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文化人類学こそ精神医学の目指す場所なのかもしれない

ちょうど京アニ放火事件の判決が出ましたね。

本件にまつわるすべての方々、ひとまずお疲れ様でした。
被告が精神疾患の疑いがあり、精神鑑定も入っていたため自分も注意して見ていました。
翌日には控訴していました。まだまだ裁判は続きます。
自分も引き続き注目していきます。

今日はこのことについて話してみようかなあ、とか思ったのですが、さすがに憂鬱な話題になるし、司法精神とかそこまで詳しくないのに色々話すのはちょっと気が引けるなと思って辞めました。
リスク管理は大事。
ちなみに、本件についてツイッター(現X)でひろのゆきあたりが色々言っていたみたいですが、自分の感想は次の通りです。

世の中、思ったより後出しじゃんけんがお好きな方が多い様子で。

そんなネットのガンジス川を漂っていましたら、こんなツイートを見つけました。

さて、この福井栄二郎先生の発言ですが、かなり面白そうだなあ、と思ったので今日はこれを掘り下げてみます。



もるげんの知る文化人類学

自分は昔から文化人類学が好きだな、とは思っています。
思っていたのですが、記事を書くにあたって「自分はどれくらい文化人類学の本を読んだかな」と本棚を振り返ってみました。
調べた結果、フレイザーの「金枝篇ジャレド・ダイアモンドの「鉄・病原体・銃メアリ・ダグラスの「汚穢と禁忌」を半分くらいしか読んでいないことに気が付きました。マジかよ自分。
他に読んでいたと思うのですが、記憶にございません……。
ただ、多分好きだなあ、と思ってたし、もともと民俗学とかは好きだから絶対好きです。
ゆる言語学ラジオの「ピダハン」回とかめっちゃ面白かったし。

さて、そう思ってみると、実は自分はよくわかっていないのかもしれない。
それでも、わかる範囲でいろいろ書き綴っていきます。

文化人類学は何をしているのか

文化人類学の源流の一部には、確かダーウィンの影響があったはずです。
つまり、それまで「進んだ西欧、劣った未開国」という価値観が優勢だったヨーロッパで、ダーウィンの進化論が発表されるとこの価値観の転換が起こります。
つまり、「劣っていたと思った国々は、ただ単純にその環境に適応しただけではないのか」という価値観です。
そこから、西欧的価値観で判断するのではなく、その地域や国々の文化に即し、叙述して学問する。
これを旨とするのが、文化人類学だと介しています。
ただ、起源はあいまいでーす。

文化人類学の特異性はフィールドワークにあります。
直接、その部族や文化圏に入り、生活し、共同体の一部となって彼らがどのような生活をしているかを著述することを最大の仕事とする。
他の学問分野には見られない、ある種のダイナミズムを合有した学問領域です。

精神医学の限界

そういう意味では文化人類学の試みは、およそ現代自然科学の潮流とは異なります。
なぜならば、自然科学は再現性を重視します。
多くのサンプルを集めてそのサンプルから仮説を打ち出し、さらに実験を経てその仮説を実証します。
n=多数のサンプルを重視するのが自然科学です。

一方で、文化人類学はn=1の貴重性を重視します。
無論、この積み重なりを重視していますが、何よりも研究者がフィールドワークに入り、自身の見たもの、経験したものを学問として重要視することは、自然科学のデータの扱いとは異なります。

精神医学はちょうど、この問題の中間に位置します。
精神医学が生命科学の潮流に迎合したのがおよそ1980年代(DSM-Ⅲの制定された年をそうしています。ただ、それ以前から薬理の探求は始まっています)。
相手の精神的な動きを重視して診断する記述精神医学や力動精神医学から、決まった症状から診断を決定してく操作的診断へと転換し、およそ半世紀が経過しています。
それでもなお、精神医学は精神疾患の中核を掴むことは未だに成っていません。
そもそも、生命科学のアプローチでは解決するか分からない問題も山積しているのがこの領域です。
一定の診断基準で患者を没個性化して分析しているが、この方法では遅かれ早かれ、限界を迎えるのではないか、と危惧する方も多くいます。

文化人類学は精神医学の目指す場所なのかもしれない

最近、精神医学の徒として仕事をしたり研究をしているのですが、上記方法だけでいいのだろうか、と疑問に思うことが多々あります。
生命科学以外の方法論で精神医学を検証しなおす必要があるのではないか。
そう考えると、哲学や社会学といった、n=1を大切にする学問の知見は重要じゃないかなと思います。

特に文化人類学から学ぶことは非常に多いと思います。
精神医学の臨床とは、患者の文化に入り、学び、知ることに他なりません。
その文脈において、文化人類学は近しいものがあるはずです。

我々精神科の基本的技法のひとつに共感というものがあります。
foot one's feel into someone's shoes」という言葉に示されるように、「他人の状況という靴に足を踏み入れること」です。
たしかに、近しい気持ちにはなると思います。
それでも私と貴方との間には大きな隔たりがある。
この居心地の悪い靴の感触を、私は絶対に貴方と同じように感じることはできないだろうな。

共感には二つあると言われています。
頭で状況を理解し、相手の感情や状況を理解、推察する認知的共感
相手が感じている感情を自分の気持ちとして感じる、情緒的共感
冒頭の福井先生の発言は、ともすると認知的共感のように思われます。
けれど、自分にはこのどちらでもない、もっと難しい共感なのではないかと思います。
臨床の現場でも、自分自身が渦中に巻き込まれ、まるで患者さんと同じように感じながらも、「患者さんとは違う」というラインによって微妙なズレが生じることがあります。
勝手な想像ですが、このズレを大切にすることが相手を尊重し理解を示すことの重要さなのかもしれません。

そして、これを知るにはもっと文化人類学を学ばねばなりませんね。

ちなみに、昔は比較文化精神医学というとても面白いジャンルがあったそうです。
最近はとんと学会でも見ませんね……。

文化と人類の狭間で

精神医学に関わらず、創作においてもこの知見は大切だろうなあ、と思っています。
少なくとも、人を尊重して理解するというアプローチにたけているのが文化人類学。
仕事でも創作でも、今まさに学びたい学問のひとつです。

まずは、家に積んでいるピダハンを読み解くとしますかあ。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
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