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線上のキンクロハジロ 第六話

 人けもまばらな清澄庭園内で昼食をとることにした。

 大泉水にぽっかりと浮かぶ中島には四阿あずまやがあり、島へと渡る小さな橋が架かっている。

 橋の両側に手すりはなく、苔の絨毯のような背の低い緑色の植物で舗装されていた。

 さりげなく「落下注意」の文言が添えられた但し書きによれば、こんもりとした緑色の絨毯の正体は蛇の髭ジャノヒゲ、和名を竜の髭リュウノヒゲというらしい。

 そう言われてみればたしかに、細く伸びた葉っぱが竜の口髭に見えないこともない。

 登美彦は四阿に備えつけられた木製のテーブル上にパンを並べた。妃沙子がもちタラモロールに手を伸ばし、登美彦はジャーマンソーセージロールにかぶりついた。

「響谷さんを置いてきちゃってよかったんですか」
「いいのよ、あんなセクハラオヤジ」
「セクハラ?」

 妃沙子は足をパタパタさせながら、吐き捨てるように言った。

「私がスタジオに入ったときの指導係が響谷のオッサンだったんだけど、初日からずっと馴れ馴れしくてさ。妃沙ちゃんは髪をアップにした方が似合うよとか、ちょっとうなじ見せてとか、こんど《《個人的に》》食事しようとか、セクハラ発言のオンパレードでさ」

「それは……、ちょっとアウトですね」

「ちょっとアウトどころか完全アウトよ。うわっ、まじキモいと思ってひたすらオッサンを無視して仕事してたら、三ヶ月で原画を任されるようになってね。妃沙ちゃん、君に教えることはもうないよ、って言ったときはひそかに勝ったと思ったわ」
 妃沙子は紙パックの麦芽コーヒーをストローで啜っている。

「入社三ヶ月で原画に昇格するのは異例のスピードだ、って林田社長が言ってくれてさ。ちょっとは響谷のオッサンの指導のおかげだから、ほんのちょっとは感謝してるつもり」

 白いストローをがじがじ齧りながら妃沙子が苦笑する。

「原画マンになる基準ってあるんですか」

「基準は知らないけど、動画から原画に繰り上がるときの儀式ならあるわ。林田社長に、自立プリンを奢ってもらうの」

「自立プリン? なんですか、それ」

「お店のプリンってふつうスライムみたいに柔らかくて軟弱なのが多いじゃない。でも、ブラジルのプリンは違うのよ。お皿に盛るとまっすぐ立つの」

 妃沙子はハンドバックからスマートフォンを取り出すと、皿の上に型崩れせずまっすぐ立つプリンの画像を登美彦に見せた。

「リバーサイド・カフェの隠れメニューにブラジルプヂンってのがあるんだけど、土台がココア風味のスポンジケーキで、プリンが固くて直立するの。林田社長の好物らしくて、新入りが原画を任せられるぐらいになると奢ることにしてるんだって」

「プリンじゃなくてプヂンなんですね」

「そ、プヂン。ブラジルじゃそう呼ぶらしいわ」

 エビカツロールを食しながら、登美彦はちらりと池の方へと目をやった。

「僕はいつ食べられるようになるのかな、自立プリン」

 水面のあちらこちらに金色の目をした黒ずくめのカルガモもどきがぷかぷかと浮かんでいる。後頭部に寝癖がぴょこんとはねているのはお約束のようで、鉄仮面のごとき無表情のくせに、どことなくすっとぼけた表情に見えるのも相変わらずであった。

 小鳥パンの匂いが風に乗ってあたりに漂うと、穏やかな水面に浮かぶ寝癖鳥たちに落ち着きがなくなった。

 群れから外れた一匹がこちらにすーっと近寄ってきた。

 ふてぶてしい表情の寝癖鳥はあまりにも愛想がなさすぎて、登美彦の描く目の死んだ女の子よりもはるかに可愛げがなかった。

「かわいそうに。お前も目が死んでるね」

 同情とも憐憫ともつかぬ思いが登美彦の胸に去来し、ついつい口に出していた。

「可愛いじゃない、この目。私は好き」

 妃沙子はハンドバックから無地のクロッキー帳を取り出すと、シャープペンをさらさらと走らせ、ものの一分か二分ほどで寝癖鳥をスケッチしてみせた。

「どう? こんな感じでしょう」

 多少なりデフォルメはされているが、それはまさしく目の前に仏頂面でぷかりと浮かぶ寝癖鳥の姿そのものであった。およそ可愛げのない金色の目や、ずんぐりむっくりの体型ですら、妃沙子が描くと、素晴らしく可愛く見えてしまうのが不思議だった。

