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歴史の闇に隠されたかぐや姫のモデル

「竹取物語の宗教観と月信仰1-2」に続く投稿です。

かぐや姫に歴史上のモデルがいたとすると、それは誰でしょうか?

あるいは、「竹取物語」には、かぐや姫と竹取の翁の前世がほのめかされているので、その前世として想定されているモデルがいれば、それは誰でしょうか?

「竹取物語」の時代設定は天武-持統-文武期なので、かぐや姫のモデルはこの時代に探すことになりますが、九州王朝論者から筑紫王朝の姫とする説が出されています。  

一方、垂仁天皇の妃に「迦具夜比売」がいることから、崇神-垂仁期を想定して、丹波王朝や葛城王朝、あるいは、宇佐豊国系などの姫をかぐや姫(の前世)のモデルとする説が出されています。

また、「竹取物語」の作者として紀貫之ら紀氏の人物があげられていますが、紀氏の姫も両期のモデルの候補者と考えることができるでしょう。

どれも、推理の遊びの域を出ないものかもしれませんが、それも楽しいものです。




隠されたかぐや姫のモデル


正史の「日本書紀」や、「古事記」は、歴史の勝者である天皇家と藤原氏によって書かれた歴史書です。
ですから、彼らにとって都合の悪い歴史、つまり、別の王朝や、皇位争いで排除された皇族、あるいは、藤原氏によって排除された氏族の歴史は、消されたり、修正して隠されたりしていると推測されます。

「竹取物語」が書かれたのは、藤原氏の摂関政治が始まった頃です。
「竹取物語」は作中で、当時、権力を持っていた5人の貴族について批判的に描いています。
当時、絶大な権力を持っていた藤原氏の祖先の不比等をモデルにした車持皇子についても、「心たばかりある人(策略家)」と批判しています。
つまり、「竹取物語」は、明らかに反藤原氏、反主流派の立場から書かれています。

ですから、かぐや姫のモデルになった女性がいたとしても、その本当の姿は正史からは隠されていると推測されます。
だからこそ、それを暗示するために「竹取物語」が書かれたのでしょう。

正史以外の古代史については、確証のない諸説があり、どれを信じるかという話になってしまいます。
それによって、「竹取物語」の隠された意図の解釈は、大きく変わってきます。

いずれにせよ、かぐや姫と前世のかぐや姫の真のモデルがいたとすれば、それは正史によって隠された、月神の巫女(姫)だったと推測できます。


かぐや姫の時代


かぐや姫に求婚した5人の貴族は、その2名は名が隠されていますが、天武-文武期頃にかけての人物です。

具体的には、以下の通りで、2名のモデルについては、江戸時代の国学者の加納諸平以来の定説です。

・車持皇子=藤原不比等
・石作皇子=丹比真人島(多治比嶋)
・阿倍御主人
・大伴御行
・石上麻呂足=石上麻呂

*不比等の母が車持氏という伝承あり、丹比氏は石作氏と同族

この5人は、持統10年(696年)と、大宝元年(701年)に褒賞に預かっています。

2人の名が偽名にされたのは、「竹取物語」が作られた当時も、その氏族がまだ権力を持っていたからでしょう。


かぐや姫の前世の時代と倭姫


「古事記」によれば、垂仁天皇の妃に「迦具夜比売」という名の妃がいて、この女性がかぐや姫のモデルではないかと言われています。
また、その父の名が「大筒木垂根王」、おじの名が「讃岐垂根王」なので、両者、あるいは、どちらかが竹取の翁のモデルであると考えられます。
「筒木」は竹を意味します。

ですが、「竹取物語」の設定時代と違うので、前世のモデルと考えることができます。
もちろん、先に書いたように、真のモデルではなく、隠されたモデルです。

垂仁天皇は、不死の仙薬を求めたことでも知られています。

また、「日本書紀」によれば、垂仁期に、娘の倭姫命がアマテラスを伊勢に遷座する巡幸を行い、伊勢神宮を創建したとされています。

この倭姫の巡幸に付き従っていた五大夫がいます。
アマテラスの大和からの追い出しに加担した人物です。

実は、「皇太神宮儀式帳」によれば、この5人のうちの4人が、かぐや姫に求婚した5人の貴族の先祖に当たるのです。(西山寛賛「竹取物語と紀貫之」)

・中臣大鹿嶋 ←車持皇子=藤原不比等
・物部十千根 ←石作皇子=多治比人嶋、石上麻呂足=石上麻呂
・阿部武渟川別←阿倍御主人
・大伴連武日 ←大伴御行
・和邇彦国茸
 

