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線上のキンクロハジロ 第一話

あらすじ

 清澄白河にあるアニメーションスタジオ『ハバタキ』に所属する新人アニメーター・奥野登美彦は、月収十万円にも満たない薄給生活を送っていた。登美彦が所属するアニメーションスタジオ『ハバタキ』は下請け体質からの脱却を目論み、自主企画のアニメ制作を夢想する。
 林田社長は「ハバタキの宣伝になりつつ、辛いけど、楽しいアニメーター職をアピールするような物語」を考えるよう号令をかける。零細アニメーションスタジオ『ハバタキ』、無謀なるオリジナル企画、テイク・オフ!

第一話


 二月十四日。

 言わずと知れたバレンタインデーであるが、前日まで漂っていたはずの恋の予感は雲散霧消し、寄ってくるのは大口を開けた鯉だけだった。

 どうやら初デートの約束はすっぽかされたらしい。

 清澄庭園の中央には隅田川の水を引いた大泉水が広がり、穏やかな水面は木々の色を写し取ったような深緑色に染まっている。頬を撫でる柔らかな風も、池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの古風な建物も、池の端に石を転々と置き、そこを歩けるようにした磯渡りの歩道も、約束の時間を二時間も過ぎた今となっては、非日常的な雰囲気を醸し出す回遊式林泉庭園のあらゆる光景が忌々しく思えてならなかった。

 木製のベンチに所在なさげに腰掛けていた奥野おくの登美彦とみひこは朝方、職場近くの『小鳥コトリパン』で買い込んできた総菜パンをさして味わうことなく、ただただ機械的に咀嚼し、嚥下した。

 熟年カップルが仲良く連れ立ってそぞろ歩き、英国人もしくは米国人と思しき旅行者がしきりに写真を撮っている清澄庭園内で、根が張ったようにその場を動かないのは登美彦ただ一人だけだった。

 薄給のアニメーターである登美彦にとって、入園料百五十円は大金である。

 自身の描く絵一枚の値段にほぼ等しく、この金を節約すれば、小鳥パンでエビカツロールやジャーマンソーセージロールが買える金額である。そう思うと無性に腹が立った。

 職場近くにある小鳥パンは、一日百種類、千五百個ものパンをせっせと焼く品数の多さに定評があり、毎日通っても飽きがこない。五百円もあればボリュームたっぷりの総菜パンが二つと紙パックのジュースが買えて、なおかつ、お釣りがくるというリーズナブルさも魅力。

 この値段で経営が成り立つのか心配になるぐらいのロープライスをありがたく享受している登美彦は、折に触れ、神社で「来年も小鳥パンが潰れませんように」という、ささやかな祈りを捧げている。

 意中の彼女と園内で食べるつもりだった菓子パンまですべて平らげてしまった登美彦は、スマートフォンに連絡がないか、つぶさに確認するが、約束の時間前後から沈黙したきりで、これ以上はどんなに待っても連絡がくる気配はなかった。

 電話をかけても繋がらず、「おかけになった電話は電波の届かないところにおられるか、電源が入っていないためおつなぎできません」という定型メッセージが返ってくるだけ。

「せめて連絡ぐらいして欲しかったな」

 登美彦は誰にともなくぼやくが、無論、返事をするものは誰もいない。

 思えば、彼女のことなどほとんどよく知らない。およそ確実なのは、看護大学を出たての看護師であるということと、登美彦が過労でぶっ倒れたときに彼女に点滴をしてもらった、ということだけだ。

 ネームプレートには「飛田」と書かれていた。トビタではなくヒダと読む、と聞いている。

 都立の総合病院に配属されて間もなかったからか、プルプルと震える手で注射をしようとする手つきは見るからに危なっかしく、いちど針を刺すもうまく血管に入らず失敗。しきりに謝られ、もういちど刺されたが、やはり失敗。彼女は涙目になっており、さすがに三度目も失敗するのは申し訳ないと思ったのか、ぺこぺこと何度も頭を下げられた後、その場をそっと離れようとした。先輩ナースに交代してもらおうとしたのかもしれない。

 三年制の美術専門学校を卒業し、アニメーション制作スタジオに就職したばかりであった登美彦にとって、新人らしき白衣の彼女は他人のようには思えなかった。

 駆血帯を巻かれ、注射針をぶすぶすと刺された腕にはうっすらと血が滲んでおり、過労で頭はくらくらしていたが、登美彦は無理に笑って彼女を呼び止めた。

「何度失敗してもいいから、成功するまでやってくれていいですよ」

 結局、五度目で注射は成功した。彼女は失敗するたびにぺこぺこと謝り、血だらけになった腕はさすがに痛かったけれど、やせ我慢した。

「毎日きついと思うけど、頑張ってくださいね」

 余裕ぶってそんなことを口走ったのは、登美彦自身がそんな励ましを求めていたからかもしれない。白衣の彼女は両手で涙をごしごし拭うと、「ごめんなさい。ありがとうございます」と繰り返した。点滴が終わった後、「きちんとお詫びをしたいから」と言われ、連絡先の書かれたメモ帳の切れ端を手渡された。

 それから、ちょこちょこと連絡を交わすようになった。プライベートで会うことはなかったけれど、何度か顔見がてらに点滴を打ってもらった。薄給の身に点滴代は高くついたが、束の間の清涼剤と思えば惜しくはない。半年も経つ頃には彼女の注射の腕前は見違えるように上達しており、「奥野さんのおかげです」と言われると悪い気はしなかった。

