『ぼくらのSEX』を読んで(2)

まえがきでは、SEXがどういうものなのかについて説明がされています。

僕もSEXや性についていろいろとコラムを書いてきたので、SEXをどう定義するのかで悩んできました。一般的にはSEXは、生物学的な性別のことであり、性行為のことでもあります。この本では、後者を採用しながら、SEX=性としていました。

“性”という言葉もまた定義するのが難しいです。性教育が、何を教え育むものか明確な答えを持っている人は少ないです。比較的よく言われているのは、人権教育だとか命の授業といったものです。この本では、性を「心で生きること」と定義していました。これは、最近よく聞く言葉で言い換えると、「ありのままの自分で生きる」ということになるかと思います。

〈SEX=性〉とし、〈性=心で生きること〉とするこの本では、「SEXは人間が生きていくためのエネルギー」「SEXは生きることの核心」「SEXは人間のするすべてのこと、自己表現と言われるものを可能にするエネルギー」と説明されています。この説明を読んだ時に僕は、仏教における“性”の定義の一例を思い出しました。そこでは、〈性=本質の心〉となっていて、煩悩と呼ばれるものを一つ一つ剥がしていった先に残っているものが本質の心であり、それを性と呼ぶ、という説明でした。

僕はこの説明がすごく腑に落ちました。同性愛の人が、自分が同性愛者だと気づいていく過程を思い浮かべてみます。体の性別とは違う異性を好きになるのが当たり前と言われている社会で生きていく中で、どうも自分はそうではないと違和感を感じ始めます。その違和感を解消するために、心を一生懸命コントロールしようとしたり、否定したり誤魔化そうとしたりします。でもやっぱり自分が好きになる相手は同性です。

〈性=本質の心〉は、社会的影響を受けたり、意志によって意識的に書き換えようとしても変えることができないところなのです。本質の心で誰かを好きになったことをそのまま認めることができた時に、人はあるがままの自分で生きている、心で生きていると感じることができます。好きという気持ちが相手に受け入れられたらそれは最高ですが、例えそうならなかったとしても、自由に誰かを好きになれるということはあるがまま生きていることの証です。LGBTQといった性的マイノリティーの方達もあるがままの心で生きられる社会にしていこう、という昨今の流れは、〈性=本質の心〉を大切にしていこうということなのです。

それから、〈SEX=性=心で生きること〉における“心”は人それぞれ違うもので、社会的や一般的に正しい唯一の正解はないが、それぞれにとっての正解、正しさはあるよと書かれています。そして、「あなたにとっての正しいSEX」を考えることが大切であるとも。ここですごく重要になってくるのが“考える”ということです。

この本は性教育の本なのですが、誰かが考え出した正解を教わるのではなく、各自が考えて、考えて、自分なりの正解を見つけていけるようになる方向付けをしてくれるだけです。しっかりと考えることができれば、「自分というものはこういうものなんだ」とわかってくるとのことです。また、そこにたどり着けると他者と関わっていくことができ、行為としてのSEXをするタイミングだと言うのです。

これを僕なりに解釈すると、あるがままの自分を認め自立していくことをが大切であり、自立できた者は他者とちゃんと向き合える、となります。自立とは、自分のちっぽけさを受け入れることであり、人間が根源的に抱えている孤独を受け止めることです。人間は生まれる時も死ぬ時も一人、とよく言われますが、一人だからこそ他者を求めます。この本の中でも「人間は生きている限り『一人ぼっちじゃ嫌だなぁ、他人と関わりを持ちたいなぁ』と思うもの」と書かれていましたが、関係欲と呼ばれるものが人間にはあります。他者とどのような関係を築いていくのかが、その人の生き様となります。そして、関係の行為の一つにSEXという性行為があるのです。ちゃんと自立していない人が性行為をすると、相手や自分が傷つく可能性が高まります。

〈SEX=性〉を考えていくことは、自分と向き合うことであり、他者と関わっていくことでもあります。これは僕の捉え方ですが、命の誕生は、性の本質ではなく、性の結果だと思います。既存の性教育では、命の誕生を中心に授業が展開されていますが、性の本質は生殖ではなく、心で生きていくことと、他者を自分と同じように尊重しながら関わっていくことだと思います。人間は他の動物と違い、生殖を本能的にするのではなく、文化的行為として学習してするものです。

これが、僕が考えてきた、性、SEXです。

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