*石作氏、石上氏は物部系

このように、垂仁期が、かぐや姫の、そして、天武-文武期の「前世」に当たると見ると、いくつもの符合が合います。


前稿でも書いたように、倭姫の巡幸は史実ではなく、後から作られたものと推測されます。
アマテラスを皇祖神とし、伊勢神宮が創建されたのは、天武-文武期だからです。

ですが、垂仁期に何らかの史実があって、それを書き換えたものかもしれません。

また、「竹取物語」の作者は、記紀の情報を信じていたのかもしれないですし、何らかの別の伝承を持っていたのかもしれません。


「万葉集」では「アマテル(アマテラス)」は、海(アマ)を照らす月を形容する言葉なので、アマテラス神はもともと月神だった可能性があります。(三浦茂久「古代日本の月信仰と再生思想」)

「日本書紀」によれば、アマテラスは崇神期に祟ったため、これを恐れて宮中から出されて笠縫で祀られていました。
「笠」とは、月の笠(月暈)であり、アマテラスが月神であった傍証の一つです。

アマテラスは、祟り神として、穢れの発生しやすい宮から、そして、大和から遠ざけられて、伊勢に封じられたとされているのですが、史実では、祟ったのは月神だったのかもしれません。

倭姫が巡った地は、伊勢も含めて、いずれも月信仰が盛んな地でした。
伊勢内宮の秘本「倭姫命世紀」にも、アマテラスの和御魂が月天子であると書かれています。
和御魂が月神なら、荒御魂も月神です。

つまり、倭姫は、垂仁天皇に大和から追い出された月神の荒御魂の巫女だったのかもしれません。

そして、三輪王朝の祖である崇神は、回りの国を攻め滅ぼしたと考えられますが、それらの国は月神信仰を持っていて、それらの国から妃を迎えていたのかもしれません。


筑紫王朝の姫島の乙女


他の投稿で紹介したことがあるのですが、まず、「竹取物語」の設定年代である、天智-文武期におけるかぐや姫のモデルについて紹介します。

九州王朝説の論者によれば、かぐや姫に求婚した5人は、九州王朝系の高市皇子(高市天皇)の殺害や、九州王朝のレガリアの奪取、つまり、九州王朝の簒奪(竹斯(チクシ)取り=竹取)に功績があった人物です。

室伏志畔によれば、かぐや姫の舞台である広陵町の讃岐神社周辺には、次のようなかぐや姫伝承が残っています。

かぐや姫がはるばる九州からお輿入れのためにこの地まで来たけれど、高市天皇の突然の崩御を聞き、悲嘆に暮れる中、次々と「色好み五人」に求婚を迫られ、逃げるように九州に戻ったと。

室伏は、「万葉集」二、三巻の歌で詠まれている糸島半島の姫島に隠れ住んでいた姫島の乙女が、かぐや姫のモデルであると言います。
彼女は、九州王朝のラスト・プリンセスで、平城京遷都の翌年に水死自殺しました。

彼女は、九州王統の高市天皇に嫁ぐはずだったのですが、高市天皇が謀殺されてしまいました。
作中の天皇のモデルは、高市です。

5人が褒賞を受けた持統紀10年(696年)は、高市天皇の死の直後です。

そして、彼女から三種の神器を奪おうとしたのが、近畿王朝の実力者達だったのですが、それを拒否したのです。
そして、筑紫に戻った後、亡くなりました。

かぐや姫の遺品を焼却したのが「富士山」だったことは、姫島の乙女が九州王朝の名家である「藤」氏の姫であることを暗示しています。
藤氏は、藤大臣と呼ばれた武内宿禰、そして、倭の五王につながる血統です。

不比等は、藤宗家の姫と結婚に失敗したため、この宗家があっては困るので、彼女を水死に追い込みました。
そして、「藤原」の姓を名乗り、藤原氏の家伝を「藤氏家伝」としたのは、この名を乗っ取ったことを示しています。


また、斉藤忠によると、5人のうちの一人、大伴御行は、騙されて、結果的に何らかの形で、九州王朝のレガリアの奪取に利用されたのだと推測しています。

近畿の日本国最初の年号「大宝」は、このレガリアを奪ったことを表現しています。
ですから、大宝元年に、改めて5人が褒賞に預かったのです。

詳細は、下記をご覧ください。


九州王朝は、月信仰を持っていたようです。

久留米市にある筑後一宮の高良大社の祭神は「高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)」です。
「高良玉垂宮縁起」によれば、この神は、筑紫に降臨した月天子(月神)です。
「玉垂」とは、月の霊力の下降を意味しているのかもしれません。

