20時過ぎのティータイム noteにて

月光と紅茶とは、20時過ぎのティータイムとは

開口一番に月光と紅茶とは、20時過ぎのティータイムとはと言ったが、それらが何を指すものなのか分からない人もいるかもしれない。
「とは」と説明するのだから、相手が知らないことを想定して書いているのにこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、だけれど説明を受ける時というのはそのものをより詳しく知るために聞くことが殆どだろう。
だからまずは、私、「月光と紅茶」の説明をする。

そう、月光と紅茶とは私のことである。これは私が月光紅茶ということではなく、私が使っている名前が「月光と紅茶」ということだ。名前に「と」と付くと文章で見た時に非常に分かりづらいという大きな欠点があるが非常に気に入っている名前だ。
月光と紅茶と書いてムーンライトティーとルビを振る。(ルビが振ってあればなんとなく固有名詞だと分かると思うが、noteでルビが振れるのかもよく分かっていない)
この名前は“月光の入った(月光を浴びた)紅茶”と“その風景”を意味している。

そしてそんな名前を名乗っている私について、月光と紅茶とはどんな人間なのかについて少しだけ説明したい。

月光と紅茶とは

私、月光と紅茶は趣味で小説を書いている、他の何でもない一般人である。
書いている小説も親しまれているとは言い難く、一人二人読んでいるかどうかといった具合だ。(その小説は主に小説投稿サイト「カクヨム」で公開している)
そんな感じだけど、私はこの小説が好きだ。自分で創ったものだから、観たいものを書いているからというだけじゃなく、特に何でもない私に「これを書いている」というアイデンティティをくれたから。
小説を書いていることが私のアイデンティティであり、私、月光と紅茶は趣味で小説を書いている、他の何でもない一般人である。


そして月光と紅茶について説明したなら次は20時過ぎのティータイムについて説明しないといけない。

20時過ぎのティータイムとは

今度は簡潔に説明しようと思う。
20時過ぎのティータイムとは、要は団体名のようなものなのですが今のところ月光と紅茶のみが加入している状態であり、別に誰かを加える予定もないものです。
使い分け方は、個人ではなく拠点として扱う時の名前という感じですね。


長々と前置きを話してきたけれど、そろそろ本題のnoteにてについて話していこうと思う。

人形劇と人形劇記

私の書いている小説『人形劇』のテーマの一つは「人間性、そして人形性」であり、この「人形性」についてよく考えている。
「人形とアンドロイドの違い」「人形の像について」そしてそんな創作や人形そのものに対する自己解釈を綴ったものが「人形劇記」である。
今まで作品の解釈に悪影響があるのではと公開していなかったが、ふと、こういった考えがあるのにそれを話さないのは勿体ないと思いこの「人形劇記」を発信していくことにした。
それによって『人形劇』に興味を持ってもらえたら、人形に対する考えが変わったらと大層なことを願ってみたりしている。

ただこの「人形劇記」は殆どが私の自己解釈であるが最近は少し資料漁るようになり時折、何らかの資料や創作物に影響され新しい解釈が生まれることもある。けれど「人形劇記」自体には厳密さはなく、あくまで月光と紅茶の解釈であるということだけ注意してほしい。

おわりに

このテキストは20時過ぎのティータイムがnoteにて何をしていくかの表明であると同時に、noteの機能を試す為に書いたものです。その為あまり真剣に捉えないことをオススメします。


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