人間前夜 第十話
第十話 獅戸 正剛
「お義父さん、すみません。人を殺したかもしれません」
月詠済生大学病院の病院長である獅戸正剛は、昼食の直前にかかってきた電話の内容をうまく飲み込めなかった。
病院長の任期は二年。
病院で何かしら問題が起これば、病院の長たる正剛が矢面に立たねばならない。
非難の集中砲火を浴びるだけのサンドバックなどまっぴら御免であったが、近未来生命情報工学教室の教授との兼任を仰せつかった。
もうじきお勤めを終え、次の病院長にお役目をバトンタッチしようかという矢先に、義理の息子である冬規に泣きつかれた。
「……人を殺した? どういうことだ」
病院長室に来客はなく、正剛一人だけであるが、いつ秘書が訪れてくるやもしれない。
「ちょっと待て。人払いをする」
正剛は電話を一旦保留にすると、病院長室の外へ出た。「在室」と掲げられたプレートをスライドさせ、「不在」に変更した。
しかし、在室しているのに不在を装うと、後々面倒なことになる場合がある。正剛はプレートを「来客中」に改め、病院長室の扉に鍵をかけた。
「待たせた。人を殺したとはどういうことか、詳しく聞かせろ」
相手の顔が見えるテレビ通話ではないので、冬規が今どういう状況に置かれているのか、さっぱり分からない。冬規は憔悴しきっているのか、ぼそぼそ消え入りそうな声で喋るため、近頃めっきり耳が遠くなった正剛にははっきり聞こえず、苛立ちが募った。
「二十七階から落ちたんです。警察が大勢来てます。逮捕されるんでしょうか、俺」
冬規の説明は断片的で、まともな説明になっていない。
「警察? 警察が来ているのか」
「はい」
冬規はそれっきり黙りこくった。束の間の沈黙が、正剛には数十年の長さにも思えた。
正剛の一人娘である葉子は、正剛の教え子であり、近未来生命情報工学教室の期待の星であった佐藤冬規を伴侶に選んだ。
実直な研究者が家庭生活に不向きであることは正剛自身が証明しているため、夫婦の問題にはなるたけ口を挟まないでいるつもりであった。
佐藤冬規は勤勉で、信頼の置ける研究者であった。
だが、獅戸家に婿入りし、獅戸冬規となってから人が変わった。
獅戸父娘と同居する本宅以外に別宅があり、年若い愛人を囲っていた。夫婦仲はすっかり冷めきっていて、葉子は身辺調査のために探偵を雇った。
葉子と冬規を引き合わせ、結婚に太鼓判を押したのが正剛である、という引け目もあり、探偵への報酬は正剛が支払った。探偵から定期的に調査報告も受けているため、冬規の裏の顔はおおよそ承知している。
義理の息子の素行を調査することに抵抗を感じぬわけではなかったが、人の道を外れた振る舞いをする病巣であるならば、適切に処置しなければ癌になる。
義理はしょせん、どこまで行っても義理でしかない。
葉子は病院長職にある正剛を慮って、三下り半を突きつけることを躊躇っていたが、冬規は愛人宅に通い詰めるばかりでない悪行にまで手を染めていた。
研究資金の不正流用までしでかしていると知り、さすがの正剛といえど、庇うに庇い切れなかった。
その上、さらに人を殺した……だと。
嫌な予感が脳裏を過ぎり、正剛はくらりと目眩を感じた。
冬規が誰かを殺めるとしたら、二人に一人の可能性しかない。
本妻の葉子か、愛人の日葵か。
もし冬規が葉子を手に掛けていたのだとしたら、警察に突き出すだけでは生温い。
「誰を殺した?」
感情を押し殺し、正剛が平板な声で問うたが、なかなか返事は帰ってこない。
「……分かりません」
「分かりません、だと。そんなことがあるか!」
正剛は腹の底から怒りをぶちまけ、デスクを思い切り叩きつけた。
「誰を殺したのか分からないんです。でも、きっと死んだ」
電話の向こうで、冬規がさめざめと泣いた。
「お義父さん、どうしたらいいでしょう。助けてください」
この期に及んで助けを求めてくる勝手さに虫唾が走る。正剛は吐き捨てるように言った。
「私にはどうしようもない。処置なしだな」
正剛は一方的に通話を終えると、見たくもない現実から目を背けるように瞑目した。
間髪置かず、助けを請うような着信音が響き渡るが、正剛が応答することはなかった。
「葉子、電話に出てくれ」
娘の無事を祈りながら電話をかけたが、コール音が虚しく響くだけだった。
妻の怜子続いて、亡き妻に生き写しの娘まで失うのかと思うと、正剛は気が狂いそうだった。
葉子が高校生になった年、怜子は第二子を身籠ったが、無痛分娩の麻酔後に呼吸困難を訴え、回復処置の甲斐なく、母子ともに死亡した。
新生児死亡率、妊産婦死亡率、ともに世界有数の安全さを誇る日本では、妊娠すれば子供は必ず無事に生まれてくるもの、と信じられている。
医師免許を持つ正剛でさえ、目の前で妻を失うまで、妊娠と出産の危険性を過小評価していた。
正剛は最愛の妻を失って初めて、妊娠と出産が命がけの営みであることを思い知った。
怜子の死は、多感な女子高生だった葉子に暗い影を落とした。
めっきり口数の減った葉子と相対しても、正剛にはかける言葉がなかった。
人生を悟ったような目で見つめられると、「あんたが母さんを孕ませなければ、母さんは今も生きていた。母さんが死んだのはあんたのせいだ」と無言のうちに責められているような気がした。
正剛は、葉子の視線から逃げるようにして研究に没頭した。
手始めに、羊の胎児を子宮外で生存させることに成功した。
正剛が目指したのは、人工子宮に妊娠を「外注」できる未来だった。
佐藤冬規という懐刀を得て、正剛が思い描いた夢が実現されようとしていたのに、すべてがぶち壊しだ。夢は夢のまま潰え、冬規は犯罪者に成り下がった。
正剛には誰にも打ち明けていない密かな夢があった。
人工子宮『エッグ』が世界の子作りの在り方を変革した暁には、妻が生むはずだった第二子を生みだす。
幸い、正剛の手元には亡き妻の遺髪がある。
そこから細胞を抽出して初期化し、卵子へ分化誘導してやれば、怜子の遺伝情報を受け継いだ子を儲けることができる。
正剛の宿願が近く叶いそうであったのに、義理の息子が水を差した。葉子との離婚問題も、愛人問題も、研究資金の不正流用さえも、人を殺したことに比べれば些末なことだ。
この際、問題となるのは、冬規が誰を殺したのかという一点に尽きる。
正剛は祈るような気持ちで娘に電話をかけ続けていた。ずっと不通であったが、不意に葉子の声が響いた。
「どうしたの、父さん」
「葉子! 生きていたのか!」
まさか生きているとは思いもよらず、正剛は嗚咽交じりに叫んだ。
「どうしたのよ、父さん。もしかして泣いているの?」
「ああ、葉子。生きていたか。良かった。ほんとうに良かった」
「ちょっと、どういうこと。説明してちょうだい」
葉子が呆れたように言った。
「ああ、すまない」
ごほん、と咳払いした正剛は普段の落ち着きを取り戻した。
「冬規から電話があった。人を殺したかもしれない、と言っていた」
「……は? どういうこと」
「私にもよく分からない。だが、たしかにそう言っていた」
ふと、電話の向こうの葉子が神妙な声になった。
「私のほうでも調べてみる。父さんは病院長の立場がある。あまり大っぴらには動かないで」
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