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パラリンピックと日本の映像メディアについて思うこと

以前にも書いた通り、今回のオリンピック・パラリンピック開催にはいろいろな意味で反対の立場で、できるだけ何も語るまい、と思っていたんだけれども、今回は、パラリンピックを観て考えさせられたことと、最近ボク個人の周辺で議論になった、放送メディアの在り方について、考えさせられたので、ここに書きます。

この記事を書くにあたって、改めてボクも、映像メディアの端くれとして、長年働くことになって、転職を経て、今も仕事上、オリンピック・パラリンピックの尺を秒単位までチェックするような立場であることを一応、書いておきます。

パラリンピックが日本で開催された意義は思った以上に大きかった

オリンピック・パラリンピック開催反対の立場で、懐疑的に見始めたボクでしたが、正直な感想として、パラリンピックが、今年、日本で開催された意義は「あった」と思います。
そして、想像以上に大きかった。

でも、思うのです。そして、日本人に問いたい。
多くの日本人が、パラリンピックに対して、何も言えない、もしくは「感動しました!」という、単純な賛美の言葉しか言えなくなって、思考停止に陥っていないか、よく考えて欲しい。パラリンピックを観た人は、きっと何か感じるもの、考えるものがあったはず。
パラリンピックについて考える、障害者(障害、障碍、障がい・・・日本語の定義上、慣用的な「障害」を用います。ご了承ください)について考える、絶好の機会を与えてもらったからこそ、ボクは「パラリンピックを開催する意義はあった」と思うのです。

でも、ボクも、パラリンピックが理想的な開催方法かと言われると、もちろん非常に疑問だし、そこも考えるべきところだと思う。

身体障害者ばかり活躍するパラリンピック・・・知的障害者は?精神障害者は?そもそも「障害」って何よ?

金メダル、銀メダル、銅メダル・・・過酷な競争社会を助長しているのではないだろうか?メダルをもらえなかった人は?
たった一握りのメダリストを救済しているだけで、パラリンピックに出ることも無い、多くの障害者の方々にとって、意味があることなのか?

ボクがこのnoteに何度も書いていることですが、ボク自身、小学校時代に「いじめ」を体験してきた身であり、極度の運動音痴だったので、スポーツ万能主義、「スポーツヒエラルキー」と言ったものは、過度に敏感で、嫌悪感を持っている。

人間は、本能的に、違っているもの=「なかま外れ」と、同じもの=「なかま」を探す。
人間が集団生活、社会生活をする中で、いじめに通じる「差別」「仲間外れ」「弱いものいじめ」は、決して無くならないと思っている。

だからこそ、だからこそ、である!!

将来的に「多様性のある社会」「みんなが暮らしやすい社会」という理想を目指すためには、一人一人の違いをみんなが認め、尊重することが、どうすればできるか、みんなで考えなければいけない。
あえて、上から「教育」しなきゃいけない、とは書かない。
一人一人が「考えなければいけない」のである。

「共生社会」?今流行りの「SDGs」?
言葉はどうでもいい!!けれど、障害がない人も、変化の激しい現代社会、所得格差が広がったらどうする?明日、事故にあったらどうする?
あと5年後、10年後、あなたは元気でいられますか??
あまり問題を大きくして一般化してもしょうがないし、理想論ばかり並べてもしょうがないかもしれないし、結局、一部の資本主義が牛耳る社会なのかもしれないけれども、一方で、世界はまだまだ考え始めているし、人間考えることを止めちゃだめだ!!

