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線上のキンクロハジロ 第二話

 清澄庭園に隣接する深川図書館の斜向かいに、登美彦の所属するアニメーション制作スタジオ『ハバタキ』がある。隅田川の支流沿いにある『リバーサイド・カフェ』と軒を並べた陸屋根のこじんまりとした平屋で、スタジオの存在を示す目立つ表札もなにもないので、外観上はたんなる個人宅にしか見えない。

 近年はハンドドリップのコーヒーと現代アートの街として知られるようになった清澄白河の地に、なぜアニメーションスタジオを立ち上げたのか不思議に思った登美彦は、採用試験を兼ねた面接の場で社長の林田に訊ねた。

 目が透けて見える薄めのレンズのウェリントン型サングラスをかけた林田は、

「清澄にはサードウェーブが来ているからね」

 言葉少なに語った。いかにも業界人のような佇まいに感銘を受けた登美彦は、林田の意味ありげな返答を「アニメーションの世界に第三の波が来ている。将来、清澄はアニメーションの中心地になるのだ」と安直かつ好意的に翻訳し、理解した。

 給料は作画一枚につき百五十円から二百円の歩合制で、作画スピードが遅いと月収十万円を切るぐらいの薄給になる可能性があること、服装規定はなく明確な出社時間はない代わりに起きる時間が出勤時間、寝る時間が退勤時間になるアニメーターが多いこと、昼夜逆転の生活で体を壊す人が多く、自己管理能力がないと長く続けられない職だ、と脅し文句のような前置きを散々されたが、好きな絵を描いてお金を貰えること以外には何も望んでいなかった登美彦の決心が揺らぐことはなかった。

 サードウェーブ云々といった林田の意味深な言葉は、本人がたんにコーヒー好きだったがために放たれた適当な台詞であり、清澄周辺にはお気に入りのコーヒー屋が密集しているから仕事場もそこに移しただけだった、と後々になって判明した。徹夜続きでぶっ倒れ、白衣の天使に腕を血だらけにされながら点滴をしてもらったその日の晩のことだ。

 病院帰りの登美彦は、お隣のリバーサイド・カフェでまったりと自家焙煎のコーヒーを飲んでいた林田に店先で遭遇し、夕食にカマンベールチーズとハムのサンドイッチ、デザートにアップルパイを奢ってもらったその席で、サードウェーブ発言の詳細を聞いた。

 第一の波ファーストウェーブは、十九世紀後半から一九六〇年代まで続く大量生産・大量消費のコーヒーの時代。流通の発達により安価になったことで、コーヒーはポピュラーな飲み物になった。

 続く第二の波セカンドウェーブは、一九六〇年から一九九〇年代にかけて、シアトル系コーヒーチェーンなどの台頭により広がった、深煎り高品質の豆を使ったコーヒーの時代。

 そして第三の波サードウェーブは、一九九〇年代後半から起こった動き。豆の産地を重視し、豆の個性を最大限に引き出す淹れ方を追求する新しいコーヒーカルチャーだという。

 清澄庭園から逃げるようにしてハバタキまで戻ってきた登美彦は、ちらりとリバーサイド・カフェの店内に視線をやった。奥まった席で、林田らしき四十がらみの中年男が紺色のスーツ姿の男たちと談笑している。手狭なスタジオに来客スペースはないため、林田はリバーサイド・カフェを打ち合わせ場所代わりに利用することが多い。
 林田は「打ち合わせの度にカフェに金が落ちるし、俺は接待交際費でコーヒーが飲める。これも共存共栄だ」とうそぶいている。

 カフェの入り口ドアの隙間から自家焙煎したコーヒーの芳醇な匂いが漂ってくる。

 登美彦はその香りだけで産地が分かるようなコーヒー通ではないし、味の違いもまるで分からないし、ごく正直に言えばチェーン店のドトールコーヒーの方が美味しいとは思うけれど、スタジオの隣からふんわりと漂ってくるコーヒーの芳香を嗅ぐのは好きだった。

