人間前夜 第七話
第七話 興津 武郎
月詠警察署住民相談係主任の興津武郎がメゾン・ド・コモレヴィのエントランス前に戻っても、刑事課の面々は到着していなかった。
すぐさま応援が駆けつけられないほど刑事課の手が足りていないか、部下である高比良花南の報告がまずかったせいで、さしたる緊急性のない案件だと見なされたか、のどちらかだろう。
「刑事課に応援は要請したんだよね」
興津が問うと、高比良が申し訳なさそうに頭を下げた。
「月詠駅前のタワーマンションで飛び降りがあったようです。そちらに人を割くので、こちらの案件は後回しなのでしょう。私の説明が悪くて、わざわざ人員を割くほどではないと思われたのかもしれません。興津さんがいるならお任せして大丈夫でしょう、と言われました」
「それなら仕方ない。私も刑事課を離れて、ずいぶん経つんだがね」
興津がぼやくように言った。
「あの……、主任はどうして刑事をお辞めになったのでしょうか」
「高比良さんは聞いたことない? 当時はけっこう噂になったと思うけど」「あまり噂話などには加わらない方なので」
「ああ、そう。それじゃあ知らないのも無理はない」
興津は遠い目をして、訥々と話し始めた。
「私の息子も警察官でね。神奈川県警の第一交通機動隊に勤める巡査だった」
犯罪を取り締まる刑事として奉職した興津は、家族のことなどそっちのけで犯人を追いかけ回す日々だった。
それでも、一人息子の武文が警察官になってくれたことは喜ばしく、興津は誇らしい気持ちでいっぱいだった。
子供は親の背中を見て育つ。
子供に何もしてやれなかったが、興津の生き方は間違いではないと自信が持てた。しかし、その自信が根底から崩れる事件が起きた。
八十代の独居老人宅に「振り込め詐欺の犯人グループが、あなたの口座から不正に現金を引き出した疑いがあります。これから署の者を行かせます」との電話がかかってきた。
老人宅にやって来たのは本物の警察職員で、老人は金融機関のキャッシュカードを封筒に入れるよう指示され、言われるがままに従ってしまう。
「神奈川県警の署員です」と名乗った男は、老人が目を離した隙に、別の封筒にすり替え、まんまとカードを盗み出し、その場を後にした。
このカードすり替え型窃盗事件を起こしたのが、興津の息子である武文だった。
特殊詐欺の撲滅を掲げる神奈川県警がよりによって身内から特殊詐欺犯を出してしまい、県警は対応に四苦八苦した。どのタイミングで逮捕するか、幹部クラスの間でも話し合いが持たれた。
ニュースでの扱いが小さくなるよう、逮捕から一時間以上遅れて記者発表を開いたが、もっと迅速に発表されるべきではなかったか、と多方面から非難を浴びた。
ギャンブルで数百万円もの借金があった武文が特殊詐欺を働いたのは一件だけではなかった。逮捕直後、「警察官という立場にも関わらず罪を犯し、申し訳ありませんでした」と反省の弁を口にしたが、バレなければさらに罪を重ねた可能性があった。
父である興津には何の非もないとはいえ、子の不始末の責任は取らねばならない。興津が辞表をしたためていると、武文がぽつりと「親父、俺が悪かった」と言った。
それが息子の最後の言葉だった。
睡眠薬を大量に飲んだ武文は、眠るように亡くなった。
我が子を失った悲しみで、興津の妻は精神に異常をきたした。錯乱は日増しに酷くなり、興津の周囲から親類縁者が蜘蛛の子を散らすように離れていった。
興津は辞表を提出したが、当時の上司に慰留され、妻の錯乱が落ち着くまでの当面、休職扱いとなった。興津の献身もあって次第に妻は体調を回復させた。
興津も警察に復職したが、もう刑事として働く資格もなければ、その気力もなくなっていた。
現場の警察官が仕事をしやすいように下支えする警務課に配置換えされた興津は、「もう二度と、私の息子のような不幸は繰り返させません」と宣言した。
どんよりとした曇り空を見上げた興津は、いかにも老人然として腰をとんとんと叩いた。
「ま、つまらない昔話さ。さっさと忘れてくれ」
「今は奥様はお元気なのですか」
高比良が生真面目な顔で訊ねてきたので、興津はほんのり笑った。
「そこそこね。そこそこで十分。家の庭の夏蜜柑がそろそろ色付いてきてね。もう少し熟れて酸味が抜けたらジャムにするんだって張り切っているよ」
「夏蜜柑ジャムですか。素敵ですね」
