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家族に決断を迫られる延命治療について

去年から続く両親介護の中で、一番気が重かったのは身体の状況が悪くなっていくと延命治療をどこまでやりますか?という決断を医療から突きつけらることが、精神的に一番キツかった。

親が元気なうちに確認できれば良いのだが、元気な時にそんなことを考える人も稀なんじゃないかと思う。

延命治療は主に以下のものがあると認識しました。医療関係の人には当たり前のことかもしれませんが、違っていたらご指摘ください。

まずは胃瘻を含む栄養補給および水分補給。その補給方法である点滴をどういう状態で取るか、医療に関わらない普通の人にとっては腕からの点滴っていうイメージだと思うのだが、血管が脆くなると腕や足から取れなくなるので中央静脈点滴という方法があることも医者から説明を受けた。

またほんとに救急になると心臓マッサージをやるかどうか、人工呼吸器はつけるかつけないか?またそれも口からの挿入するのではなく、喉を切開するかなど、その都度どうしますか?という質問をされます。

医療が発達していなかった頃は、人は老衰で自然に死んでいくものだったと思う。正直意識がない状態で延命治療を施すと、管に繋がれ状態で骨と皮だけなっていく親の姿を目の当たりにしなくてはいけいないということだ。これをどう捉えるかは、その家族や本人の意思次第だと思うが、安楽死の問題が取り上げらたりしますが、自然に亡くなるってことを今一度、自分に置き換えて考えることも大事なんじゃないかと感じている。

また人工呼吸器も1度つけたら、取ることができないのが日本にルールだ。これも私はかなり急を要する状況で決断を迫られた。その時の決断は正しかったのかは今でもよくわからないですが、父の死を受け入れる時間を二ヶ月もらえたことがある意味良かったのかなとは思っている。

でも今一番後悔していることは、家の建て替えのことを地主である不動産業者と私が話を進めていって、そうするのが一番良いと父を誘導してしまったことだ。たぶん父もそれが財産を残すという意味でも、最善だと判断してサインしてくれたのだが、気持ちの上で生まれ育った家を失ってしまうという喪失感が父の死期を早めてしまったのではないかという自責の念に今は囚われいる。
結局すぐに取り壊すのはやめようという気持ちになって計画を練り直ししているのだが、なぜあんな老朽化した家に執着していたのか、父の気持ちを知る術はもうないのだが、人はそれぞれ自分しか分かり得ない執着心というものがあるのかもしれない。その気持ちをもう少し尊重するべきだったのかもしれないが、父が財産整理を何にもやっていなかったので、その処理を今私がやっているということが、気持ちを汲んであげれなかった私への罰なのだと思って今は粛々と進めています。


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