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人間前夜 第十三話(最終話)

第十三話 安斎 日葵 


 安斎日葵は、出来損ないの男の小指をペンチで捻じり上げた。

 ぺきっ、という小気味良い音を奏でるよりも先に、だらしない悲鳴が聞こえた。

「日葵、やめてくれ! お願いだ! 何でも言うことを聞く! 結婚でも何でも一生言うことを聞く! だからお願いだ! 助けてくれ! 何でもする!」

 小指に続いて、薬指、中指、人差し指、そして親指と続けるつもりだったのに、小指さえ捩じ切っていないうちに命乞いの懇願をされては、せっかく盛り上がった気分が台無しだ。

 獅戸冬規はウサギの着ぐるみを着た隈倉靖男を二十七階から突き落とした後、しばらく放心状態だった。

 階下に警察が大挙して押し寄せてきて動揺したのか、日葵が強要したわけでもないのに、病院長である父に助けを請うた。

「お義父とうさん、すみません。人を殺したかもしれません」

 なにがオトウサンよ、と思ったら、日葵の怒りは何十倍にも膨れ上がった。

 日葵は、冬規が殺人を犯す一部始終をエレベーターホールの物陰から全て見ていた。

 冬規という男は、焦ると保身に走るくせに、致命的に優先順位を間違える愚かさがある。殺人の証拠となる映像を真っ先に処分すべきであるのに、病院長の義父に泣きつくことを最優先にした。救いようのない最悪のミスだ。

 冬規を愛おしいと思えたのは、胎芽発生エクト・ジェネシスによる新時代の子作りに興じていた頃までで、愛が冷めきってしまえば憎悪の対象でしかない。

 お人好しだけが取り柄の隈倉に求婚されたが、両親に養ってもらっている無職の分際で、よくもまあ結婚など申し込めたものだ。隈倉の世間知らずぶりには驚きを通り越して笑いが込み上げてきたが、いい加減にその存在が鬱陶しくなってきた。

 冬規に復讐するついでに隈倉も消してしまえる一石二鳥のアイディアを思い付き、日葵は実行に移した。

 血の繋がらない我が子の頭部をマンションの外に放擲し、告発の置手紙を残して冬規をおびき寄せ、日葵の奴隷である隈倉靖男に撮影させた。全てを日葵が計画したとはいえ、何もかもが思い通りに行き過ぎて拍子抜けだった。

 日葵は、病院長に電話をかけていた冬規にスタンガンを押し当てた。殺人の証拠となる記録映像を押収し、意識を失った冬規を2703号室に引きずり込んだ。女の細腕で六十キロ以上もの肉の塊を引きずるのは骨が折れたが、何とかやり遂げた。

 冬規を荷造り用のロープで縛り、脱走できないようベッドの脚と左手首を手錠で繋いだ。冬規はスタンガンのせいで意識が朦朧としていたが、ペンチで小指を捻じり上げてやると、程なくして覚醒した。

「日葵、やめてくれ! 頼む! やめてくれ!」

「うるさい。一丁前に痛がるんじゃないわよ」

 泣き叫んではいるものの、その実、痛覚などない。痛そうなふりをしているだけ。心の底から痛いなんて思っちゃいない。そもそも心なんてない。嘘泣きだ。そうに決まっている。

 冬規に拷問さながらの責め苦を味わせたところで、日葵の気は晴れそうにない。鉈で頭部を切断し、四肢をバラバラにしたぐらいでは、燃え上がった復讐心は失せやしないだろう。

 一連の加虐行為は、血の繋がらない我が子をいたぶったときに体験した。

 二度繰り返すのも芸がない。

 冬規の脳天目がけてゴルフクラブを振り下ろし、骨を砕いて脳みそをぶちまけさせたとしても、大して爽快な気分にはなれない。

 部屋の外では、幾度もインターホンが鳴らされていた。モニターの向こうに、ずらりと警察官が顔を揃えているが、突入してくるような様子はなかった。日葵と冬規を監視していた私立探偵の姿もあった。

「獅戸冬規、あなたに殺人の容疑がかかっています。扉を開けなさい」

 殺人容疑だけでは突入できない決まりなのか、あるいはベランダからの逃走経路を塞ぐための時間稼ぎなのかは分からないが、警察官たちは2703号室の扉をこじ開ける実力行使には及ばなかった。冬規か日葵が自主的に扉を開けない限り、この部屋は安全なようだ。

 冬規は胎芽発生による子供を作るにあたって、日葵に約束事を授けた。

 子供をこの部屋から一歩も外に出さないこと。

 まるで動物園の檻のような扱いであったが、今は皮肉にも冬規自身が檻の中だ。

 日葵の手の内には、冬規が隈倉を死に追いやった映像がある。それだけでも動かぬ証拠であるが、ウサギの着ぐるみに冬規の指紋なり、冬規が着ている服の繊維片なりが付着していれば、隈倉殺しの一件は冬規の仕業ということで決着するはずだ。