「きっと大量にできるから、高比良さんにもお裾分けするよ」
「本当ですか! 嬉しいです」
好々爺のように目を細めた興津は、他愛ない雑談に終止符を打った。
「雑談はお終い。さて、情報収集を続けようか」
「はい」
相変わらずフクロウ興運のゴミ収集車はアパート前に停まりっぱなしで、ゴミ収集員が戻ってくる気配もない。高比良はタブレットを操作し、アパートの管理業者から転送してもらった監視カメラの映像を再生した。
「主任、この映像をわざと迎田純也に見せて反応を伺うとの指示でしたが、何か不審な点はありましたか。私にはさっぱり……」
デスクワークが中心の住民相談係に、いきなり刑事の代わりをこなせ、というのは酷だ。
それでも高比良は案外うまくやってくれた。興津が事前に指示した通りに立ち振る舞ってくれて、おかげで迎田の反応を観察することができた。
「エントランス脇に回収不可の警告シールが貼られたゴミがある。あのゴミを出したのは、おそらく迎田だね」
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「目がはっきりと泳いでいた。あれは何かを隠している目だ」
「いわゆる刑事の勘というやつですか」
「錆びついた勘だがね。もうしばらく働いていない」
興津は自嘲気味に言うと、タブレットの映像をもういちど頭から再生した。
「映像にも不審な点がある。気がついたかい?」
「いえ……」
高比良は首を横に振った。
「ここを見てごらん。映像の端で見切れているけれど、ゴミ収集員が半身だけ映っている」
「それの何がおかしいのでしょうか」
画面の端っこで、ゴミ収集員は黙々とゴミを放り込んでいる。エントランスに設置された監視カメラは撮影範囲の広い広角レンズ搭載型だったおかげで、半身が見切れてはいるが、ゴミ収集員の行動の一部始終が捉えられていた。
「ここ、よく見て。ゴミを放った後、少しよろけた。それから前につんのめった。それっきりゴミ収集員が映り込んでいない」
「はあ、それが何か」
高比良はあまりピンと来ていないようだが、興津にはゴミ収集員が忽然と消えた「絵」がはっきりと見えていた。
「昼食前で申し訳ないけど」
興津は周囲を憚るように声を低めた。
「このゴミ収集員はプレート板に巻き込まれたのだと思う」
「う、そ……」
高比良がごくりと唾を飲み込んだ。
「分かるのはそれだけじゃない。家庭ゴミの収集は通常二人一組ないしは三人一組で行うのが自治体で義務付けられているが、このゴミ収集員はおそらく一人で作業をしていたのだろう。万が一、作業員がプレート板に巻き込まれたら、別の作業員が直ちにプレート板の回転を停止する決まりになっている」
ゴミ収集員がたった一人で作業しており、プレート板に飲み込まれて命を落としていたとしたら、後に残されるのは無人のゴミ収集車だけだ。
その道理であれば、プレート板がいつまでも回転し続けていたことにも合点がいく。
「通常二人でやるべき業務を一人でこなさせていたとしたら、フクロウ興運という会社は違法行為を黙認していることになる。ひとまず、この会社に問い合わせてみよう。業務日誌や勤務シフトと照らし合わせれば実態が分かるだろう」
興津が指示を出すと、高比良はさっそくフクロウ興運の事業所の代表番号を調べ出した。タブレットで検索したところ、連絡先はすぐに見つかった。
「助手席の首はどうしますか」
「鑑識に回して調べてもらう。まずはフクロウ興運に連絡を入れるのが先だ」
「分かりました」
高比良がフクロウ興運の事業所に連絡を入れた。
「こちら、フクロウ興運事務局でございます」
電話に応対したのは、事務員と思しき女性だった。
「月詠警察署住民相談係の高比良と申します。メゾン・ド・コモレヴィというアパート前にゴミ収集車が二時間以上停まっている件でお電話差し上げました」
「申し訳ございません。そのような苦情に関しては、ゴミ回収に参りました収集員に直接、申してくださいませ」
苦情に関しての返答マニュアルでもあるのか、まるで感情のこもらない声だった。
「収集員が不在にしており、業務中に事故に遭った可能性があります」
「事故……と、言いますと?」
「プレート板に巻き込まれ、亡くなってしまったのではないか、と」
「少々、お待ちくださいませ」
電話が保留状態になり、ずいぶんと待たされた。