「よかったら今度、病院の外でお会いできませんか。渡したいものがあるんです」

 そんなメッセージとともに指定された日にちが二月十四日であった。

 小鳥パンとコンビニと職場と寝床を往復するだけの荒んだ毎日を送っていた登美彦が、舞い上がらずにいられたはずもなかった。

 だが、淡い期待はバレンタインデー当日、粉々に砕かれた。

 彼女は約束の時間に姿を現さなかったどころか、連絡さえつかなくなっていた。

 飛田という名字の通り、どこか違う男のところに飛んでしまっていったのだろう、と思うことにした。舞い上がっていたのは自分だけだったのだと気がつくと、冷たい風の吹く、コートの手放せない季節に心まで寒々しくなった。

 登美彦がのろのろとベンチから立ち上がると、寄ってくるのは太っちょの鯉だけで、庭園内に観光客の姿は見えなかった。池の中腹あたりの浮島の手前にある石灯篭には、ユリカモメが十匹ぐらい群れている。軽く掴んだらぽきりと折れてしまいそうな長くて細い脚をしたアオサギは、まるで絵画モデルのように静止し、浮島の上に佇んでいる。

 水面のあちこちに、小型のカラスみたいに黒っぽくて、外見はアヒルだかカルガモっぽい鳥がお互いに適当な間隔を保ちつつ、二十匹ぐらいがぷかぷかと浮かんでいる。妙にずんぐりむっくりとした体型で、正面から見ると実に目つきが悪い。金色の目はひたすら無表情のままで、餌でも欲しいのか、群れから外れた一匹がこちらにすーっと近寄ってきた。

 よくよく見ると、後頭部に寝癖のような羽毛がぴょこんと飛び出しているのがチャーミングだ。少年漫画的に言えば「アホ毛」である。そのせいで、目つきはすこぶる悪いのに、どことなくすっとぼけた顔をしている。

 カラスのように光沢を帯びた黒ずくめではなく、墨汁を塗りたくったようなくすんだ黒で、羽根の下半分は白だ。生ゴミを漁り、大都会東京をサバイブしそうな逞しさや狡猾さを持ち合わせていそうな雰囲気は微塵もない。

「ごめんよ。パンはもう食べちゃったんだ」

 あいにく買い込んだパンはすべて食べてしまったし、庭園の出入り口に掲げられた案内板には「動物(鳥、カメ等)にはエサを与えないでください」との注意書きが貼られていた。

 手元のガイドブックによると、普段、鯉には餌を与えていいようだが、鯉は寒い期間は池の中に潜って餌を食べないため、十二月一日から翌年の三月二十日までは、鯉への餌やりは禁じられているようだ。餌やりは禁じられているはずなのに、庭園内の鯉はどいつもこいつも肥えて見えるのは気のせいだろうか。

 餌を求めて近付いてきたらしいアホ毛のカルガモもどきは、まったく媚びた様子もなく登美彦をじろりと見上げると、餌をくれないと見るやいなや、ぷいっと視線を逸らし、音もなくすーっと離れていった。

 去り際に一瞬だが、登美彦を小馬鹿にしたような表情を浮かべた気がした。

 カルガモもどきは群れの近くに戻ると、首を折り曲げ、くちばしを羽根に突っ込んで、じっとしている。狭苦しい夜行バスの座席で丸まって眠るような、いかにも疲れそうな姿勢であるが、あれでも休んでいるらしい。

 今度は別の個体が音もなく忍び寄ってきて、登美彦が手を伸ばせば触れられるほど近くに接近してきた。

 お風呂にぷかぷかと浮かぶ子供用玩具のうきうきアヒルみたいな黒ずくめの鳥が突如として大暴れを始めた。両手を大きく広げるように、黒と白のツートンカラーの羽根をばさりと広げ、金色の目がくわっと見開かれた。

 ぎろりと睨まれ、登美彦は思わずのけ反った。登美彦は金魚のように口をぱくぱくさせると、驚愕の表情で水面に浮かぶ黒い物体を見つめた。

 狂乱じみた暴れっぷりに、自然と視線が吸い寄せられた。もがけばもがくほど、ずぶずぶと沈んでしまう泥の河から必死に浮かび上がろうとしているかのようだ。忙しなく羽根をばたつかせ、ばしゃばしゃと水を叩き、どうにかして這い上がろうと足掻いている。

 その姿は、溺れる者が藁をも掴もうとする命がけの場面を連想させる。

 失意の登美彦の目には、そんな風に見えた。心には木枯らしが吹き荒び、どこまでも悲しみの深みへと沈んでいくように感じるのは、哀れな自己を投影し過ぎなのかもしれない。

 凪いだ水面に幾重もの波紋を投げかける傍若無人な振る舞いに、およそ悲嘆の色はない。どちらかといえば、怒っているようだ。

 ふらりと庭園を訪れた人間風情が縄張りを荒らすな、という威嚇のようでもある。

 ひょっとすると、雨乞いの儀式のようでもあるが、厳粛さは微塵もない。そこはかとなく無様で、珍妙な行動だった。

 溺れかけの名前も知らないその鳥に、訳もなく同情的な気分になった。このまま見捨ててはいけない。どうにも立ち去りがたく、登美彦はしばし黙って見守っていた。

 やがて、その鳥は雨乞いの儀式を終えた。ひとしきり大暴れすると、ついっ、とそっぽを向いた。ずんぐりむっくりの無愛想な鳥は一瞥をくれることもなく、何事もなかったかのようにすーっと泳ぎ去っていった。

 ――帰れ。ここは貴様の居場所ではない。

 惨めにも、そう諭されたような気がして、登美彦はすごすごと退散した。

第二話~


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