、YOASOBIもくじらさんも好き。
先日のくじらさんのライブで「音楽はみんなの味方だよ」って言ってくれて、やっとそう思えた。大学生の間、コロナで辛い時も、やりたいことが思うようにできない時も、やっと進めた時も、寂しい夜もずっと傍に音楽はいた。私の人生を彩ってくれた。音楽は私の味方だって気づけた。

それから、逃げることを知った。
“続けること” は得意だった。一方、辞めてしまうのが怖かった。続けたからこそ得られるものを得たかった。でも、合わない環境で続けることは辛いし、成長率も低い。だったから頑張る場所は変えた方がいいって分かった。

逃げは悪じゃない。自分を守るためにも必要なこと。



♩.•


さいごに、

何度も「死にたい」「消えたい」と思っている
あの時のわたしへ

世界は広い。
今、周りの人が全員敵でも、いつかとんでもなく強い味方が現れる。
今、辛くても、それはあなた今生きている世界が辛いことだらけなだけ。辛くない世界もある。
世界が辛くて死んでしまいたいなら、優しい世界を探しにいけばいい。

辛かったら逃げていい。辞めていい。
その代わりに、あなたに合う場所を探す旅に出て。

人でも本でも音楽でも、なんでもいい。
たくさんの人と出会って、たくさんの本を読んで、たくさんの音楽を聴く。
それだけで大丈夫。

逃げていい。辞めていい。
ただ、私は生きて欲しい。

これからは私に合う場所で生きていけばいい。



今が辛い、誰かの元へ届いたら幸いです。

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