「担当の者にお繋いたします。少々、お待ちくださいませ」
次々と電話の相手が代わり、高比良がたらい回しにされている間に鑑識課員が到着した。
「ご苦労様です。鑑識の本庄です」
興津は刑事課を離れ、十年近くが経った。鑑識のベテラン連中であれば大概顔見知りだが、本庄は見知った相手ではなかった。年齢は三十代そこそこといった風情であるが、事件捜査とは縁遠い住民相談係に呼びつけられたことに不服がありそうな顔だった。
「住民相談係の興津です。こちらを見ていただけますか」
興津は事件のあらましを説明すると、無人のゴミ収集車の助手席に放置された切断頭部を指差した。
顔は原形をとどめないほどに損傷が激しく、何かしらの鈍器で殴打されたのか、頬骨が砕かれて陥没している。口は半開きになり、真っ黒な歯が覗いている。
「これは作り物でしょうか。それとも人間の頭部と見て間違いないでしょうか」
「作り物であってほしいですね。どう見ても、まともな人間の仕業ではない」
あまりに惨たらしい破壊ぶりを目の当たりにして、本庄はわずかに顔を歪めた。
「作り物だとしたら、ずいぶんと精巧ですな。とても手が込んでいる」
興津が言った。
「3Dプリンターで作った顔型が空港や銀行の顔認証を突破することもあります。これが作り物か否か、即断はできかねますが、外見だけですぐに分かることもあります」
現場写真を撮影しながら、本庄が続けて言った。
「歯が真っ黒でボロボロになっています。親がきちんとしていれば、口腔清掃状態がここまで悪くなることはありません。虐待か、育児放棄の線が濃厚です」
歯は遺体が腐敗しても長く残るものであるため、身元確認の作業では歯科所見はことに重要だ。歯の治療痕やレントゲン写真と照合することで身元を割り出すことができる。
しかしながら、ここまで口腔状態が悪ければ、かかりつけの歯科医などはないと見るべきだろう。近隣の歯科診療所へ照会したところで、そもそも歯科に受診した記録がなければ、遺体の口腔状態と比較することはできない。
「推定年齢は?」
「最大でも十三、四歳といったところでしょうか」
「その根拠は?」
「親が常習的に子供を虐待していても、子供の年齢が上がるにつれて力関係が逆転します。十五、六歳にもなれば親に逆襲する力は十分にあるでしょう」
本庄の見解は所々、教科書的であった。
興津は嫌味にならない程度に、やんわりと付け加えた。
「肉体的には親を凌駕する力があっても、精神的に服従していれば反撃など考えられない。発育に何かしら障害があれば、親の言いなりになるのも仕方がないと思いますがね」
口煩いおっさんだな、と思われたのか、本庄は心なしか憮然としている。
「こちらは鑑識課でお預かりさせていただきます。結果は後ほど、ご報告申し上げます」
興津は現場の検証と記録を鑑識課員に任せ、フクロウ興運の事業所に向かった。
高比良がフクロウ興運に問い合わせ、ゴミ収集員が一人で作業に従事しているのは違法ではないかと問い詰めたが、電話ではのらりくらりと躱され、埒が明かない。
「ゴミ収集員とは個別に業務委託契約を結んでおります。収集員が一人で作業していたか、という件に関して回答する立場にありません。当該の収集員にお訊ねください」
高比良からバトンタッチした興津が憤慨し、声を尖らせた。
「その収集員の姿がないので、連絡を差し上げているのです」
「ですから先ほどもお伝えした通り、ゴミ収集員とは業務委託契約を結んでおります。業務を委託しておりますので、業務上の内容に関して回答は差し控えさせていただきます」
興津の電話の相手は何人も交代したが、口にする内容は判で押したように同じだった。
一見、それらしいことを言っているようにも聞こえるが、オブラートに包まれた本音は「業務委託だから、業務中にどんな事故があろうと知ったこっちゃない」ということに他ならない。
業務委託、業務委託、業務委託……。
耳にタコができそうなほど同じ言葉を聞かされ、興津はついぞ忘れかけていた刑事時代の勘がむらむらと蘇ってきた。
タクシーでの移動中、高比良が脅えたように言った。
「主任、目が笑ってません」
「あれだけ露骨に逃げを打たれると、何かを隠しているとしか思えない。これはもう直接、乗り込むしかないね」
「はあ……」