 初デートの約束をすっぽかされた登美彦は打ちひしがれたまま職場に戻った。背中を丸め、デスクとデスクの間を縫って歩く。謎めいた鳥に心を奪われ、いつになくぼんやりしており、つい足元を確認する余裕を失っていた。

「うわっ……」

 先輩アニメーターの響谷ひびや一生いっせいを思い切り踏んづけてしまった。ミノムシのように寝袋に包まって仮眠する響谷は、回収されずに放置された粗大ゴミのようだ。

「ぐえっ」

 いったい何日ぐらい自宅に帰っていないのか、逃亡中の強盗犯のように無精ひげの目立つ響谷が腰を二つに折り曲げて悶絶する。そぼ降る雨の中で、肥えたカエルを踏み潰したかのような嫌な感触が足裏に残った。

「おっ、トミーお帰り。響谷さん、やっと起きたんすか」

 原画担当の大塚おおつか妃沙子ひさこがチュッパチャプスを口に咥えたまま、響谷の頭上でコンビニ袋 をひっくり返した。チロルチョコ、ポッキー、きのこの山、キットカット、オレオ、柿の種、ブラックサンダーなど定番のコンビニ菓子がどさどさと響谷の頭上に降り注ぐ。

「ほい、モテない野郎どもに配給ですよっと。トミーも好きなの持っていきな」

 妃沙子は洗いざらしのピンク色のスウェットを着て、穴のあいたジーンズを履いている。アッシュブラウンの髪をざっくりまとめただけのポニーテールにしているが、着飾らない分だけ、擦り切れた感じのしない生来の美しさをかえって際立たせていた。

「じゃあ、柿ピーをいただきます」

 登美彦は床の上に散乱した菓子の中から、バレンタインデーとはもっとも縁遠そうな柿の種を選んで拾い上げた。チュッパチャプスを舐めていた妃沙子の眉根がぴくりと動く。

「私からのチョコは義理でもいらねえってわけ? いい度胸してるじゃないの」

 いつになく怒りに満ちた双眸にじろりと睨まれ、登美彦は慌てて首を横に振った。

「そ、そんな。め、滅相もない」

 新入りの登美彦の指導係を務める大塚妃沙子は、少数精鋭でそれでなくとも疲れ切ったスタジオの中、余裕しゃくしゃくの顔をして楽しそうに絵を描いている強者である。登美彦の三倍速とも四倍速とも称される作画スピードはさすがに伊達ではなく、二十代半ばの若さでありながら作画部門の中核的存在として君臨している。

 枚数を描いてナンボ、スピードこそ命のアニメーター職にあって、極端な速筆でありながらも絵のクオリティがまるで落ちない妃沙子は正真正銘のプロだ。どだい駆け出しの登美彦がおいそれと逆らえるような相手ではなく、遠慮して柿の種を選んだつもりだったのに、どうやら裏目に出てしまったらしい。

 妃沙子に凄まれ、登美彦が落ち着きなく目を左右にきょろきょろさせると、不機嫌そうな顔をしていた妃沙子は堪えきれずに吹き出した。ぶはは、と豪快に笑いながら、登美彦の猫背気味の丸まった背中をばんばんと叩く。

「いい! そのリアクション、最高!」
「妃沙ちゃん、トミーをからかって遊ばないの。トミーはみんなの玩具だよ」

 寝袋からずりずりと這い出てきた響谷は、床に散らばったチョコレート一式を胸に抱え、スタジオの片隅にぽつんと置かれた卓袱台の上にばら撒いた。卓袱台の周りにはくたびれた二人掛けのソファ、かたかた揺れる背の低い丸椅子が三つ置かれており、作業が一段落したアニメーターはここで食事をとったり、お菓子タイムをとることが多い。

「疲れたアタマには糖分だよね。妃沙ちゃん、サンキュー」

 響谷は板状のキットカットを割らずにばりばりと頬張ると、チロルチョコの包装を剥き、三つまとめて口の中に放り込んだ。

「ほんとうにデリカシーないすね、響谷さん」

 小休憩のために妃沙子も卓袱台を囲む。腰をトントンと叩く素振りが妙にババくさい。

「え? そう?」
「しかも自覚症状なし……。重傷だ」

 幼稚園や小学校低学年の子供が座るような小さな丸椅子では収まりが悪かったからか、響谷は寝袋を折りたたむと、座布団代わりにして、その上に胡坐をかいた。ついでのように卓上のオレオに手を伸ばすと、躊躇なく袋を全開にする。