「ほんとうに描くのが速いですよね。どうしたらそんなに速く描けるんですか」

「目にしたものを一、二分でどれぐらい描けるかの速写はよくするわね。信号待ちのときに向かい側の歩行者を描いたり、録画していた映画を一時停止して、停止解除する間にぱぱっと描いてみたり。速く描こうと思ってひたすら描いてれば、そのうち速くなるわよ」

 あっさりとそう言われては、即座に返す言葉もなかった。

 一本の線で、一発で描く速写クロッキー

 美術専門学校時代には、学生必携のクロッキー帳にいろいろな絵を殴るように描いたが、一枚十五分や二十分はかかっていた。

 それを一分や二分で描こうなんて、そもそも思ったことはない。

 絵に線が少なく、異常な速筆である秘密の一端は知れたが、ただでさえ速筆の妃沙子が職場以外でも意図的に訓練しているとなれば、その差は容易に埋まるはずもない。

「この鳥、なんか登美彦に似てるよね」

 妃沙子はスケッチし終えた寝癖鳥と登美彦の顔を見比べながら「うん、そっくり」と言い、くすくすと笑っている。

「どこがですか?」

「いつも顔がびっくりしているところとか、寝癖たってるところとか」

 ほんとうに寝癖でもたっていたのか、妃沙子に後頭部を撫でられ、つい昨夜のことを思い出してしまい急に気恥ずかしくなった。なんとなく流されるままに一線は越えたが、ふだんはほとんど飲まない酒を大量に摂取したせいか、行為自体は不発に終わった。

 登美彦はぶるりと肩を震わせると、デパートのマネキンのようにぴしりと硬直した。

「ほんとうに女慣れしてないよね。もしかして昨日がはじめてだったりした?」

「いえ……。一度だけですけど、したことはあります」

 登美彦はもごもごと口ごもり、視線を宙に彷徨わせた。

 高校二年生のときに告白されて付き合い、思っていたのとは違ったからと言われ、一ヵ月後には別れを切り出されていた。

 私ね、他に好きな人ができたの。奥野君と喋っていても、ちっとも楽しくないし、いつも考えごとをしていてぼんやりしているし、一緒にいてもどきどきしないし、もう潮時だと思うんだ、ときっぱり言われて縁を切られた。

 不思議と、彼女が移り気だと責める気持ちにはならなかった。

 女性とはそういうものだと思い知り、自分は絶望的に恋愛には向いていないのだ、という思いが胸に刻まれただけだ。

「高二ってえと五年前ぐらい? 私よりブランク長いじゃん。青春を棒に振ったねえ」

 妃沙子は登美彦の青臭い思い出話を豪快に笑い飛ばした。妙に気遣われたりするよりもよほど気が楽だった。

「青春は棒に振るもので、吹っ切れた時点で酒の肴だと思います。二十歳を超えてからでも、青春はできると思います」

「はは、なんだそりゃ。ちょっと名言チックなのがウケる」

「ひとつ聞いてもいいですか」

 ひとしきり笑われたあと、生真面目な顔でお伺いを立てると、妃沙子がわずかに身構えた。

「先輩は戦場カメラマンの方とどこで出会ったのですか。それが気になっていて」

 妃沙子の交際相手は還暦近くの戦場カメラマンで、丸二年も消息を絶っていると聞いた。

 年齢的にも職業的にも、あまり身近にはいそうもないタイプの人物に思えて、どこで出会ったのか気になっていた。

 春の近さを思わせる淡い陽光が常緑の木々の色を反射した緑色の水面に降り注いでいる。妃沙子は答えづらいのか、なんとも微妙な表情をして、池にぷかぷかと浮かぶ寝癖鳥を見つめている。

 しばらくの間、穏やかな水面を見つめた後、妃沙子がぽつぽつと話し始めた。

「彼にはじめて会ったのは、林田社長に自立プリンを奢ってもらった日だったの。だから、よく憶えている」

 戦場カメラマンの名は皆川といい、リバーサイド・カフェにふらりと入店したときから、常人らしからぬ空気を醸し出していたという。

 昭和の大御所漫画家がかぶっていそうなベレー帽、服装は上下とも黒、よれよれのフィッシングベストを着て、首から掛けたカメラは本体だけでなくレンズまで真っ黒に塗り潰されていた。

 銀色のカメラだと光が反射し、軍隊から狙撃される危険性が高いためだそうだが、全身黒ずくめの服装と、黒く塗りつぶされたカメラのせいで異様さだけが際立っていた。

 皆川は無言のまま林田と妃沙子が座っていたテーブル席の隣に陣取ると「ケニア」と言い、ややあってから、いかつい顔には似合わぬ間延びした声でこう言ったという。

「あと、アップルパイ」

 ケニア産のコーヒーを飲み、美味しそうにアップルパイを頬張っている武骨な男を見て、思わず妃沙子は笑ってしまったという。皆川は一瞬だがむっとした表情を浮かべ、気まずい沈黙が店内に流れたが、如才ないマスターがすぐに助け舟を出してくれた。