高比良の嘆息をよそに、タクシーはフクロウ興運の事業所に到着した。コンクリート塀の内側にゴミ収集車が何台も止まっている。二階建ての簡素なプレハブ小屋がどうやら事業所であるらしい。
興津は迷うことなく一直線に事業所の中へ入っていった。
「月詠警察署の興津と申します。少しお話よろしいでしょうか」
興津は室内をざっと見渡した。壁のあちこちにゴミ収集の巡回ルートを記した管内地図が掲げられている。在室中の職員は三名のみで、気怠そうにパソコンのキーを叩いている。億劫そうに立ち上がった中年の職員が応対した。
「お話するようなことは特にありませんが」
「こちらの車両に搭乗していた収集員の氏名を教えてください」
興津が車両番号を告げると、中年の職員は渋々といった顔つきで分厚いファイルをめくった。
「設樂福多、三十四歳。二〇二〇年から業務に就いています」
提示された顔写真付きの履歴書を、高比良がスマートフォンで撮影した。
「この方が運転手ですね」
興津が訊ねると、職員の目がわずかに揺らいだ。
「そうです」
「同乗者についても教えてください」
「少々お待ちください」
職員はキャビネットに保管されたファイルを引っ張り出してきて、いろいろなページを開いてはいるが、同乗者を調べるだけなのにやたらと時間がかかった。
「同乗者はいなかったということですか」
「いえ、少々お待ちください」
中年の職員は助けを求めるように、ちらちらと別の職員に視線を送っている。しかし他の二人は無関係を装い、きっぱりと無視を決め込んでいた。
「同乗者はいなかったということでよろしいですね」
興津が捻じ込むように言うと、中年職員は滝のような汗を流した。適当な履歴書を開き、興津の眼前に差し出した。
「お待たせしました。ええと、同乗者は……」
「嘘は吐かないほうが身のためですよ。そちらの同乗者の方に今この場で問い合わせますがよろしいですか。乗車記録、日報なども併せて提示していただけますか」
中年の職員がしどろもどろになっていると、強面の職員がすっと立ち上がった。
「設樂に同乗者はいません。以上です」
さっさと帰れ、とばかりの仕草をした。
「失礼ですが、お名前は」
「箕迫」
不潔な顎髭を蓄えた箕迫は、まるでゴリラのように筋骨隆々だ。
「箕迫さん、ゴミ収集は二人以上で行うべきですよね。ゴミ収集運搬作業は、収集運搬車両一台につき運転手一人、収集作業員一人以上で行わねばならない。神奈川県の収集業務委託共通仕様書にもそう書かれています」
興津は、あらかじめタクシーの中で調べていた内容を引用した。
「それが何か?」
箕迫はまるで悪びれずに言った。
「元来二人以上でやるべき業務を一人でこなさせるのは違法です」
興津が正論を口にするが、箕迫は不遜な態度を改めようとはしなかった。
「設樂の入社、コロナ禍の時期だろう。あの頃は感染対策だなんだと言われ、ゴミ収集車に二人以上が同乗することを禁じられた。その上、巣ごもり需要でゴミの量が半端なく増えた。ゴミ収集員が圧倒的に足りない上、業務は一人でこなせとさ。それがコロナが収まった途端、業務は二人以上でこなせだと。ふざけんじゃねえよ!」
箕迫が怒気を孕んだ声で言った。
「警察になにが分かるんだよ。え?」
箕迫はいちど火が付くと、すぐには怒りが治まらない性質であるらしい。口角泡を飛ばしながら、機関銃のようによく喋った。
「横浜なんざ、まだマシだ。歌舞伎町でゴミの収集をしてみりゃいい。ヤク中が使い回した注射器、精子入りのコンドーム、下剤、人糞まで入ったゴミ袋を回収してみろよ。コロナの時はマスクがゴミ袋からはみ出してて、持ち手にかかってんだぜ。俺らが汚い仕事を引き受けているから街のゴミが無くなってるんだ。なのに感謝もされねえ。ゴミ収集は二人以上で行えだと。コロナの時に仕事を始めたやつは皆一人でやらされてたんだよ、クソが!」
箕迫の言い分は理解できるが、だからといって業務を一人で行わせていいはずもない。
「設樂さんはプレート板に巻き込まれて死亡した可能性があります。業務を二人で行っていれば避けられた事故であったかもしれません。その点についてはどうお考えですか」
箕迫は肩を竦め、冷笑を浮かべた。
「運が悪かったね、としか言いようがない。死ぬときゃ死ぬ。そういうものだろ」
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