 響谷はあくびとげっぷを繰り返しながら、アニメーターの待遇の悪さを愚痴りはじめた。

「僕たちの生活って、ほんとうに健康でも文化的でもないよね。基本的人権はどうなってんだって話だよ。こんな生活してたら結婚なんかぜったい無理だし、老後とか超不安だよね」

「私たちは軍隊アリですから。そもそも人間じゃないので人権なんかないんすよ。四の五の言わず、描け。眠るな、描け。描け、描け、描け。描けなきゃポイ。それだけっす」

「まったく酷い話だよ。ねえ、トミー」

「いえ、僕はべつに。毎日、文化祭の前日みたいなノリで楽しいなと思いますけど」

 まだ二十代の若い二人からまったく賛同を得られなかった響谷は、やれやれとばかりにため息をつくと、備えつけの冷蔵庫からコカ・コーラの2リットルボトルを持ちだしてきてラッパ飲みした。

「そんな風に思っていられるのも今のうちだよ。三十歳を超えて、四十も間近に迫ると、あっ、俺の人生詰んでる、もう明るい未来なんかどこにもねえ、って悟って絶望するよ」

 響谷はどことなく達観した様子で、ほの白い蛍光灯の瞬く天井を見上げた。

 柿ピーを一粒ずつ摘まみながら、登美彦も天井を見上げた。

「お疲れですね、響谷さん」
「うん、ぼくもそろそろ点滴ドーピングが必要かも。最近、寝つきも悪いんだよね」

 アニメ業界の労働環境の悪さは巷間ささやかれるようになって久しいが、それでもアニメーターの待遇が一向に改善する気配がないのには一定の理由が存在する。

 地上波の三十分間のテレビアニメを一話制作するのにおよそ三ヶ月前後の時間を要し、千万円から千五百万円もの大金がかかる。アニメはわずか一秒の動きのシーンを作るだけでも二四コマの絵を描かなければならず、それを三十分作るとなれば、一人、二人のアニメーターだけでこなせる作業量を遥かに超えている。

 少しでも早く完成させるためには外注ありきの人海戦術で仕上げるしかないのが現状だ。

 アニメ一話あたりの動画枚数の平均は三千枚から五千枚、多いと一万枚に及ぶ。

 この膨大な作画量を軍隊アリの大量動員でまかない、なんとか納期に間に合わせている。制作に関わる人間だけでも総勢百人程度の人数が必要とされ、それ以外にも声優、音響など様々なプレイヤーが関わってくる。それゆえ、アニメ制作費のほとんどが人件費だ。

「社長はいずれうちも自主企画中心の元請けになるって息巻いていたけど、まあムリでしょう。あの人、優雅に川辺リバーサイドでコーヒー飲んで夢語っているだけだし」

 差し入れのチョコレート類をあらかた食い尽くし、2リットルのコーラを半分ほど飲み干した響谷はようやく人心地ついたらしい。古狸のようにたるんだ腹をさすりながら、自宅のリビングでくつろぐように行儀悪く寝そべっている。

「元請けってなんですか?」

 響谷はくわっと目を見開き、部屋の隅っこで柿ピーをちまちまとひとつずつ摘まんでいる登美彦を見やった。

「それは冗談じゃなくて、ほんとうに知らないの?」

「はい。今日、はじめて聞きました」

「ジーザス! アニメ業界の低制作費、低賃金の自転車操業体質を知らないでこの業界に足を踏み入れてくるなんて、蛮勇にも程があるよ。おなべのふたと竹のヤリだけでドラゴンを狩りにいくようなものだ」