「万葉集」には、「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(四二六一、読み人知らず)という歌があります。
九州王朝論者は、これが、倭の五王の頃、久留米の水沼(三瀦)が倭国の都だった証拠と考えています。

高良山は九州王朝の聖山であり、月神の山でした。
そしてこの山には、金色に光って見える天然記念物の竹、孟宗金明竹があります。

詳細は、下記をご覧ください。

*このパラグラフの参考書籍
室伏志畔「誰が古代史を殺したか」(世界書院)
斉藤忠「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎」(学研プラス)


丹波王朝の迦具夜比売と竹野媛


次に、垂仁期のモデルに関する説です。

まず、垂仁の父の崇神天皇は、大和の征服王で、神武と同一人物といった説もあります。
そして、四道将軍の一人を派遣して丹波を討伐したことでも知られています。

記紀によれば、垂仁天皇の皇后の狭穂姫命は、兄の狭穂彦王と共に謀反を起こして亡くなりました。
この時、狭穂姫命の要望に従って、垂仁天皇は、丹波道主命の娘たち4人を娶っています。
ですから、謀反を起こした狭穂彦・狭穂姫は、丹波と関係が深かったことが推測されます。

アマテラスを伊勢に遷座させた倭姫を生んだ日葉酢媛も、丹波系の女性です。

このように、崇神-垂仁期には、大和朝廷は丹波と戦いがあり、多数の妃を娶っていました。
丹波王朝の論者に中には、崇神が立てた三輪王朝以前に、大和を含む近畿において、丹波王朝が大きな力を持っていたと唱える論者もいます。


「古事記」は、垂仁の妃の一人を「迦具夜比売」と記しています。
「日本書紀」は、この人物を記していないので、意図的に消している可能性があります。

ですが、「日本書紀」は、垂仁の妃の一人に、丹波出身の「竹野媛」の名を記しています。

丹波(旦波)王朝は竹野川周辺を中心としていて、月信仰や竹と深い関わりがありました。
丹波道主一族も、月神の子孫を称していました。

「竹野媛」は、形姿が醜いとして丹波に返され、それを恥じて自ら死にました。

「竹取物語」では、かぐや姫は、竹野姫と反対に絶世の美人とされます。
ですが、かぐや姫は、物語の中で、美しくないのに嫁いで相手の気が離れたら後悔する、と語るシーンがあります。
これは、竹野姫の話を受けたものでしょう。

竹野姫が前世のモデルなら、自殺したことがその罪なのかもしれません。

このように、垂仁期に、大和朝廷(三輪王朝)は月神の国、丹波を討伐し、その姫を娶っており、その妃の中には丹波に帰った者もいました。
彼女らが、かぐや姫の(前世の)モデルであった可能性は、かなり高いのではないでしょうか。


また、記紀では、少し時代を下ることになるのですが、「古事記」では「迦具漏比売」を景行天皇と応神天皇の妃とし、「息長真若中姫」を応神天皇の妃としています。
丹波王朝論者の佐藤洋太は、どちらも迦具夜比売と同一人物だと推測しています。
そして、迦具夜比売の父の丹波道主が、丹波王朝の最後の王だったと。(「かぐや姫と浦島太郎の血脈」)


葛城王朝の迦具夜比売


崇神が倒したのは葛城王朝だという説もあります。

歴史学者の鳥越憲三郎は、大和最初の王朝である葛城王朝を、巻向の崇神が倒したという説を主張しています。(「神々と天皇の間-大和朝廷成立の前夜」)

そして、崇神の父とされる開化天皇以前の皇統譜は、実際には葛城王朝の系譜なのだと。

詳細は、下記をご覧ください。


小説家の中津攸子は、おそらくこの説を受けて、「古事記」が記す「迦具夜比売」と、父「大筒木垂根王」、叔父「讃岐垂根王」を、葛城王朝の妃と王であると推測します。(「かぐや姫と古代史の謎」)

彼女の推測によれば、崇神との戦いの時に、大筒木垂根王が戦死しました。
そして、娘の迦具夜比売は、叔父の讃岐垂根王に引き取られて育ちました。
この叔父が、讃岐造という名であった竹取の翁の(前世の)モデルです。