小学生の娘と一緒にパラリンピックを観た。

容赦ない質問が飛んでくる。
「この人は、どうして手が無いの?足が無いの?」
「この人は、病気なの?怪我なの?」
「車いすって、どうやって動かすの?」
「どうして、足にバネみたいなのをつけているの?」
・・・

ボクは、考えながら、何か答えを返す。
その選手について、検索してみたり、推測してみたり、とにかく、自分の中でできる限りの返答を考えてみる。
ホントは「知らんがな!」と言いたいところだけれども、娘が何か考えるヒントになればと、自分なりに返答を考えながら、娘にも考えることを促してみる。

娘との経験だけではなく、職場でも、パラリンピックを観ながらその選手を応援したり、単純にみんなで称賛したりしながら、そのバックグラウンドや、出場に至った経緯などを話すことができた。

・・・そう書くと、障害者の方からは、「私たちは教材じゃない!!」という意見もあると思う。その通りだと思う。

しかし、今回パラリンピックを観ながら、決してパラリンピックが理想的な形とは言わないが、障害者のみなさんに、前に出て来てもらわなければ、自分の目で見えなければ、一人一人が考えるきっかけにもならないのだ、と思った。

みんな、話そうよ!!
みんな、考えようよ!!

もちろん障害者だけではなく、人種・・・肌の色、髪の色、それに、文化、考え方、宗教・・・ボクも日本人で、日本で生活したことしかないし、諸外国では、もっと多様性を自然に認識している国も多いのかもしれない。
ここでまた「日本」という島国のあいまいな共同体認識について書くことは省略させてもらうが、次世代が目指す「共生社会」を考えるきっかけとして、日本でパラリンピックが開催された意義は大きかったと認識した。

長くなるが、以前の会社で、「会議で発言すると損をするぞ!!」と上司が言った。
会議で発言をすると、発言した人に仕事が回ってくるし、仕事の認識度を問われることになるし、それに、発言が「上司への反論」ととらえられると自分が損をすることになる。だから、会議では、報告事項だけ最小限に発言するようにしなさい、という教えだった。
極端な事例かもしれないが、非常に日本的な考え方だと思ったし、ボクは非常に違和感を持って、そういう生き方は止めようと思った。

パラリンピックと映像メディアについて

そもそも、放映権料が莫大に膨れ上がり、かつ、一部の放送メディアに利権が集中しているという、非常に歪んだ構造なので、一概に申し上げられないことは重々承知している。
しかし、あえて申し上げるが、オリンピックの生中継と比較して、民放のパラリンピック中継の少なさは、何なの??

そして、放送権の問題で不可能なことは重々承知しているのだが、電波オールドメディア(NHKと民放)で放送したものでも、配信、オンデマンドで観ることができないという、この時代錯誤の状況・・・

放送権料?広告主の問題?
わかるけれども、今回の無観客開催で、インターネットが普及した現代において、オールドメディアがこの状況を「良し」としていちゃいけないよね?と思うのですよ。

もちろん、国際オリンピック委員会・パラリンピック委員会と、放送権料を牛耳るアメリカ合衆国メディア、そして、日本の各放送局、全てに問題があるわけなのだが・・・

素人が、スマホで映像を撮り、YoutubeやTiktokに上げる、そんな現状だからこそ、映像メディアに対して、仕事として関わっている人には、今まで以上に「映像として伝えたいこと」「映像として記録しておきたいこと」、大きく言えば、映像の持つ、「理念」「理想」や「意義」、そして、人類が「考えるべきこと」に繋がっていく仕事をするべきである、と思っている。

いや、映像を制作するにあたって、1分、1秒、観ている人を飽きさせないようにすることがどれだけ大変か・・・それは、ボクもわかっているつもりです。
そんな理想論、考える暇がない?
いや、考えようよ!
みんなが考えて、話し合うきっかけになる映像を発信しようよ!!

ごめんなさい、言葉ばかり大きくなった。。。
とにかく、パラリンピックは、もっともっと映像メディアで取り上げられるべきだったし、今、映像を放送しなきゃ、いつやるんだよ!!と忸怩たる思いなのであります。

インターネットメディアも含め、映像メディアは、刺激的、麻薬的な動画ばかり無意味に垂れ流していてどうするんだよ!!と、自戒も込めて。

非常に考えさせられた、パラリンピックでした。
パラリンピアンの健闘を讃えて、ありがとう!!

ごめんなさい、あとで加筆修正するかもしれませんが、今回はこの辺りで。
ずいぶん話が大きくなりましたので、異論反論もございましたら、ぜひお話しさせていただきたいです!!

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