 口角泡を飛ばしながら、響谷が熱っぽく語り出した。

「いいかい、トミー。よくお聞き。この夢も希望もないアニメ業界の歪みきったブラック構造を、ぼくが優しく教えてあげるから。知は力なり。バイ、フランシス・ベーコンさ」

「はい。お手柔らかにお願いします」

 登美彦は律儀にもフローリングの床の上にちょこんと正座をした。

「一九六〇年代から七〇年代はテレビアニメの本数自体が少なかったし、玩具やグッズなどの関連商品も飛ぶように売れたんだ。当時はマンガや小説の原作を必要としない、アニメ制作会社発のオリジナル作品が主流だったから、制作会社にもそれなりの著作権使用ライセンス料が支払われていたしね」

「六〇年代をまるで見てきたように語りますね。響谷さんって実際、いくつなんすか?」

 紙パックの豆乳入り麦芽コーヒーをストローで啜りながら、妃沙子が茶茶をいれた。

「失敬な! ぼかあ、まだ三十八歳と五ヶ月二十四日だよ。妃沙ちゃんの写真家ピクチャーカレシより二十歳も若いんだからね。妃沙ちゃんだってババくさいもん飲んでるじゃん」

「豆乳が入っているのが適度にマズくてウマいんすよ。飲みます?」

 妃沙子が紙パックを差し出すと、響谷は両肩を震わせて明らかに狼狽した。

「えっ、いいの?」
「飲みかけでよければどうぞ」
「それで元請けってなんですか?」
「うるさい、トミー。ちょっと黙って!」

 ストローが刺さったままの紙パックを受け取った響谷がごくりと唾を飲み込んだ。

「……って、もう入ってないじゃん」
「それ、捨てといてくださいね」

 妃沙子は、響谷を小馬鹿にしたように薄く笑う。

「甘いね、妃沙ちゃん。神作画の大塚妃沙子が吸ったストローと紙パック、なんてタイトルつけてオークションに出品したら、五万円はくだらないよ。重度のアニメオタクにとって大塚妃沙子の名前は、そこらへんの会いに行けるアイドルなんかより価値があるからね」

「そんな変態なことしたら遠慮なくぶっ殺しますからね」

 にこりと笑いながら、妃沙子が指の関節をぽきぽきと鳴らす。山間の車道でフリーズし、車に轢かれそうになった子狸のように響谷の動きがぴたりと止まった。

「妃沙ちゃんって十代の頃、ぜったい特攻服とか着てたでしょう」
「着てませんよ、そんなもん」
「嘘だあ」
「ど田舎でちゃんと女子高生してましたよ。絵ばっか描いてましたけど」
「ヤンキーのバイクにスプレーで塗装してたクチ?」
「真っ赤な血を見たいんですね、響谷さん。分かりました」

 妃沙子が片頬を歪めた。すっかり怯えきった響谷は、渋々ながら麦芽コーヒーの紙パックをゴミ箱に捨てた。

「それで元請けってなんですか?」
「トミー、君のマイペースさも変態的だね」

 響谷は名残惜しそうにゴミ箱を見つめながら、呆れたように言った。

「今は世界的に不況だから、アニメの制作費用を一社でまかなえるようなスポンサー企業も少なくなっていてね。そこで編み出されたのが制作委員会方式というシステムさ」

「なんだか学級委員会みたいな響きですね」

「アニメ制作って博打みたいなものでね。八割近くは制作費用を回収できない赤字作品ばかりだけど、たまたまヒット作が生まれて一発逆転の大当たりが出れば、その儲けで全体的に黒字になる、っていうヤクザなビジネスモデルなわけ」

「……博打?」

 耳馴染みのない響きに登美彦が目をぱちくりとさせる。

「そう、何千万円とか億単位の金を賭ける博打さ。それだけの大金を賭けて大コケしたら、制作費用を回収できずに経営が傾くのは小学生だって分かる理屈だよね。そんなリスクを分散するために生み出されたのが制作委員会方式ってやつで、複数企業が出資しあってアニメを作るようになったんだ。実際に映像を作るのはアニメ制作会社だけど、放送しているのはテレビ局だし、BDブルーレイやDVDを販売するのはビデオメーカー、音楽作りやCD販売を担当するのは音楽会社、効果音やBGM、声優の手配や録音を担当するのは音響制作会社、原作物アニメの漫画や小説を扱っているのは出版社、ゲーム原作のアニメを扱っているのはゲーム会社、アニメのグッズを販売しているのはグッズメーカーや玩具メーカーだ。アニメ制作に関わる企業みんなでちょっとずつお金を出し合って、出資した金額に応じて利益を分配しましょう、ってことだね」

