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いおり気高い監督、映画「Hysteric Betty」から、NHK先人たちの底力 知恵泉「平塚らいてう」まで

モデルさんであり、ネイリスト、ファッションリーダーとして、多彩に活躍されている、いおり気高いさんが、映画監督、主演に初挑戦された映画「Hysteric Betty」が、見事、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭ノミネート作品に選ばれました!!
心より、お祝い申し上げます!!
おめでとうございます!!

いおり監督と映画「Hysteric Betty

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭、今年は新型コロナの影響もあり、9月19日~21日にかけて、Huluで配信、ボクも拝見させていただくことができました。

監督であるいおりさんは、ボクの「ムーニー劇場第二幕」にて、あの「阿部定事件」を再現、

写真家で、DJでもある常盤響さんと共演いただき、情熱的、熾烈な愛情で、手にすることが許されない相手を欲してしまった、阿部定を熱演いただいた!!

愛するがゆえに

いやぁ、写真と映画という差を超えて、いおりさんの更に磨きがかかった、情熱の演技を映画を通じて見せていただきました!!

本当にありがとうございます!!
おめでとうございます!!!

映画「Hysteric Betty」について、正直な感想を書かせていただく。

まず、ボクの第一印象として、出てくる女性出演者は、一見して「かわいそう」な境遇の人ばかりであり、ボクとしては、最初は、嫌悪感さえ感じてしまった。

この映画は、その「かわいそう」を超えていく女の子の物語であると捉えたので、あえて強い表現を使わせていただく。

「かわいそう」とは、不憫なさまである。同情の気持ちが起こるさまである。

現代において、「かわいそう」という表現は、マイナスのイメージで語られることが多いことはわかっている。
「かわいそう」によって呼び起こされる「同情」は、上から目線の、傲慢な態度である。
その「かわいそう」と思った自分に、ボクは自己嫌悪を感じる。

登場人物の自己肯定感の喪失も、この映画の一つのテーマであると思う。

ボクは、自己肯定感を喪失した登場人物を観て、ボクも自己嫌悪と自己肯定感の喪失を味わったのだ。

正直、正直なところ、耐えられなくなった。
でも、最後まで観た。

少しは自分のチンポと戦えよ!!

映画「Hysteric Betty」に出てくる男性が、これまた、ボクに言わせると、本当に下らない、カス野郎ばかりである。

わずかながら持っているお金や権力などを盾に、くだらないプライドで、女性に限らず、他人に対してマウンティング態勢を取ってくる男、ボクが一番嫌いなタイプの人間である。

とはいえ、ボクも自分のくだらないプライドで失敗を繰り返す人生だった。
油断すると、ボクにも、まだ僅かに残ってくすぶっているプライドがむくむくと暴発しそうになるのを抑え込んでいる。

そして、プライド以上に厄介なのが、男性の性欲である。チンポである。

ボクは、映画「Kenji」でも克明に描いたのだが、思春期以降の人生は、常にチンポとの戦いであり、それは、ボクがチンポを切り落とさない限り、おそらく一生終わらない。

ボクの意思を超えてくる、チンポという存在を抑えつけることに必死だった。

稀にそれは暴走し、悔やんでも悔やみきれない、許しを乞うても許されざる、数々の悲劇を起こしてしまった。

しかし、ボクは、今や、遂に、とうとう、そのチンポの持つ「生殖機能」のおかげで、二人の子供が生まれた。
今、ボクは、その幸せと不幸の、アンビバレンツによる混沌と混乱により、死ぬまで、この「チンポ」という存在といかに生きていくか、悩みは増すばかりなのだ!!

いや、男性が、その性欲といかに向き合って生きていくかは、人それぞれであると思う。
性犯罪、セクハラを起こさない程度であれば、他人の性欲への、それぞれの向き合い方を、ボクは決して否定はしない。

しかし!!
チンポと戦ってきたボクにとって、自分の性欲が赴くまま、性欲に忠実に生きる、頭がチンポになったような男性には、やはり嫌悪感を感じざるを得ない。

確かに、生物としての人間本来の、ナチュラルで本能的な生き方ではあるかもしれない。
しかし、それに「素直でいいね!」と軽く受け流す余裕が、チンポと戦い続けるボクには、無いのだ!!

女性から依存される恐怖感

当然ながら、お金や権力は、男性だけが持っているものではない。

しかし、映画「Hysteric Betty」に出てくる女の子たちは、その生きる術、お金、権威を男に依存しようとする。
この映画で巧妙なのは、単純に「性」を売るだけではなく、女ということを武器にして、男に貢がせ、スポットライトを当ててもらい、輝かせてもらおうとする、あらゆる手法を、リアリティを持って、広く描いたところだ。

元始、女性は実に太陽であつた。
真正の人であつた。
今、女性は月である。
他に依つて生き、他の光によつ て輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

平塚らいてう『青鞜』発刊の辞である。

9月22日、NHKの番組「先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)」が平塚らいてう(らいちょう)の特集だった。

平塚らいてうは、女性解放運動の先駆者であり、自由な恋愛、結婚、男に支配されない「新しい女」の生き方を世に問うた。

しかし、それから100年以上経った今、女性の社会進出は飛躍的に進んだと思うが、一方、その根底的な構造は、何も変わっていないのかもしれない。

映画を観て、そのことに愕然とするとともに、ボクは、女性から依存されることに対して、恐怖を感じることに気付いたのだ。

しかし、何故、ボクが、依存されることに恐怖を感じるのか?

それは、ボクが「何も持っていない」という恐怖から起こるのだ。
依存されても、ボクは何も与えるものなど無い、と、改めて認識した。

正直、本当に正直なところ、自分に耐えられなくなった。
でも、最後まで観た。

最後まで観て、抜け殻のようになってしまった自分を感じた。

2020年10月29日(木)阿佐ヶ谷にて

平塚らいてうについては、次回もう少し書きたいと思う。

唐突だが、2020年10月29日木曜日、阿佐ヶ谷 Cafe inにてDJイベントを開催し、DJをさせていただく。

そのイベントテーマこそ、「Thunderbird」=雷鳥(らいてう)なのである!!

そうだ!!
雷鳥のように、飛ぶ!跳びます!翔ぼう!!
何も無い、何も持っていないボクは軽いのだ!!!

そんな純粋な気持ちで、DJをさせていただきますよ!!

イベントの詳細は、また次回をお楽しみに!!


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