【寅】トラちゃん
虎がいる。
友人が猫を飼い始めたというので、猫好きな私としては「わーい!」と喜んで遊びに行った訳だが、さて実際それはどこからどう見ても虎であった。虎は動物園やサファリパークにいるべきで、こんなアパートの一室にいるべきではない。
でもまさかこんな事があるか? 私は何か見間違えているのではないか? 一度目を瞑って深呼吸をして、それからもう一度、友人の暮らす部屋の中を見た。
虎がいる。
虎だ。これは虎だよ。それも子供でもない、大人の虎が目の前にいるのだ。え? なんで? どういうこと?
「虎柄だから、トラちゃん! って名付けたんだけど、やっぱり安直かなあ? どう思う?」
少し照れたように頬をぽりぽり掻きながら、私に問いかけてくる友人。
「……いや……ええと……虎だよね?」
「うん、トラちゃん」
「そうじゃなくて、だから、あのね。これは虎だよ。虎柄の猫じゃなくて、虎なんだよ」
「…………?」
首を傾げる友人。
「だからぁ!」
つい声を荒げてしまうと、びっくりさせてしまったようで友人の肩が震える。
そして、虎も体を震わす。
「あ、ごめ……いや、え……ねえ、あの、この子噛まないよね……?」
「ん? うん、おとなしい子だし平気だよ。ペットショップの人も飼いやすい性格ですよって言ってたし」
「ペットショップで売ってたの!? 虎を!?」
今の日本はどうなっているんだ一体。え? いや本当にどういう状況、これ。だってこんな、ただのアパートに。
「……この部屋って三階だよね」
「うん」
「……どうやって連れてきたの」
「あー、階段。最初はエレベーターのつもりだったけど、この子にはちょっと狭くて」
階段を上る虎も、エレベーターの中にいる虎も、想像すればどちらも恐ろしい。いや、むしろ一周回って滑稽か? もうよくわからなくなってきた。
「あ、そうだお茶入れるね。紅茶? コーヒーがいい? あ、トラちゃん撫でていいよー」
撫でろと言われても、猫なら喜んで撫でるが、虎との接し方なんてわからない。
「え……ええと……」
「うん?」
友人の部屋にいる虎。
それを私はどうすればいい。
「……い、今気付いたんだけど……」
「うん」
「ストーブ消し忘れてきたかも」
嘘だった。しっかり確認してから来た。ついでに玄関の鍵もかけてあるしコンロの火だって勿論ついていない。でも何か、自分の家に戻る理由を私は必要としていたのだった。
だって、虎がいるから。
虎から逃げたいから。
友人は。
「やばいじゃん!」
嘘を信じた。
「すぐ戻って消してきな! 火事になったら大変だよ! だってあんたんちも、ほら、最近猫飼い始めたって言ってたじゃん! 火事になって、なってさ、猫が死んじゃったらやだよ!?」
ああ、いい友人だ。私はとてもいい友人を持った。
そんな友人は私の為に、私の家の為に、私の家にいる猫の為に私を追い出すように背を押した。
ごめんなさい。ごめんなさい、違うの、あなたの部屋に虎がいるから、私は自分の身を守りたくて、ただ逃げ出しただけなの。あなたを置いて。あなたが虎に噛まれてしまうかもしれないのに。
だけど、だからってどうしたら良かったんだろう。友人はあれを虎だと思っていなかった。説得しても、納得してもらえないかもしれない。警察や保健所に通報する? それで、それで友人から、何も納得していない友人から強引にトラちゃんを奪うのか?
どうすべきか悩みながら、私は自分の家に戻った。
玄関扉を開けると、ミルクちゃんが出迎えてくれる。
最近飼い始めた、うちの猫。
牛柄だから、牛→牛乳→ミルク、でミルクちゃん。これもちょっと安直だろうか。
「ミルクちゃん、私、どうすればいいのかな」
ミルクちゃんの大きな体に抱きつくと、ミルクちゃんはまるで私を慰めるかのように、優しい声で鳴くのだった。モー、と。
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