「なるほど」

 登美彦が深くうなずく。

「博打失敗のリスクを複数社で分散できるようになったおかげで、企業としては多くの作品に少額出資できるし、優先的に自社の得意分野の権利を有することができる。仮に作品が当たらなくても損失は少ない。数多くのアニメが生まれるようになったのは、たしかに制作委員会方式のおかげだね」

「良いことずくめですね」

 響谷は世を憂うような表情を浮かべ、左右に首を振る。

「いや、なにごとにも良し悪しはあるものでね。複数社が出資に絡んでいるから、利益が計算できない尖った企画が通りにくくなって、手堅い企画ばかりになったんだ。人気がある小説やマンガ原作のアニメ化ばかりになったのは制作委員会方式のせいでもあるわけ。博打をするために制作委員会を組織しているのに、博打を避けるって本末転倒なんだけどさ」

「たしかに最近のアニメは原作があるものばかりですね」

「制作会社オリジナルの企画は利益予測がつきにくいから敬遠されるんだ。それもあって、アニメの制作会社が稼ぎにくくなっている。うちみたいな下請けの弱小スタジオが独自企画のアニメを作るなんてことは未来永劫ありえない暗黒時代さ」

「辛気臭い話っすね。この話題、もうやめません?」と妃沙子が言った。

「それはダメだよ、妃沙ちゃん。なんにも知らないトミーには、この際だから徹底的に業界の現実を教えてやらないと。夢を持ってこの業界にやってきた若者が絶望して去っていく哀れな後ろ姿を、ぼくはもう見たくないんだ」

「僕の夢は今日、粉々に潰えました」

 白衣の天使に約束をすっぽかされたことを改めて思い出し、登美彦が小さくため息をつくと、響谷が血相を変えた。登美彦の肩をがくがくと揺さぶり、雪山で遭難したパートナーを勇気付けるがごとくに大声で叫んだ。

「いけない、トミー! 気を強く持つんだ。ぼくたちは労働力を搾取されるだけの軍隊アリじゃない。薄給でもろくに寝れなくても人権なんかなくても、それでも人間なんだ」

 頬っぺたを往復ビンタされ、大声で怒鳴られた。

「そんなに軍隊アリが嫌いですか。別にいいじゃないっすか、アリでもなんでも」

「アニメーターのそういう下請け根性がいちばんの問題なんだ」

「だって実際、下請けじゃないすか。アニメーターに独創性オリジナリティーなんて邪魔なだけっす」

 響谷と妃沙子が睨み合う中、頬を赤く腫らした登美彦がのほほんと右手をあげた。

「それで元請けってなんですか?」

 問われるなり、響谷と妃沙子が互いに顔を見合わせた。

「トミー、やっぱり君は変態だよ」
「その点に関しては私も賛成」
「そうですか? 自分はいたってノーマルだと思いますけど」

 登美彦がしきりに首を傾げると、もういちど響谷と妃沙子が互いに顔を見合わせた。

「妃沙ちゃん、一年近くブチ切れずによくこの子を教育したね。心から尊敬するよ」
「ちょいちょいキレてましたけど、今のところ手は出してないです」

 妃沙子が口の端を歪めて冷笑すると、響谷がわずかにのけ反った。

「そういう発言が特攻服疑惑を生むんだよ。ぜったい元ヤンでしょ、妃沙ちゃん」
「違いますよ。次に元ヤンとか言ったらガチでぶっ殺しますからね」
「それで元請けってなんですか?」