そして、迦具夜比売は、新王朝(垂仁)へ嫁ぐことを求められたものの、これを拒否して自害したのです。


中国の伝説では、月に桂の木(月桂)があるとされます。
「葛城(カツラキ)」の名は、「葛(カズラ)」ではなく、桂木(カツラキ)のことだという説があります。

葛城王朝はタカミムスビを祀っていましたが、これは月桂にやどる月神だったのかもしれません。


宇佐豊国の豊姫、菟狭津媛


出雲王家(富家)は、宇佐豊国の月の巫女である豊姫(台与)の伝承を伝えています。

これによれば、宇佐豊国は、九州にいた崇神と同盟して大和に侵攻しました。
ですが、子の垂仁に裏切られ、豊姫は、丹波を経て伊勢に逃げたものの、追手によって殺されました。

また、豊姫は、豊玉姫の娘であり、育てたのは忌部の祖である手置帆負命でした。
かぐや姫の名付け親は「斎部(忌部)秋田」であり、竹取の翁は忌部の配下の人物です。

つまり、かぐや姫の(前世の)モデルがこの月巫女の豊姫であり、竹取の翁の(前世の)モデルが忌部氏の手置帆負命だとすると、「竹取物語」と不思議に合致します。


ちなみに、宇佐氏の伝承でも、菟狭津媛が神武の妃となって東征に参加したと伝えています。

宇佐(菟狭)族の主神は、月女神の月読尊であり、祖はタカミムスビです。


両家の伝承は、長く口承で伝えられてきたものであり、歴史学的には根拠になりません。
また、両者が伝承する歴史には相違点も多数あります。
ですが、共通点があることも興味深いと思います。


*このパラグラフの参考書籍
斎木雲州・勝友彦の著作(大元出版)
宇佐公康の著作(木耳社)*未読


紀伊国の豊鋤入姫命


紀氏は応天門の変の時、藤原氏によって排斥された氏族です。
そのため、「竹取物語」の作者の候補として、紀貫之や紀長谷雄があげられています。

実は、あまり指摘されることがないようですが、紀氏は、藤原氏だけではなく、天皇家や忌部氏にも恨みを持つ、月神の氏族である可能性があります。


紀伊国一の宮の日前・國懸神宮のある「日前(ヒノクマ)」は、太陽が沈む西の地という意味で、太陽が昇る東の地の伊勢神宮と対になる神社で、日の鏡を御神体としてアマテラスと同体の神を祀るとされています。

ですが、両神宮がある場所の地名は、和歌山市秋月です。
この地名は、この神社が本来は、月神を祀っていたことを示しています。

紀氏は、海人族なので、月神を祀っていたと考える方が納得がいきます。
紀氏は、タカミムスビを祖神としますが、これも月神だったのかもしれません。

だとすると、持統天皇が紀伊国に行幸したのは、月神から太陽神への祭神の変更の依頼が目的だったのでしょう。


崇神の時に祟ったアマテラスは、月神だったかもしれないと、先に書きました。
この時、アマテラスを宮中から笠縫邑に遷座させたのは皇女の「豊鋤入姫命」ですが、この姫を生んだのは、紀国造の娘、遠津年魚眼眼妙媛なのです。
つまり、紀氏系の巫女が月神とともに宮中から追い出されたのかもしれません。

歴史を遡れば、「日本書紀」に、崇神と同一人物説もある神武が東征した時に、紀伊(和歌山市)の巫女である名草戸畔(名草姫)を討伐したとあります。
彼女も月神の巫女であったかもしれません。


竹取の翁は讃岐忌部氏の配下の人物でした。
忌部氏には紀伊忌部氏がいます。
6Cに大和朝廷が忌部氏を送り込んで、日前・国懸神社を忌部氏の配下に組み込んだのです。(「和歌山県史」)

忌部氏は紀氏に太陽女神アマテラスの信仰をさせたのでしょう。
ですから、紀氏は、忌部氏にも恨みがあるのではないでしょうか。

竹取物語では、忌部配下の竹取の翁は、かぐや姫に去られて、病に伏してしまいます。


このように、紀氏の姫も、かぐや姫、及び、かぐや姫の前世のモデルである可能性を考えることができます。


まとめ


以上のように、様々な事実と推測を考え合わせると、大和の天皇家や藤原氏によって排除された、月神を祀る様々な氏族があったのかもしれません。

そして、それら氏族の多数の姫が、かぐや姫のモデルであり、様々の時代の恨みと鎮魂が、「竹取物語」に反映されているのかもしれません。


*最後に、誤解のないように書いておきますが、3つの投稿で紹介したような月信仰に関する事実や推論、例えば、アマテラスが月神だったかもしれないとか、大和の配下に下った諸国が月神信仰を持っていたかもしれないといった説は、ほとんど知られておらず、支持する人もほとんどいません。



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