 しかし、2703号室には胎芽発生により生まれた子供の切断遺体が放置されている。子供をバラバラに分解したのは日葵であり、警察に日葵の関与を疑われるのは厄介だ。

 復讐のために進んでやったことだが、いざ警察を目の前にして計画の変更を思い立った。

「あなた、このままだったら殺人犯だけど、わたしの証言次第では正当防衛だと主張することもできなくないわよ」

 冬規という男に未練はなかったが、この男にはまだ使い道がある、と日葵は考えた。

「は? どういうことだ」

「あなたを庇ってあげてもいいわ、ってこと」

「それはありがたい。どうすれば正当防衛を主張できる?」

 日葵の加虐行為から逃れることに精一杯だった冬規は、ペンチで指を捻じり上げられる心配が遠退くと、関心事はもっぱら自己保身に移った。つくづく自分のことばかりだな、と日葵は辟易した。

「あなたが突き落としたウサギさんは隣部屋の2702号室の住人よ。わたしに惚れてて、あなたがいない時によく言い寄ってきたの」

 そこまで言えば、悪知恵の働く冬規には十分だった。

「君を我が物にしようと変装して押し入ってきて、君に子供を殺せ、と命じた。しかし私と遭遇して揉み合いになった。ウサギ野郎が落下したのは自業自得で、私は正当防衛だった、というわけだな」

「まあ、そんなところでしょうね」

「分かった。その線で行こう」

 冬規は手錠に繋がれたままの左手を動かし、さっさと解放してくれ、と要求した。

 このような状況になっても、いまだ男性上位の振る舞いが見え隠れする。

 やはり一度ぐらい死ななければ、勘違いした態度が改まることはないのだろう。

「あなた、自分の立場を理解していないでしょう。わたしは庇ってあげてもいい、と言っただけ。庇うかどうかはあなたの心掛け次第よ」

 日葵は冬規を足蹴にし、冷ややかに言い放った。力関係は完全に逆転しており、床に這いつくばった男を踏みつけるのは快感だった。

「わ、悪かった。反省する。正当防衛になるよう、証言してくれ。頼む」

「言葉遣いがなってないわね」

 日葵は床に這いつくばっていた冬規を思い切り蹴って転がし、仰向けにさせた。無防備になった男根を躊躇なく踏み潰す。冬規は断末魔の悲鳴を上げた。

「おっ、うっ……」

 足裏で揉みしだいてやると、力のなかった肉棒が次第に硬度を増した。屈辱と肉欲がない交ぜになった背徳の表情を高みから見下ろして、日葵は満足げな笑みを漏らした。

「ひ、日葵さん。日葵様。どうか正当防衛になるよう、なにとぞ証言をお願いいたします」

 恥も外聞もかなぐり捨てて、冬規は嗚咽交じりに懇願した。なりふり構わず、助かろうと足掻くどうしようもない人間臭さは、愚かで美しくさえあった。

「ねえ、冬規。わたしがなぜ子供を殺したか分かる?」

「分からない。いえ、分かりません」

 自主的に言葉遣いを改めた従順さに免じて、教えてやることにした。

「あの子供って、あなたの精子とあなたの卵子が合体した子なんでしょう。わたしの遺伝子は混ざってない。そうよね?」

 冬規は力なく頷いた。素直に認めたほうが怒りを買わない、と判断したのだろう。

「わたしにぜんぜん似てないから、変だなと思ったんだ。研究室の助手に聞いたわ。被験者から採取した細胞片を初期化して、分化を誘導し直せば、男の細胞から卵子も作れて、女の細胞から精子も作れる。つまり、あなたは自分の精子と自分の卵子を掛け合わせて、自分のクローンを作ったも同然ということね」

 胎芽発生により生まれた子供は、日葵と冬規の遺伝子を半分ずつ受け継いだのではなく、冬規だけの遺伝子を受け継いでいた。

 どおりで日葵にはこれっぽっちも似ず、冬規と生き写しのようだった訳だ。日葵の細胞片は利用されることことなく廃棄されていた。

「わたしが十五歳で妊娠した相手は実の父だった。実の娘を犯しておいて、妊娠したら腹を殴りつけて堕ろさせようとした。男って、どうしてそういう自分勝手なことばかりするの?」

 日葵は無表情のまま、冬規の男根を踏み潰した。冬規はのた打ち回って悶絶した。

「自分の細胞さえあれば、精子と卵子、どっちも用意できて子供は作れるんでしょう。だったらもう男も女も不要じゃない」

 日葵はモニターの向こうに映る警察官たちに冷笑を浴びせた。

「冬規、あなたが正当防衛になるよう証言してあげる。その代わり交換条件があるわ」

「……なんでしょうか」

 すっかり脅えてしまった冬規は身じろぎするのも苦しそうだ。性器は潰れ、もう役立たずになっているかもしれない。だが、用済みになるのは男性性だけではない。

「今後、胎芽発生エクト・ジェネシスにより子供を作る時は、すべてわたしの卵子とわたしの精子から作りなさい。他の被験者の時もそうしなさい。人工子宮の技術が普及してからもずっと、そうしなさい。わたし以外の細胞を使わないこと、それが交換条件よ」

 そうなれば、いずれ地球上から日葵以外の遺伝子が駆逐される。

 世界がまるっきり単一になってしまえば、もはや男も女もない。
 
 日葵が共通規格となり、人類を編集し直すのだ。

 地球規模での人類編集活動ムーブメントとなれば、これ以上の復讐はあるまい。

「冬規、あなたは余計なことはしないで」

 身の程を知った男に、改めて立場をわきまえさせるため、日葵は注射器を構えた。冬規の首筋にマイクロチップを埋め込み、誰が「飼い主」であるかを半永久的に刻印した。

「ただ、子供を産む機械であればいいの」

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