 真面目くさった顔をして登美彦が訊ねると、響谷が諦めたように登美彦の右肩をぽんと叩いた。

「君はほんとうにメンタルが強いね。さっきの発言は訂正するよ。君の鋼鉄のメンタルがあれば、おなべのふたと竹のヤリだけでもドラゴンを倒せるよ」

「ありがとうございます。それで元請けってなんですか?」

「図解してサルでもわかるように説明してあげる。トミー、紙ある?」

 登美彦は自分のデスクから白無地の紙とちびた鉛筆を持ってきた。
 響谷はピラミッド構造の絵を描き始めた。

 ピラミッドの最上位には無数のテレビ局や広告代理店が横並びになっており、ひとまとめにされて「制作委員会」と書かれている。響谷はその下に「元請け」「下請け」「孫受け」と次々に書き込んでいき、最下層の位置を鉛筆の裏側でトントンと叩いた。

「ぼくらのポジションはここ。アニメ制作カーストの最下層さ。最上位が制作費を出すテレビ局や広告代理店の連合チーム。その下がいわゆる元請け、その下が下請け、さらに孫請け、ひ孫請け、ってな具合に階層構造になっている。中間業者が多くて、カーストの下に行けば行くほど微々たる金で作業することになる」

「なんだか大規模な工事現場の模式図みたいですね」 

 アニメ制作会社は大別すると三タイプあり、企画から制作までのすべてを行う「元請け」、元請けの制作会社が処理しきれなかった仕事を請け負う「下請け」、作画・背景美術・撮影など制作工程別に仕事を請け負う「専門スタジオ」に分類される。

「テレビシリーズは三十分作品を月に四本作成することになるけど、元請け会社が全ての制作工程を請け負うとなると、社内に大量のスタッフを抱えなければならなくて、その人件費負担は莫大なものになる。だから元請け会社の多くは下請けの制作会社に各話の制作を任せることが多いんだ。下請けに一話丸ごと制作を任せることをグロス請けと言うんだけど、グロス請けの会社も制作能力に限界があるから、さらに下請け、孫請けの会社に発注をかけることになる。この延々と下に伸びるピラミッドはアニメ業界の縮図だよ」

 登美彦は腕組みをしながら、しばらくピラミッド図を凝視した。

「ハバタキがこのピラミッドを登っていくのは無理なんですか?」

「外注スタジオとして誕生し、グロス請けで経験を重ねるうちに元請けにまで成長した会社もあるにはあるけど、大抵はずーっと小さいままだね。妃沙ちゃんみたいなデキる子はすぐ会社を辞めてフリーランスになっちゃうし、トミーみたいなペーペーは身体を壊してすぐ会社を辞めちゃうから、人材も常に流動的だしね」

 登美彦の属するハバタキは下請けより下層に類される、吹けば飛ぶような小資本の制作会社だ。元請けの制作会社から次々と降ってくる作業を粛々とこなしてゆけば、ギャラの未払いでもない限りは経営が立ち行かなくなる可能性は低いが、安いギャラと大量の仕事という二重苦を背負わされた現場は、だんだんと疲弊していく。

 大手制作会社ならいざ知らず、ハバタキのような零細スタジオにアニメーターを正社員として雇用する資金的な体力はない。

 正社員として丸抱えしてしまうと人件費や制作本数の調整がききにくくなるし、固定給では評価しづらいクリエイティブな側面の強い業務であるため、ハバタキに属するアニメーターは皆、出来高制の業務委託契約に基づく個人事業主として制作に従事している。

「フリーランスのアニメーターって、そんなに多いんですか」

 登美彦が問うと、即座に響谷が答えた。

「妃沙ちゃんなんかは零細会社に属する意味があんまりないからね。自分で仕事をとってこられるぐらいの対人スキルと作画能力があれば、とっととフリーランスになるのが賢明だよ。スタジオに中抜きされる分が丸々収入になるし」

「私は当分、辞めるつもりはないですよ。フリーランスになれば仕事は選り好みできるし、仕事量も自分でコントロールできるかもしれないですけど、仕事が回ってこなければ干上がっちゃいますもん。仕事とってくるのにいちいち自力で営業するなんてメンドーなことしたくないし、ここで言われた通りに描いている方が楽っすよ」