「美味しいですよね、アップルパイ。私も好きです」

 編み込みヘアにニット帽、鹿角を牙形に加工したネックレスを首から掛けたマスターが気さくに話しかけると、いかつい顔を綻ばせて皆川も笑った。

「ああ、美味しいね。取材から帰ると甘いものが恋しくなる」

「甘いものがお好きでしたらブラジルプヂンもおすすめですよ」

「ブラジル……、なんだって?」

「プヂンです。プ、ヂ、ン。そちらのお嬢さんが食べているプリンなのですが、軟弱で柔らかい日本のプリンと違って直立するぐらいに固いんですよ。かなり甘めなので、ブラジル産の濃いコーヒーと一緒に召し上がるのがいいですね」

 常連客ばかりのリバーサイド・カフェではマスターが気軽に客に話しかけるし、客同士もなんとなく顔見知りというアットホームな雰囲気がある。

 会話のきっかけさえあれば、話が弾むのにさして時間はかからなかったそうだ。

「先ほどは笑ってしまってすみません。あまりにも美味しそうにアップルパイを召し上がっていたので、ついつい。私は隣のスタジオで働いているアニメーターなんですけど、今日は昇進祝いに社長からブラジルプヂンをご馳走していただいていたんです」

 どこから来たか、どんな仕事をしているのかの情報交換が終わると、皆川はどこに取材に出掛けていたのかを語り、撮ってきた写真の数々を見せてくれた。

 草むらに隠れて銃を構える兵士、瓦礫の山にたたずむ老人、砂塵を撒き散らしながら進む戦車、片腕のもげた少年、ターバンを巻いた妊婦と乳飲み子。見せてもらった写真はどれもこれもが息を呑むほどに衝撃的で、妃沙子は思わず言葉を失ったという。

「……とまあ、そんな感じよ。ありふれた出会い方でしょう」

「ぜんぜんありふれてないですよ。相当特殊な出会い方だと思いますが、そこからなぜ交際に発展するのかも理解しかねます」

 登美彦が眉をひそめると、妃沙子が不満そうに唇を尖らせた。

「三ヶ月間職場で机を並べていたのがキモいセクハラオヤジで、晴れてそのセクハラ魔から解放された記念日に、甘いもの好きないかつい戦場カメラマンに出会ったのよ。そりゃあ、運命感じるでしょうよ。あっ、戦場から白馬のオヤジが迎えに来たって思うでしょうよ」

「すみません。さっぱり理解できません」

 登美彦が素っ気なく言うと、妃沙子は自らが描いた寝癖鳥のラフ画に話しかけた。

「あー、夢がない。こっちのトミヒコの方がよっぽど可愛げがあるわ。私、一回描くと情が移るのよね」

 妃沙子は寝癖鳥に頬ずりしながら、にやにやと笑っている。

「鳥の名に僕の名を冠されるなんて心外です。その鳥にもきちんとした名前があります」

「へー、どんな名前? 教えて。なんていうの、この子の名前」

 明らかに墓穴を掘ってしまったことは後になってようやく気がついた。

 金色の目をした黒ずくめの寝癖鳥の正式な名前など知らないし、聞いたこともない。

「いや、それはその……。でも間違いないくトミヒコではないです」

「じゃあなによ? ヒビヤ? それともハヤシダ? アラカワ? スミダガワ?」

「響谷でもないし、林田でもないし、荒川でもなければ隅田川でもありません」

「じゃあ調べといて。トミヒコの名前を責任もって登美彦が調べなさい。じゃないと黒っぽい鳥を見たらぜんぶトミヒコって呼ぶから」

 妃沙子は寝癖鳥のラフ画を登美彦に押し付けると、さっさと四阿を後にする。

 橋を渡り切ってくるりと振り返ると、悪魔のような笑みを湛えていた。

「名前がわかるまで当分帰ってこないでいいわよ。一緒に戻るとセクハラオヤジがあーだこーだうるさいし。それじゃパンごちそうさまー」

 妃沙子に描かれた当の寝癖鳥は登美彦を小馬鹿にしたような目つきをして、ぷかぷかと池に浮かんだまま羽づくろいをしている。

 しばらくすると羽づくろいにも飽きたのか、すーーっと中島から離れていった。

 原画の一枚絵があれば十分なほどの力感のない平行移動だった。

 色もモノクロだし、動きも単調となれば、アニメーションにするにはさぞ楽だろう。

「お前の名前はきっとヒサコだと思うよ」

 なけなしのお金をはたいて買った小鳥パン二食分と物々交換で手に入れた黒い寝癖鳥のラフ絵に向かって、登美彦はぼそりと呟いた。

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