「妃沙ちゃんは最後の砦だよ。ぼくが辞めるまで辞めるの待ってね」

 響谷はその場に跪き、妃沙子を崇めるようなポーズをとってお道化た。

「そう言われると、ソッコーで辞めたくなりますね」
「ダメ! 妃沙ちゃんとぼくの仲は永遠だよ」
「それ以上キモいこと言うと、ガチで殺しますよ」

 妃沙子は目を細めてふふふ、と笑っている。嗜虐的な冷笑に身の危険を感じたのか、響谷が後ずさる。登美彦はしばらくの間、ピラミッド図を穴があくほどにじっと見つめていた。

「どう、トミー。アニメーターに夢も希望もないってこと、ちょっとは理解できた?」

「はい。説明どうもありがとうございました。自分の立場がよく分かりました」

 顔を上げた登美彦は、響谷に向かってぺこりと頭を下げた。

「そういえば、トミーは今日に限ってなんで半日も外出してたわけ?」

 響谷は急に詮索するような視線を登美彦に向けた。

「え? なんですか?」
「うわっ、なにその反応! すげー怪しい」

 アニメ業界の階層構造についてぼんやりと考えごとをしていた登美彦の反応がつい遅れ、きょとんとした目で響谷を仰ぎ見た。

「どうやらこれは本格的にカツ丼案件のようだね。さあ、正直に話すんだ。郷里のお母さんが泣いているぞ」

 響谷は毛むくじゃらの片腕を卓袱台の上にずいと乗せ、容疑者に自白を迫る刑事のような面持ちを浮かべている。

「洗いざらい吐きたまえ。貰ったのかい? 貰ったんだね?」
「え、いや、あの。貰ったってなにを……」

 ぐいぐいと迫ってくる響谷の妙な迫力に気圧され、登美彦が言いよどんだ。

「否定した! ますます怪しい!」

「こいつの恋愛事情なんてどうでもいいっすよ」妃沙子が興味なさげに言う。

「いいや、抜け駆けは共同体の根幹を揺るがす重罪だよ。貰ったのはゴディバ? ピエールマルコリーニ? ジャンポールエヴァン? リンツ? それとも六花亭?」

「貰ったこともないくせにチョコレート屋の名前はよく知ってるんすね」

「ぼかあ、なにごとにもリサーチを欠かさない男だよ。来たるべき日を想定しての予習は、ばっちりさ」

 響谷はさも得意げに胸を反らした。

「そんなしょーもないリサーチばっかりしてるから作業が滞るんすよ。それで薄給だとか、寝る暇がないとか、ぎゃーぎゃー騒ぐ資格ないっすよ、マジで」

「人間だもの。夢ぐらい見たっていいじゃないか!」

「いいや、アニメーターは人間じゃないっす。アリっす。軍隊アリの分際で本命チョコを貰おうなんざ、ハバタキうちらが元請けになるぐらいにありえねーっす」

「なんだい。妃沙ちゃんだって毎年チョコ配ってるじゃないか」

「義理をばら撒いてるだけっすよ。本命なんか人生でいちども用意したことないっすね」

「薄情だね。妃沙ちゃんがそんなんだから日本人の初婚年齢がどんどん上がっていくんだ」

「言うに事欠いてなんすか、その八つ当たりは。意味分かんねーすよ」

 スタジオの片隅で妃沙子と響谷がぎゃあぎゃあと言い争いをしているが、話題にさっぱりついていけない登美彦はただ曖昧な笑みを浮かべているのみだった。

「妃沙ちゃんの屁理屈で言えば、軍隊アリ風情のトミーが貰ったのが本命チョコだったら、うちらは元請けになれるってことでしょう。いいじゃん、賭けようよ」

「そっすね。賭けましょうか」

「本命を貰った方にカツ丼一杯」と響谷が賭けを持ちかけた。
「あくまでも義理にカツ丼一杯」と妃沙子が賭けに応じた。

 いつのまにか妃沙子と響谷の言い争いは収束しており、互いに共犯者めいた笑みを浮かべている。

「トミー、今日は特別に夜ご飯を奢ってあげるよ。懐の心配をせず、美味しいカツ丼をたっぷり堪能するといい」

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